『ジュピターズ・ムーン』 ヨーロッパにおける奇跡待望論?

 『ホワイト・ゴッド 少女と犬の狂詩曲』コーネル・ムンドルッツォ監督の最新作。
 タイトルの“ジュピターズ・ムーン”とは、いくつもある木星の衛星なかの「エウロパ」のことを指している。「エウロパ」には生命体が存在する可能性があるとも言われており、「エウロパ」つまり「ヨーロッパ」に新しい可能性が秘められているかもしれないという希望が込められているようだ。

コーネル・ムンドルッツォ 『ジュピターズ・ムーン』 アリアン(ジョンボル・イェゲル)はなぜか空中浮遊する能力を獲得することになり……。

 この作品はハンガリーを舞台にしている。ハンガリーはEUの辺境にあり、EU以外の国と接するところに位置していることから、ヨーロッパ諸国で問題となっている移民問題がより深刻なものとなっているようだ。この作品の冒頭もシリア難民たちの不法入国の場面からスタートする。
 国境警備隊の見つかった難民たちは四方八方に散らばりつつ無我夢中で逃げ惑う。全速力で走り抜けていく主人公アリアン(ジョンボル・イェゲル)をカメラが併走してながら追いかけていくという長回しの撮影がとても見事(後半のスリリングなカーチェイスも)。主人公となる少年アリアンはこの際に国境警備隊の銃弾に倒れてしまうのだが、なぜかアリアンは死ぬこともなく、あろうことか重力に反するように身体を宙に浮かべる能力を獲得してしまう。
 この空中浮遊の撮影がまた幻惑的で、無重力空間を漂うようなアリアンをカメラそのものも彼の周囲をぐるぐる回りながら捉えていく。何が起こっているのかわからないままに展開していく“つかみ”の部分はとても素晴らしかった。このあたりだけでも「一見の価値あり」とも言えるかもしれない。

『ジュピターズ・ムーン』 医師シュテルン(メラーブ・ニニッゼ)はアリアンの能力を金儲けに利用しようとする。

 ただ、このアリアンの空中浮遊という能力を登場人物ばかりか、製作陣も使いあぐねているようにも感じられる側面もあった。「空中浮遊できたから何?」というツッコミも当然あるだろうし、実際にアリアンを利用して金を稼ごうという医師シュテルン(メラーブ・ニニッゼ)の方法も見世物の類いを超えるものではないからだ。
 さらにアリアンの能力は空中浮遊だけではなく、重力そのものを操ることであり、その能力を神の戒めの如くに使い人を殺めたりするエピソードによって、アリアンの立場がどっちつかずなものに感じられてしまうところもある(見世物としておもしろいのだけれど)。

 『ジュピターズ・ムーン』での空中浮遊は“奇跡”の象徴ということになるのだろう。そうした超自然現象を前にして、アリアンを利用するつもりだったシュテルンも、アリアンを撃ってしまって自ら立場を危うくしたラズロ(ギェルギ・ツセルハルミ)にも、回心(改心)のような瞬間が訪れることになるというラストはよかったと思う。
 難民の問題は土地の問題ということになるだろう。人間は地べたを這って生きるほかないわけで、空を見上げるよりも足元ばかりを気にしている。空を見上げればそこには何の境界もないわけで、土地にだって本来何の境界もないはず……。そんな希望が空中浮遊という奇跡には込められているようだ。

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Date: 2018.02.04 Category: 外国映画 Comments (0) Trackbacks (3)

『デトロイト』 今も続いている“死のゲーム”

 監督は『ハート・ロッカー』『ゼロ・ダーク・サーティ』などのキャスリン・ビグロー
 1967年に起きた「デトロイト暴動」の最中に起きたある事件を題材とした作品。この暴動では鎮圧のために州兵までが投入されたものの、43人もの死者が出たとのこと。

キャスリン・ビグロー 『デトロイト』 1967年に起きた「デトロイト暴動」の最中に起きたある事件を題材にしている。

 冒頭でこれまでの歴史が辿られる。デトロイトでの人種差別はもう一触即発のところまで来ていて、あとはいつどこで起きるかという状況だった。そして黒人たちが一斉に逮捕される場面をきっかけにして、住民の黒人たちの怒りに火がつく。彼らは警官に対して石を投げつけ、街を破壊し始め、たちまち戦争状態の様相を呈してくる。
 そんななかアルジェ・モーテルにはまだのどかな雰囲気があった。それがある黒人の子供っぽいいたずらによって一変することになる。暴動によって殺気立っていた警察は、いたずらの銃声に過敏に反応する。クラウスという警官を中心にモーテル内を制圧し、銃を放った者を捜し出すという“死のゲーム”が始まることになる。

