『光』 映像を言葉にすることの難しさ

 『あん』『2つ目の窓』など河瀨直美の最新作。
 映画の“音声ガイド”という珍しい仕事を取り扱った作品。

河瀨直美 『光』 カンヌ国際映画祭ではエキュメニカル賞を受賞した。


 映画の“音声ガイド”の仕事をしている美佐子(水崎綾女)は、その仕事で弱視のカメラマン・雅哉(永瀬正敏)と出会う。美佐子の仕事に対して遠慮なくズケズケと意見を述べる雅哉に苛立ちつつも、美佐子は雅哉のことが気にかかるようになり……。

 映画の音声ガイドとは、視覚障がい者の人に映像を伝える仕事。音声ガイドは登場人物の動作や舞台となる場所の情景を言葉にして伝えていく。『光』では、音声ガイドの仕事ができあがっていく過程を追っていくことになるのだが、普段あまり触れることの機会のないこの仕事に注目したところがよかったと思う。
 映画作品はまず最初に脚本という言葉で書かれたものがあって、それを元に映像化したものが生み出される(言葉⇒映像)。音声ガイドはその逆に、出来上がった映像を再び言葉に直して再構築することになる(映像⇒言葉)。
 そんなわけだからブログで映画の感想をしたためたりしている人にとっては、映像から言葉をつむぐという点では何かしらの共通点を感じるんじゃないかと思う。音声ガイドは映画作品と視覚障がい者をつなぐ役割を果たしているわけだけれど、こうした映画ブログも映画作品をまだ観ていない人とつなぐ役割をしている部分もあるからだ。もちろん映画ブログは宣伝や紹介ばかりではないわけで、好き勝手な解釈を述べ立てるというものもある(このブログはどちらかと言えば後者)。
 しかし音声ガイドはそうした主観が交じってしまってはいけないという点が難しいところ。それは押し付けがましいものになってしまうからだ。見えている音声ガイドが、見えない視覚障がい者に自分の見方を一方的に押付ける。これでは作品の豊かな世界が音声ガイドによって矮小化されてしまうかもしれないのだ。

河瀨直美 『光』 主人公・美佐子(水崎綾女)は音声ガイドの仕事をしている。クローズアップに勝ち気そうな表情が映える。

◆映像と言葉
 映像と言葉では情報量が違う。そんな意味のことを村上龍だか誰かがどこかで言っていた。これは比喩でも何でもなく、端的に記録媒体に保存するときの容量の話だ。たとえば一番上に貼り付けたこの作品のポスター映像であるJPEGファイルは約45キロバイトの容量だが、このレビューのすべての文字をテキストファイルにしても約5キロバイトにしかならない。
 上の映像を見るのは一瞬でも見た気になれるけれど、この文章をすべて読もうとするとそれなりの時間がかかる。それでも情報量は映像のほうが断然大きいということになる。映像は一瞬でも感じ取れるかもしれないけれど、細かい部分を見ようとすればもっと読み取れるものもあるのだ。
 『光』の劇中では美佐子の故郷の村の場面があるが、村を遠くから捉えたワンシーンにも色々に読み取れるものがある。人里離れた山奥の村であるとか、木々の季節感とか、山の向こうの空の様子とか、人によって見るところは様々だ。しかもこのシーンではよく目を凝らすと張り出した木の枝にはセミの抜け殻がぶら下がっていたりもする。たった2、3秒のシーンでもそうした様々な情報が読み取れるわけで、音声ガイドはそのどこかを取捨選択していかなければならない。

◆人の表情
 それから人の表情を言葉で説明することも難しい。美佐子はある架空の作品にたずさわっているのだが、その劇中劇は主人公の男(藤竜也)と介護されている認知症らしき女の物語だ。美佐子は主人公の表情を「希望に満ちた」という主観的な表現をして雅哉(永瀬正敏)に批判されることになる。
 実際に主人公がそんな表情をしていたのかはわからない。ただ美佐子の選んだ言葉では、受け取った側はほかにどんな解釈の仕様もないわけで、音声ガイドとしては問題ありということになる。この失敗は美佐子がまだ初心者ということが原因でもあるのだが、それ以上に美佐子のプライベートな部分とも関わっている。美佐子は自分が認知症の母親を抱えているという現実もあって、劇中劇の主人公にも希望を見出そうとしてしまうのだ。
 このブログはごく個人的な感想なり解釈なりを書き散らしているものだけに、様々なバイアスがかかっていることも前提となっているし、見方に偏りがあることも当然なわけだけれど、音声ガイドはそうした主観的なものを排除してできるだけ客観的な言葉を選んでいかなければならないのだ。

 『光』という作品は、そうした映画の見方の色々を考えさせる内容となっているところが魅力だろうと思う。たとえば劇中劇では主人公が寄り添っている女にスカーフをかけてやる場面がある。ここでは寒さを気遣う主人公のやさしさが描かれてもいるのだけれど、それと同時にそのスカーフは女の首を絞めるようにも見える。認知症ですべてを忘れてしまっている女を殺して楽にしてやろうという葛藤が見え隠れしているわけだけれど、それを言葉にしようとするとどうしてももたついてしまう(ブログを書いていても日々実感すること)。映像に合わせてそれを的確な言葉に置き換えていくという音声ガイドの仕事は、とてつもなく難しい仕事のようにも思えた。

河瀨直美 『光』 美佐子(水崎綾女)と雅哉(永瀬正敏)は次第に近づいていき……。

◆ふたりのラブ・ストーリー?
 『光』は極端なクローズアップで美佐子と雅哉のことを映し出していく。これは弱視という設定の雅哉の視点に影響されているということなのだろう。弱視の人は対象に近づかなければそれが見えないし、逆に見られる側の美佐子としても相手の目があまり見えていないという意識があるから接近することにも抵抗感が少なくなるからだ。
 そんなふたりが結びつくという展開に必然性がないといった意見もあるようだけれど、それまで極端なアップでふたりを見ていただけに、後半にふたりが急に近づいていってもそれほど違和感はなかった。近くにいれば親近感は湧くわけだから……。ただ「一番大切なものを捨てなければならないなんてつらすぎる」とつぶやいてしまうあたりの過剰な丁寧さと比べると、追いつけないものを追いかけてしまうというふたりの共通点なんかはわかりづらいのかもしれない。映像として描かれていることとそれを言葉に直して理解していくことの乖離がこんなところにも表れているのかもしれないとも思う。

 美佐子のキャラはどことなく河瀨直美監督自身を思わせる。父親が失踪してしまったというエピソードは河瀨監督の体験そのものだからだ。そんな美佐子を演じる水崎綾女だが、クローズアップで映される表情はとても勝ち気な印象で、ひよっ子のくせに言い負かされたくないという美佐子の造形には水崎綾女自身のキャラも交じっているのかもしれない。
 さらに今回の作品では永瀬正敏のエピソードでも、永瀬自身のエピソードを混ぜ込んでいるようだ。『キネマ旬報』によれば、永瀬は実際にカメラマンとしても活動しているのだとか。それから大事なカメラを盗まれるというエピソードはカメラマンをやっていた永瀬の祖父の体験から来ているようだ。それだけに永瀬が演じる雅哉の姿は悲痛なものなっていたように思う。

河瀨直美の作品


キネマ旬報 2017年6月上旬特別号 No.1747


Date: 2017.06.04 Category: 日本映画 Comments (0) Trackbacks (3)

『美しい星』 どこまで本気なのか

 原作は『金閣寺』『憂国』などの三島由紀夫。
 監督・脚本は『桐島、部活やめるってよ』『紙の月』などの吉田大八

吉田大八 『美しい星』大杉重一郎(リリー・フランキー)はある日火星人として目覚め……。 

 ある平凡な家族が宇宙人として覚醒するという何とも荒唐無稽な話。父親の大杉重一郎(リリー・フランキー)は火星人、長男・一雄(亀梨和也)は水星人、妹・暁子(橋本愛)は金星人であることに突然気づく。なぜか母親の伊余子(中嶋朋子)は相変わらず地球人のままなのだが、ほかの家族が宇宙人になったものだから最後まで彼らに付き合うことになる。
 お天気キャスターをしている重一郎は空飛ぶ円盤を見て以来、火星人としての使命に目覚め、番組内で地球人に向けて訴えかける。地球は温暖化によって危機的状況になっている。今、悔い改めなければ大変なことになる。しかし、重一郎の訴えに真っ向から反対する勢力もいる。温暖化なんて嘘だと言い切る連中の側には黒木(佐々木蔵之介)という議員秘書がいて、実はこの男も宇宙人である。