 手持ちカメラでドキュメンタリーのように撮られた映像が緊迫感を漂わせ、40分も続くことになるアルジェ・モーテルでの“死のゲーム”の真っ只中に観客も放り込まれることになる。
 白人警官のクラウス(ウィル・ポールター)は、上司から“坊や”呼ばわりされる程度の若輩者だ。それだけに正義感に溢れるところもあるのかもしれないのだが、その正義感はかなり偏ってもいる。略奪をする黒人は悪い奴で、そんな悪い奴は殺しすらしているかもしれず、だからこそ逃がしてはおけない。論理に飛躍があったとしてもそれに気づくほどの冷静さはないのだろう。しかしその一方でズル賢い部分もあり、殺してしまった黒人にナイフを持たせて自分の行為を正当化するくらいの知恵は持っている。

 そんなクラウスたちが犯人探しのためにするのが“死のゲーム”と呼ばれるもので、その場にいた黒人たちに口を割らせるために、別室で仲間を殺したことを装いつつ、犯人を見つけ出そうとする。周辺は暴動で混乱状態にあり、州兵やほかから手助けにきた警官も人権問題が関わる面倒なことには巻き込まれまいとして見て見ぬフリをするなか、モーテルに足止めされた黒人たちに逃げ場はない。警察に歯向かう気などまったくなかった黒人たちはたちまち暴徒扱いされ、あるはずもない拳銃の在り処を巡って命の危機に晒されることになる。

『デトロイト』 クラウス(ウィル・ポールター)たちはモーツルを占拠して犯人捜しを……。

 偏見に満ちた白人警官によって罪のない黒人たちが殺されていく。『フルートベール駅で』などでも描かれているように、今でもアメリカでは度々起きることのようだ。黒人に非はないわけだから、観客としては判官びいき的に黒人に同情し、白人警官に嫌悪感を抱く(クラウスを演じたウィル・ポールターの憎たらしさは絶品)。
 実際にこの映画では黒人たちは被害者で、白人警官の行為は非難されるべきものとして描かれてはいる。ただ、もっと黒人たちに寄り添うような描き方をすることも可能だったはずだが、そんなふうにはなっていないようにも思えた。
 たとえばディスミュークス(ジョン・ボイエガ)という黒人は、白人と黒人との間に割って入ることのできた存在で、事件の目撃者の立場にある。彼を演じたジョン・ボイエガは、ディスミュークスのことを“ヒーロー”と呼んでいるけれど、彼が事件のなかで大活躍するというわけでもない。ディスミュークスは白人をなだめつつ、黒人には生き延びる術を教えるように行動していくけれど、なかなかうまくはいかないのだ。
 そして、ディスミュークスが事件後に真相を話そうとすると警察に犯人扱いされてしまうことにもなり、その後の裁判の過程で彼はほとんど口を開くことはない。目には怒りが宿っていても、それをぶつける術はなく、あまりの理不尽さに吐き気を催すしかなくなるのだ。
 たとえば映画をもっとドラマチックに見せたければ、ディスミュークスに闘う姿勢を見せることもできたはずだが、そうはなってはいないのだ。作品のカタルシスよりも事件に忠実であることを選んだということなのだろうか。闘うには敵が悪すぎるということなのかもしれないのだけれど、今でも黒人たちが圧倒的な白人の権勢に吐き気を催しているのは確かだろう。

 被害者としてその夜をアルジェ・モーテルで過ごすことになったラリー(アルジー・スミス)は、その夜を境に人生が変わってしまう。モータウンのザ・ドラマティックスとしてこれから売り出そうというときに、その決定的出来事が起き、彼は二度とバンドに戻ることはなかったようだ。
 ラリーが選んだのは地元の聖歌隊で歌うことだったけれど、彼の感じたような怒りをもっと前面に押し出していけば、後の世代にはラップのような攻撃的な音楽へとつながっていくことにもなるのかもしれないわけで、今のアメリカにもつながる作品となっているんじゃないだろうか。

キャスリン・ビグローの作品
Date: 2018.01.31 Category: 外国映画 Comments (0) Trackbacks (8)