 空飛ぶ円盤と宇宙人というネタは古臭く感じるが、それもそのはずで原作は約50年も前に書かれたもの。そのころはそんなネタが流行りだったらしい。今回の映画では舞台は現代であるし、中身もかなり今風にアレンジされている。当時の差し迫った危機は原水爆だったのに対し、映画のほうでは地球温暖化になっていたりもする。
 原作者の三島由紀夫はこの作品を「実にへんてこりんな小説」と言っていたようだが、この映画のほうもそれに負けずへんてこりんなものを見せてくれる。金星人たる橋本愛が同郷仲間(若葉竜也)とUFOを呼び寄せる場面はノリノリに仕上がっているし、火星人リリー・フランキーのキメポーズも繰り出すたびにおかしくなってくる。
 どこを見てしゃべっているのかわからない佐々木蔵之介も宇宙人らしさを醸し出していたし、“美しさ”のあまり周囲にとけこめない橋本愛はとても金星人らしくて、『PARKSパークス』で吉祥寺をうろついている橋本愛よりも似つかわしく感じられた。

 ※ 以下、ネタバレもあり!


『美しい星』 暁子(橋本愛)は金星人として目覚め、処女懐胎することに……。こちらは金星人のポーズ?

 重一郎(リリー)と黒木(佐々木蔵之介)は環境問題を論じてはいるけれど、根っこには人間は滅びるべきか否かという対立があるのだろう。黒木は「“美しい自然”と人間が言うときに、そのなかに人間は含まれていない」みたいなことも語っていて、黒木は人間なんて救う価値もないと考える。しかし重一郎はそんな人間を守りたいと考えていて、重一郎がその最期に“美しさ”を見出すのは人間たちがつくったネオン街の明かりだった。
 それでもそうした対立に決着はつかず、ラストでは空飛ぶ円盤が大杉家の面々を出迎えることになる(映画では円盤内部まで描かれる)。宇宙人として覚醒するという突拍子もない設定は、頭のおかしな人間の妄想だったというオチをつけることもなく、実際に彼らは宇宙人だったという何とも説明のつかない終わり方をすることになるのだ。それにしても原作者の三島由紀夫はどんなつもりでこれを書いたのだろうか。

 三島由紀夫の最期は誰でも知っているけれど、当時、実際にクーデターを企てたりするとまで考えていた人はいたのだろうか。三島とほぼ同い歳の評論家・吉本隆明は事件後、こんな文章を書いているようだ(ウィキペディアから引用したもの)。

 三島由紀夫の劇的な割腹死・介錯による首はね。これは衝撃である。この自死の方法は、いくぶんか生きているものすべてを〈コケ〉にみせるだけの迫力をもっている。この自死の方法の凄まじさと、悲惨なばかりの〈檄文〉や〈辞世〉の歌の下らなさ、政治的行為としての見当外れの愚劣さ、自死にいたる過程を、あらかじめテレビカメラに映写させるような所にあらわれている大向うむけの〈醒めた計算〉の仕方等々の奇妙なアマルガムが、衝撃に色彩をあたえている。そして問いはここ数年来三島由紀夫にいだいていたのとおなじようにわたしにのこる。〈どこまで本気なのかね〉。つまり、わたしにはいちばん判りにくいところでかれは死んでいる。この問いにたいして三島の自死の方法の凄まじさだけが答えになっている。そしてこの答は一瞬〈おまえはなにをしてきたのか!〉と迫るだけの力をわたしに対してもっている。   — 吉本隆明「暫定的メモ」


 事件が起きるまでは三島の政治的活動は「どこまで本気なのか」と思われていたのだろう。そして、事件が起きてからは「そこまで本気だったのか」と驚かせたのだろうか(同時代を生きているわけではないので推測でしかないのだが)。三島は自己演出にも長けた人だったのだろうとは思うのだけれど、さすがにまったくの冗談で割腹自殺はするはずもないだろうし、やはり本気なのだろう。

 この『美しい星』という作品も、三島という人と同じように受け止められた部分があるようにも思える。リアルタイムで読んでいた人は、三島は「どこまで本気なのか」と思ったのかもしれない。そして呆気に取られる結末は一体どんなふうに受け止められたのだろうか。
 この作品において主人公の重一郎が宇宙人でなければならない理由は、大局的な視点から地球というものを見るためだろう。小説のほうにはこんな文章もある。

 未来を現在に於て味わい、瞬間を永遠に於て味わう、こういう宇宙人にとってはごく普通の能力を、何とかして人間どもに伝えてやり、それを武器として、彼らが平和と宇宙的統一に到達するのを助けてやる、これが私の地球へやってきた目的でした。   『美しい星』 新潮文庫 p.283


 この「未来を現在に於て味わい」というあたりは、前回取り上げた『メッセージ』の異星人のものの見方とそっくりだし、ヘプタポッドがそうした能力を「武器」として人間に与えて手助けしてくれるというのもよく似ている。宇宙人は人間より進化した存在であるから、大局的に地球を見て近視眼的な人間を導いてくれるというのが、どちらの作品にも共通しているところだ。
 三島は重一郎と同様に、宇宙人のような視点で日本を見ていたのかもしれない。そして宇宙人・三島からすれば日本は危機的な状況にあって、何を措いても行動をしなければという憂国の情に駆られていた。
 『美しい星』でも重一郎が地球の問題を解決することはなかったけれど、最後に重一郎が宇宙人であることだけは明確に示された。これは言い換えれば、大局的な視点から地球を憂慮していることは明確にされたということだろう。それと同様に三島も、クーデターは失敗に終わることになったけれど、その衝撃的な自死で憂国の志だけは明確に示したということなのだろうか。
 映画はそんな面倒なことを考えずとも笑わせてくれるへんてこりんな作品になっているのだけれど、三島の最期と合わせるとそんなことも思う。

美しい星 (新潮文庫)


映画『美しい星』オリジナル・サウンドトラック


吉田大八の作品
Date: 2017.05.31 Category: 日本映画 Comments (0) Trackbacks (3)

『メッセージ』 避けられない事態をどう扱うか?

 監督は『複製された男』『ボーダーライン』などのドゥニ・ヴィルヌーヴ
 原作はテッド・チャン『あなたの人生の物語』
 原題は「Arrival」

ドゥニ・ヴィルヌーヴ 『メッセージ』 宇宙船はこの位置からは柿の種のように見えるのだが……。主人公のルイーズ(エイミー・アダムス)と同僚のイアン(ジェレミー・レナー)。

 異星人とのファーストコンタクトを描いた作品。人類が初めて出会った地球外生命体とのコミュニケーションを丁寧に描いていくのだが、そのことが主人公に何をもたらすことになるのかという部分が見どころとなっている。
 原作はSFの有名な賞を受賞している感動作なのだが、由緒正しきタコ型エイリアンはB級っぽくなりそうで敬遠されそうだし、重要な要素として映像化の難しい異星人の言語を扱っているために、映画化は難しいんじゃないかというのが大方の予想だったのではないだろうか。
 今回の映画版である『メッセージ』は原作の驚きの部分は残しつつ、異星人とのやり取りを巡る国際情勢なんかも取り入れてサスペンスフルな展開を見せる。ヘプタポッド(七本脚)と名付けられた異星人との遭遇場面では、彼らの声は『フラッシュバック・メモリーズ 3D』で演奏されていたディジュリドゥみたいに響き、それに合わされるヨハン・ヨハンソンの音楽は能舞台で聴く類いのもののようで妖しい雰囲気を演出していた。
 また主人公ルイーズ(エイミー・アダムス)が研究することになるヘプタポッドの文字は、墨汁で一筆書きに描いた円のような独特なものだったし、ヘプタポッドの乗る宇宙船(?)の造形は巨大な米粒のようでもあり柿の種のようでもあり、一部ではお菓子の「ばかうけ」に似ているとして話題を提供している。

 以下、原作と映画版の違いについて。ネタバレもあり!

ドゥニ・ヴィルヌーヴ 『メッセージ』 宇宙船内の謁見の間。透明な壁の向こうに異星人が現れる。


◆避けられない事態
 原作者のテッド・チャンはこの原作を「人が避けられない事態に対処する話」と要約している(文庫本の「作品覚え書き」より)。「避けられない事態」とはルイーズの場合は、彼女の娘ハンナが若くして亡くなってしまうことだろう。そして、原作ではその対処の仕方として物理学の変分原理(フェルマーの最小時間の原理)が持ち出されるわけだけれど、それによって「避けられない事態」がどうにかなるわけではない。ここが大きなポイントだろう。
 「避けられない事態」、これは一切変更することはできないのだ。不幸な未来が見えたからそれを回避するというのでは、それは現実とはまったく乖離した絵空事になってしまうわけで、原作は「避けられない事態」に関してはまったく変更していないのだ。
 一方の映画版である『メッセージ』を観ると、ルイーズの決断によって未来が変わったかのようにも見えてしまう。ルイーズは中国のシャン上将を翻意させることで地球や人類を救うことになるのだが、ルイーズの行動がきっかけとなってシャン上将が考えを変えたように見えてしまうのだ。