『ベロニカとの記憶』 記憶という厄介なもの

 原作はジュリアン・バーンズのブッカー賞受賞作品『終わりの感覚』
 監督は『めぐり逢わせのお弁当』リテーシュ・バトラ

リテーシュ・バトラ 『ベロニカとの記憶』 ベロニカ(シャーロット・ランプリング)とトニー(ジム・ブロードベント)は40年ぶりに再会することになるのだが……。

 若かりし頃には激情を求めたりもしたトニー(ジム・ブロードベント)も、今では年老いて平穏無事な生活を送っている。しかし、ある日突然届いた手紙に平穏な日々は揺さぶられることになる。手紙の相手はかつての恋人ベロニカの母親からで、わずかばかりのお金とかつての友人エイドリアンの日記をトニーに遺贈しているという。
 エイドリアンとトニーは高校時代の仲間であり、トニーの初恋の相手ベロニカは、トニーを棄ててエイドリアンと付き合うこととなった。つまりはトニーは寝取られ男だったということになるのだが、その後にエイドリアンは自殺してしまう。それにしてもなぜ40年も経った今になって、そのエイドリアンの日記がベロニカではなくベロニカの母親からトニーに託されることになったのか?

 高校時代の歴史の授業のシーンでは、それぞれの歴史観が披露されている。主人公トニーは「歴史とは勝者の嘘の塊」と言い、先生は「敗者の自己欺瞞であることも忘れるな」と付け加える。それに対しエイドリアンは、歴史とは「『何かが起こった』としか言えないのではないか」と反論する。
 たとえば劇中で話題になるロブソン少年の場合。彼は付き合っていた彼女が妊娠し、そのことで自殺したと噂されている。彼は「かあさん、ごめん」とだけ書き残して死んだのだという。しかし妊娠のことが本当の原因だったのか、あるいは子供は本当にロブソンの子供だったのか、実際にはわからないことだらけなのだ。部外者としては「ロブソンは自殺した」とだけしか言えないのではないか。
 こうした議論は後のエイドリアンの自殺についても言える。エイドリアンが自殺したという事実は確かなのだが、残された人はそれ以上の何を知っていると言えるのか。トニーはその後の生活のなかでエイドリアンの死を次第に忘れていく。しかし40年も経って届いた手紙によって、そうした過去に出会い直すことになる。

 以下、ネタバレもあり! 

『ベロニカとの記憶』 若かりしトニー(ビリー・ハウル)はベロニカの家に招かれ家族と会うことになる。

 老いたるトニーはこの作品のなかで二度に渡ってビックリ仰天することになる。
 最初のビックリはトニーの記憶には都合のいい欠落があったということ。ここまではたとえば『トータル・リコール』の原作『追憶売ります』とか、『メメント』などともよく似ていると言えるかもしれないのだが、この作品ではトニーはさらにビックリさせられることになる。というのはそもそもの最初から事実誤認があったということが明らかになるからだ(というか自己防衛本能が知ることを妨げていたのかも)。
 これによってベロニカ(シャーロット・ランプリング)は謎の女性から哀れな女性へと見えてくることにもなり、トニーは記憶改竄の自己欺瞞からは逃れるものの、今度は掛け値なしに無知蒙昧だったということが明らかになる。
 これは老いたるトニーにはきついことだろう。原作はここで放り出されるように終わることになるのだけれど、映画版のほうではトニーにとって幾分かやさしい結末を用意している。映画では元妻と娘の役割が大きくなっていて、トニーは過ちを認め、それを改善していくであろう柔軟性を見せることになり後味よい話となっている。

 原作は以前に読んでいたのだけれど、最後の部分がいまひとつ飲み込めなかったような気がする。というのも、二度目のビックリの部分が突飛に思えたのかもしれない。しかし映画版ではそこで重要な役割を果たすことになる人物の造形がちょっと魅惑的で納得してしまう部分があった。歴史と同じで、言葉で書き連ねただけでは伝わらないものがあるのかもしれない。そんな意味では登場人物に具体性を与える役者の仕事はかなり重要な役割を担っているのだろうと改めて思う。

終わりの感覚 (新潮クレスト・ブックス)



めぐり逢わせのお弁当(字幕版)


Date: 2018.01.28 Category: 外国映画 Comments (0) Trackbacks (2)

『ブリムストーン』 西部劇版サイコスリラー

 監督はオランダのマルティン・コールホーヴェン
 ベネチア国際映画祭のコンペティション部門にノミネートされた作品。

マルティン・コールホーヴェン 『ブリムストーン』 リズ(ダコタ・ファニング)と牧師(ガイ・ピアース)の関係は?