◆視点の差異
 また、原作と映画ではルイーズの視点にも違いがある。
 原作ではルイーズはすべてを見通した視点から語り始める。読者はルイーズがすべてのことが終わった時点から(つまりはハンナが死んだあとから)語っているのだと勘違いする。実際にはハンナを産む前の時点が現在時として示されていて、そこから物語は語られていることが明らかになる。
 映画版では視点がちょっと違う。冒頭にダイジェスト版でハンナの人生が描かれることになる。ここはすべてを見通した視点から描かれているのだが、その後の異星人が現れる部分から物語はルイーズが体験する現在時を辿っていくことになる。
 冒頭のハンナの人生はルイーズの過去の出来事だとミスリードされているわけだが、しばらくハンナは登場しない。ルイーズがヘプタポッドの独特な言語を少しずつ理解する段階になって、間歇的にハンナの姿が現れることになる。それでもルイーズはハンナの姿を自分の娘とは理解していない。徹夜続きの疲れた頭が見せた幻影か何かのようにしか見ていないのだ。そして、映画版ではルイーズが覚醒する瞬間が描かれ、それによってハンナの姿は実はルイーズの未来の出来事であると判明することになる。

 原作は過去を振り返るような視点で物語られるのに対し、映画版では冒頭以外はヘプタポッドとの交渉に従事するという現在がリアルタイムで追われていくことになる。原作はヘプタポッドのようにすべてを見通した視点から語られるのに、映画版では途中までは未来のことを知りえない人間的な視点で描かれていくのだ。
 人間的な視点では、原因があって結果があるという因果関係が重要だ。それまで戦争に傾いていた国際情勢がルイーズの行動によって変わったとなれば、ルイーズの行動が原因となって新しい結果が生じたと考えるのが普通だろう(だからこそ最後にルイーズがハンナを産むという決断をすることが感動的にもなるのだ)。
 しかし、実際にはルイーズの行動しなかった未来が示されるわけではないし、ルイーズが何を見ていたのかもわからないわけで、未来が変化したのかどうかはわからない。その後のシャン上将との会話ではルイーズは自分がやったことを把握していないかのようにも描かれているから、映画版でも一応はルイーズの選択によって未来が変わったのか否かという部分は曖昧にされているとも言える。

ドゥニ・ヴィルヌーヴ 『メッセージ』 ヘプタポッドの文字。どころなくウロボロスを思わせなくもないような……。

◆因果律的/目的論的
 だが、原作では「未来を知ることは自由意志を持つことと両立しない」と明確に書かれているのだ。ルイーズの決断によってハンナが生まれるのであれば、未来は変えられることになり、未来を変えられるならばハンナが死なないことだってあり得るということになってしまうわけで、では最初に見たはずの未来は何だったのかということになってしまう。つまりはパラドックスが生じるわけだ。
 原作では「避けられない事態」はまったく変わらない。では何が変わるのかと言えば、ルイーズの認識である。原作者のテッド・チャンは変分原理というものでわれわれの考え方そのものを揺さぶることになる。
 人間は過去があって現在があり、その先に未来があると世界を把握している。そんな順番でしか理解できないのだ。原因があって結果が生じるというのが因果律で、人間はそれによって世界を把握しているからだ。したがって人間の言語も因果律に基づいていて、人間は物事を逐次的に把握していくことになる(逐次的認識様式)。
 ヘプタポッドの言語はそれとは異なる。現在・過去・未来を見通す彼らは、同時にそれらすべてを把握する。彼らにとって未来はすでに決まっている。その決まったところへ目的論的に進むことになる。ヘプタポッドにとってはすでに目的地はわかっていて、それに向かって最短の道筋を通るように進んでいくことになる。現在・過去・未来を同時に見通すならば、そんな世界の把握の仕方になるということだ(同時的認識様式)。
 因果律的な見方と目的論的な見方。それによって事象が異なるものになるわけではないし、「避けられない事態」にも何の変化もない。ただ、見方が異なると事象の捉え方も変わってくるのではないか。テッド・チャンはそんな別の視点を提示しているのだ。

◆ヘプタポッドとトラルファマドール星人
 テッド・チャン『あなたの人生の物語』は、カート・ヴォネガット『スローターハウス5』と比較して語られることも多い。というのも、ヘプタポッドのように現在・過去・未来のすべて見通す目を持っている異星人は『スローターハウス5』にすでに登場しているからだ。
 しかし、ヴォネガットはすべてを見通す異星人(トラルファマドール星人)の存在を主人公ビリーの妄想のように描いている。第二次大戦の生き残りであるビリーのPTSDが、現在も過去も未来も一緒くたにしてしまうという症状として表れているということだ。
 一方の『あなたの人生の物語』は、そんな異星人の認識を物理学で説明しようとするのだ。大森望によれば「トラルファマドール星人の時間意識に科学的裏付けを与えた話」ということになる。テッド・チャンは変分原理を利用して、人間とは別の見方もあり得るのだと読者を納得させることに成功しているのだ。

 すべてを見通す目を獲得したものの、「避けられない事態」はどうしようもない。結末を知っていながらもそれに向けて着々と生きていくというのでは自動人形と同じではないか。そんなツッコミも当然あるだろう。
 『スローターハウス5』はどちらかと言えば悲観的で、「そういうものだ」というつぶやきに特徴的なように諦念に満ちている。(*1)しかし『あなたの人生の物語』はもっと前向きなものを感じさせる。子供が何度も同じおとぎ話を聞きたがるように、積極的に同じ道筋を辿ることもあり得るのではないか。そんなことを思わせる読後感になっている。

 自由は幻想ではない。逐次的意識という文脈において、それは完璧な現実だ。同時的意識という文脈においては、自由は意味をなさないが、強制もまた意味をなさない。文脈が異なっているにすぎず、一方の妥当性が他方より優れているとか劣っているとかではない。    『あなたの人生の物語』 p.263


 「避けられない事態」というものは誰にでも起こりうる。その受け入れ方も様々だろう。たとえばルイーズのように大切な人を亡くした人はどうするだろうか? ギリシャ神話の時代なら冥界まで亡くなった人を迎えに行けばいいのかもしれないし、SF映画だったらタイムトラベルでもって遠い未来に行って解決策を探してくればいいのかもしれない。ただ、どちらもあまりに現実からはかけ離れているとも言える。
 そんななかで『あなたの人生の物語』は「避けられない事態」への対処方法として、とてもスマートな解釈をしてみせたということになると思う。見方が変われば「避けられない事態」はそのままに受け入れるということがあり得るかもしれないのだ。
 しかし、映画版ではそうした認識の変容を描くのは難しい。どうしても主人公のアクション(行動)として物語を描いていく必要があったわけで、変分原理の部分を省いて構成するほかなかったということだろう。映画版を先に見ていたとしたら絶賛していたのかもしれないのだけれど、原作が好きなものだから微妙な違いが気になった。とはいえ、この作品の設定において自由意志の有無は、大きな違いなんじゃないかとも思うのだ。

(*1) ヴォネガットは『スローターハウス5』において、「自由意志といったものが語られる世界は、地球だけだったよ」とトラルファマドール星人に語らせている。また、『タイムクエイク』は10年間の時が巻き戻され、もう一度同じ10年間を寸分違わずに繰り返すという話だが、この作品も自由意志が問題となっている。

『メッセージ』(オリジナル・サウンドトラック)


あなたの人生の物語


スローターハウス5 (ハヤカワ文庫SF ウ 4-3) (ハヤカワ文庫 SF 302)


タイムクエイク (ハヤカワ文庫SF)


Date: 2017.05.28 Category: 外国映画 Comments (0) Trackbacks (11)

『夜に生きる』 ベン・アフレックの白スーツが気になる

 『アルゴ』でアカデミー賞作品賞を獲得したベン・アフレック監督の最新作。
 原作は『ミスティック・リバー』などの原作も手がけているデニス・ルヘインの同名小説。

ベン・アフレック 『夜に生きる』 ベン・アフレック監督・主演作。ゆったりとしたクラシカルなスーツが決まっている?