 口のきけないリズ(ダコタ・ファニング)がいる小さな村に、顔に傷のある牧師(ガイ・ピアース)がやってくる。なぜかリズはその牧師のことを避けるようにしている。ふたりの過去に何があったのかという疑問を抱かせながら物語は進んでいく。
 この作品は4章構成で成り立っていて、第1章「啓示」においてある事件が起きたあと、第2章「脱出」、第3章「起源」と時間を遡っていき、第4章「報復」においてまた第1章の続きへと戻ってくる。
 「口のきけない女とそれを追う牧師の関係は?」という謎で引っ張っていくところはよかったと思うのだけれど、明らかにされる過去にちょっと拍子抜けだった。神の名の下に自分の欲望を正当化する牧師の姿はおぞましいけれど、ネタが明かされてみると西部劇版のサイコスリラーといった趣きに留まってしまっているように思えた。残虐な殺しのシーンもふんだんに盛り込まれていて退屈することはないのだけれど……。

 『ブリムストーン』チャールズ・ロートン監督の『狩人の夜』(1955年)という作品にインスパイアされているとのこと。牧師が殺人鬼という点や、神の視点からのカットなど色々と影響関係は認められるのだけれど、まったく別のものになってしまっている。実は『狩人の夜』を今回初めて観たのだけれど、とてもオリジナリティに溢れた作品で素晴らしかった。公開当時は評価されず、のちに再発見された作品とのこと(日本での公開も1990年)。

狩人の夜 [DVD]


Date: 2018.01.22 Category: 外国映画 Comments (0) Trackbacks (1)

『悪と仮面のルール』 悪を理解するための思考実験?

 原作は中村文則の同名小説。この小説はウォール・ストリート・ジャーナルの「ザ・10ベスト・ミステリーズ」にも選出された。
 監督の中村哲平はミュージックビデオ、CMなどを手掛けてきた人とのこと。
 
中村哲平 『悪と仮面のルール』 顔を変えて新谷と名乗る主人公を演じるのは玉木宏。

 自分の息子に地獄を見せ、純粋な「悪」として育て上げるというかなり荒唐無稽な設定。
 なぜこんな設定が必要とされているのか。映画では主人公新谷(玉木宏)と同じ家系に連なる伊藤亮祐(吉沢亮)との会話に、そうした設定を選んだ理由が垣間見られるような気もする。それはわからなくはないし、決して嫌いではないのだけれど、それでもやはり荒唐無稽さは拭えないというのが正直なところ。

 中村文則の原作小説のなかには一度だけドストエフスキーという名前が登場するし、『カラマーゾフの兄弟』のなかに出てくる「すべては許されている」という言葉も流用され、ドストエフスキーの影響下でこの小説が書かれているということが推測される。
 ちなみにトルストイは死ぬ間際に『カラマーゾフの兄弟』を読んでいて、会話が不自然だとか、ダラダラしているとか、散々文句を言いつつも、「ドストエフスキーが愛読される秘密がわかった、立派な思想を持っているからだ」と日記にしたためていたのだとか(山城むつみ『ドストエフスキー』という本にそんなエピソードが書かれていたような気がする)。
 『悪と仮面のルール』という作品もそんな意味では大切なことを扱っているのかもしれないのだけれど、荒唐無稽な設定の方ばかりが気になってしまう。多くの人は善良だからたまさかに現れる「悪」というものが理解できない。だからこそ絶対悪みたいな設定も登場してくるのかもしれないのだけれど、悪のために悪を為すかのような人間にリアリティがあるとは思えなかった。
 新谷が身を削って守ることになる香織を演じる新木優子はお人形さんのように可愛らしい。ただあんなに危険に晒されているにも関わらず、屈託なさすぎなんじゃないだろうか? 幼いころに性的虐待めいたことをされているはずなのに……。

悪と仮面のルール (講談社文庫)


ドストエフスキー (講談社文芸文庫)


Date: 2018.01.21 Category: 日本映画 Comments (0) Trackbacks (0)
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新作映画(もしくは新作DVD)を中心に、週1本ペースでレビューします。

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