 禁酒法時代末期、ギャングの世界で名を挙げていく男の一代記。戦争から帰ってきたジョー(ベン・アフレック)は、戦場で善人ばかりが死んでいくのを見てきた。ルールを作る奴らはそれを守らない。だから自分は無法者として誰の支配もされずに「夜に生きる」ことを選ぶ。
 そんなふうにカッコつけて無法者の世界を生きるつもりのジョーなのだが、無法者には無法者のしきたりなんかがあったりして、結局、その世界のいざこざに巻き込まれていくことになる。

 最初の舞台はボストンだが、そこではイタリア系とアイルランド系のマフィアの争いに巻き込まれ、よせばいいのにボスの女(シエナ・ミラー)にも手を出したりして酷い目に遭う。それでも父親は警察のお偉いさんということもあって、何とか生き延びると舞台はフロリダ・タンパへと移る。ここは移民たちの街で、白人ばかりではなくキューバ人たちの勢力があったり、その反対にKKKの連中がちょっかいを出してきたりと厄介事は尽きない。

『夜に生きる』 ロレッタ(エル・ファニング)は民衆の聖母のような存在になるのだが……。

 舞台がタンパに移ってからのごった煮感はおもしろい。『ゴッドファーザー』みたいに美学に貫かれているという印象でもないし、エピソードを詰め込みすぎた感があるのだけれど、当時の歴史をジョーという男を狂言回しにして描いたということだろうか。
 クラシックカーでのカーチェイスや、何人かの女とのロマンスとか、最後には壮絶な銃撃戦もあり、なかなかのエンターテインメント作品となっていたと思う。監督・主演のベン・アフレックはおいしいところをすべてさらっていくし、テレンス・マリック風に波打ち際で妻役のゾーイ・サルダナと戯れるという『トゥ・ザ・ワンダー』のセルフ・パロディみたいなことまでやっている。

 登場してくるキャラもそれぞれにいい味を出している。ジョーの父親(ブレンダン・グリーソン)は警察幹部でありながらやっていることは裏家業と似通っていて凄みがあったし、KKKの手先であるRD(マシュー・マー)の完全にとち狂った感じも秀逸だったし、ジョーを取り巻く3人の女性も賑やかだった。
 ギャングたちの成り上がりとはあまり関係ないのに印象に残るのが、ロレッタ(エル・ファニング)のエピソード。ロレッタはハリウッドで女優になるつもりが、悪い奴らにだまされてクスリ漬けにされてポルノ女優にさせられてしまう(この時代のハリウッドはポルノ産業と裏で結びついていた部分があったらしい)。その後のロレッタは罪悪感から信仰に目覚めたのか、民衆の前で自分の体験を語り、民衆の聖母のような存在になっていく。
 エル・ファニングは総じて澄ました表情をしているのだけれど、最期にジョーの前で一瞬だけとてもあどけない笑顔を見せる。『ネオン・デーモン』でもそうだったけれど、エル・ファニングは大人びて見えるときもあれば子供っぽく感じられるときもあり妙に危なっかしい……。

夜に生きる〔上〕 (ハヤカワ・ミステリ文庫)


夜に生きる〔下〕 (ハヤカワ・ミステリ文庫)


Date: 2017.05.21 Category: 外国映画 Comments (0) Trackbacks (2)

『映画 夜空はいつでも最高密度の青色だ』 青臭くても無様でも……

 原作は詩集としては異例のベストセラーになっているという、最果タヒによる詩集『夜空はいつでも最高密度の青色だ』
 監督・脚本は『舟を編む』などの石井裕也
 新人の石橋静河原田美枝子石橋凌の娘さんとのこと。

石井裕也 『映画 夜空はいつでも最高密度の青色だ』 美香(石橋静河)と慎二(池松壮亮)は東京の街で出会う。


 主人公の看護師・美香(石橋静河)は病院で働きながらも、夜にはガールズバーでバイトをしている。もうひとりの主人公慎二(池松壮亮)は建設現場で日雇いとして働いている。そんなふたりが偶然出会って……。

 冒頭から東京の街の情景に美香の詩がモノローグでかぶさっていく。たとえばこんな感じ。

   都会を好きになった瞬間、自殺したようなものだよ。
   塗った爪の色を、きみの体の内側に探したって見つかりやしない。
   夜空はいつでも最高密度の青色だ。
   きみがかわいそうだと思っているきみ自身を、誰も愛さない間、
   きみはきっと世界を嫌いでいい。
   そしてだからこそ、この星に、恋愛なんてものはない。


 美香は幼いころに母親(市川実日子)を亡くしているのだが、それが自殺だったのではないかという疑いを抱いている。だとすれば美香は母親から棄てられた娘ということになるというわけで、その辺が美香の屈託となり詩の言葉を紡ぐ要因ともなっているようだ。
 一方の相手役である慎二だが、彼にも抱えているものがあって、慎二は左目がほとんど見えない。慎二の視点へと移行すると、スクリーンの左半分が黒くマスクされ、外界はスクリーンの右半分に開かれた覗き穴から見たような状態となるわけで、こうした視野は慎二が自らの内面に閉じこもっていることを感じさせる。
 そんなふたりが何度かの偶然も重なったりしつつ近づいていくことになるのだが、美香は「この星に、恋愛なんてものはない」とも詠っているだけにふたりの関係もすんなりとはいかずに行ったり来たり繰り返すことになる。

『映画 夜空はいつでも最高密度の青色だ』 新人の石橋静河は池松壮亮を相手にしても存在感があった。

 舞台は東京で、ふたりは身近に「死」を感じつつ生きている。ちなみにウィキペディアによれば原作者の最果タヒ(さいはて・たひ)の「タヒ」とは、漢字の「死」から採られたらしい。看護師の美香は病院で死んでいく患者たちを目の当たりにするし、慎二は友人である智之(松田龍平)や隣人の突然死に遭遇したり、仕事の過酷さにズボンのチャックも上げられない同僚・岩下(田中哲司)の自殺を心配してみたりもする。そして、美香と慎二の最初の共通点というのが、「嫌な予感がする」という部分でふたりが深く納得したことだった。
 おもしろいのはふたりの恋愛(もしくは腐れ縁?)が、いつ成就したのかは描かれないということだ。ふたりの関係がそれなりに確固たるものとなっても、それによって世界がバラ色に変わるわけではないし、「嫌な予感がする」という状態も続いている。ただ、ふたりが一緒にいれば美香の内面の声は減り、慎二の自閉も解消され、自然と対話の場面が多くなる。
 元々詩を詠うことも誰かに何かを伝えたいということなのだろうし、隣に誰かがいれば自分の気持ちをその隣の人に伝えることになるのは当然だろう。そして、ときには予想もしないレスポンスが生まれる場合もある。「嫌な予感」はどんな悪いことでも起きる可能性であると同時に、「いいことだって起こるかもしれない」ことでもあるのだ。これは美香ひとりでは到達できなかったところと言えるのかもしれないし、そこには少しだけ希望がある。
 しつこいくらい何度も登場する路上歌手(野嵜好美)が最後に成功を勝ち取るのは、まさにそんな奇跡なのかもしれない。「それでもみんなガンバレ」みたいな応援歌を恥ずかしげもなく謳い上げる歌手は、その歌声も容貌も「中の下」(『川の底からこんにちは』の登場人物たちと同様に)で、絶対売れることはないという見方がごく普通だろう。しかし、その予想は外れることになるわけで、ふたりの未来だってもしかすると奇跡的ないいことだって起こり得るかもしれないのだ。

 詩から発想された映画ということで、繊細と同時に青臭くも感じられる作品で好みは分かれそう。私自身は青臭いのを自覚しているので、嫌いではない。
 池松壮亮の慎二はその微妙なバランスを醸し出している。弱味につけこまれるのを嫌い、読書で何かから自分を防御しているようでいて、カラオケではなぜか「CHE.R.RY」を歌って呆れられるという浅薄さ。だけどスレてないところが美点だろうか。
 新人の石橋静河は、最近の『PARKSパークス』にも顔を出していて、今の世代とは異質な昭和の女を演じていても違和感がなかった。まだまだ若い人なのだけれど流行りなどには影響されない人なのかもしれない。この作品でもポケットに手を突っ込んで歩くたたずまいが堂々としていて、新人らしからぬ雰囲気があったと思う。

夜空はいつでも最高密度の青色だ


川の底からこんにちは [DVD]



Date: 2017.05.19 Category: 日本映画 Comments (0) Trackbacks (2)
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新作映画(もしくは新作DVD)を中心に、週1本ペースでレビューします。

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