『伊藤計劃映画時評集』 伊藤計劃の映画ブログが本に!

 著者は『虐殺器官』『ハーモニー』という決定的な作品を遺しながらも、34歳という若さで逝ってしまった伊藤計劃
 『伊藤計劃映画時評集』は、著者が生前ブログで公開していた映画評をまとめたもの。『虐殺器官』『ハーモニー』はオリジナリティに溢れた作品だが、細部にどことなく映画好きの匂いが感じられた(実際には映画だけでなく、ゲームとかアニメの影響が大きいようだ)。この2冊は、伊藤計劃のシネフィルぶりを感じさせる本になっている。
 

Running Pictures: 伊藤計劃映画時評集 1 (ハヤカワ文庫JA)

Cinematrix: 伊藤計劃映画時評集2 (ハヤカワ文庫JA)



 取り上げられている作品は、第1回の『エイリアン4』(1997年)から第66回の『イノセンス』(2004年)まで。ほかには『スターシップ・トゥルーパーズ』『プライベート・ライアン』『トゥルーマン・ショー』『アイズ・ワイド・シャット』『マトリックス』『ファイト・クラブ』(以上、第1巻)『インビジブル』『ダンサー・イン・ザ・ダーク』『ハンニバル』『ブラックホーク・ダウン』『パニック・ルーム』『マトリックス リローデッド』『ターミネーター3』(以上、第2巻)などなど。たまたま挙げた作品はカタカナばかりだが邦画もある。基本はメジャー系の作品であり、公開されたばかりの新鮮な時期に書かれている。
 伊藤は、これらの文章はブログ読者を映画館へ誘導するための「映画の紹介」だと断わっているが、巻末(第1巻)の解説で翻訳家(というか映画評論家)の柳下毅一郎「この言葉は真っ赤な嘘だ。伊藤のレビュウはたいへん優れた時評であり、映画の本質を突く批評となっている」と記しているように、力の入った映画評である。

 文芸誌「群像」で映画時評を連載中の蓮實重彦は、「この歳になると時評は疲れる」みたいなことをどこかで語っていた。批評界の重鎮の意図は測りかねるが、端的に「疲れる」という部分なら何となくわかる気もする。たかがブログだって疲れるときもあるからだ。映画館に出向くたびに素晴らしい作品に出会えるわけではない。とりあえず何か書く段になると、途方に暮れるようなことも多々あるわけだ。
 お気に入りの作品に出会えれば、書きたいことが泉のように湧いて出るのかもしれない。伊藤にとって『ファイト・クラブ』はそんな一本であり、高揚した気分のままに読者を煽るような冒頭の文章がいい。

 ぼくらは財布の中身じゃない。ぼくらは仕事じゃない。ぼくらはスウェーデン製の家具なんかじゃない。でも今、ぼくらはまさにそのすべてでもある。物に囲まれて都市に生きるぼくらは、ほんとうの痛みをいつのまにか忘れている。神経性の痛みばかり抱え込んで、傷つけ、傷つけられることによってぼくと君とを分かつ、その痛みを忘れている。痛みも他者も、いまやすべてが頭のなかにある。
 そんな時代を笑い飛ばしつつ、ラストにささやかなラブ・ソングを歌う、20世紀最強最後の凶悪な詩。20‐30代の立ち位置を確認する、「年齢の高い」若者のための映画「ファイト・クラブ」。
 私のオールタイム・ベスト10の一本です。 (第1巻、p.200より)


 だけど実際にはそんな作品はまれだ。だから蓮實も言うように「疲れる」のではないか。伊藤のこの本も、ブログを続けること、映画について人に語ることの難しさも感じさせる。到底人様に薦められないような作品は無視すればいいのだけど、ただ「おもしろかった」としか言えない映画もあるわけで、そういうときにもやはり頭を抱えることになる。例えば、伊藤が取り上げている『オースティン・パワーズ:デラックス』など、伊藤の言葉通り「お馬鹿の一言」であって、それ以上何を言えばいいのか? 私も『オースティン・パワーズ』シリーズをなかば呆れつつ大笑いしたのだが、ブログに記すとなるとなかなか……。(*1)
 
 また、退屈な作品もただ「つまらない」と切って捨てては芸がない。小説家の高橋源一郎は“文壇の淀川長治”を目指すと語っていたことがあった。これは淀川さんのように、どんな作品でもいい部分を褒めることを重視するといった意味だろう(日曜映画劇場あたりの淀川さんのことを指していると思われるが)。高橋源一郎は、文壇において貶すことばかりで作品のいい部分を掬いあげるような批評家がいないことを嘆いていたわけで、その役割を自分で担おうとしていたわけだ。伊藤にそういう意図があったのかわからないが、ダメな作品の楽しみ方を披露し、見過ごしがちないい部分を探そうと頭をひねっている。これはなかなか困難な仕事だ。

 前半ではそんな困難を正直に吐露する部分もあって共感させられる。しかし後半になるにつれ、筆の運びがスムーズになり、伊藤が描いた批評の姿、「その映画から思いもよらなかったヴィジョンをひねり出すことができる、面白い読み物」として読み応えがある。(*2)
 例えば『ターミネーター3』なんて、4作目が登場した今ではなかったことにされているわけだが、そんな作品にも愛情を持って言葉を連ねている。(*3)また、1作目の出来からすればかなり無惨な『マトリックス リローデッド』に関しても、その酷さの分析を試み、最後のネオとアーキテクトの会話を原文から日本語訳してみせたりしている。やはり伊藤も映画が好きだったんだなと思わせる(過去形で語らなければならないのが残念だ)。そうでなければ、手間をかけて頼まれもしない翻訳をしてまで作品に迫ろうとはしなかっただろう。

(*1) 私に関して記せば、例えば、カウリスマキの『ル・アーブルの靴みがき』はとても良かったのだけど、そのおもしろさを言葉で説明しようとしても退屈な読み物にしかならない。
 例えば、ジャッキー・チェンの『ライジング・ドラゴン』も、劇場でジャッキーの(最後の?)勇姿に感動し、ファンへの「ありがとう」の言葉に涙を流したほどなのだが、あのアクションのおもしろさを伝えるとなると、ただ「すごい」としか言えなくなってしまうのだ。

(*2) 「批評とはそんなくだらないおしゃべりではなく、もっと体系的で、ボリュームのある読みものだ。もっと厳密にいえば「~が描写できていない」「キャラクターが弱い」「人間が描けていない」とかいった印象批評と規範批評の粗雑な合体であってはいけない。厳密な意味での「批評」は、その映画から思いもよらなかったヴィジョンをひねり出すことができる、面白い読み物だ。」(第1巻、p.12より)

(*3) 『ターミネーター3』のジョナサン・モストウ監督を、アクションの撮れる監督として論じている。キャメロンの前2作品の出来からは比べれば見劣りするからか、私はそんなこと考えもしなかったが、今考えると『ターミネーター3』での中盤の大型クレーン車の逆立ち場面は、『ダークナイト』クリストファー・ノーランがパクっているようにも見える。


伊藤計劃の作品
Date: 2013.05.23 Category: 映画の本 Comments (0) Trackbacks (0)

『時間ループ物語論 成長しない時代を生きる』 “ループもの”と浦島太郎

 元となったのは、著者の浅羽通明が大学で行った「日本現代文化論」という講義とのこと。この本は“ループもの”について網羅的に取り上げた本となっているが、著者はそれを日本現代文化論に結び付けている。

時間ループ物語論


 このブログでも『ミッション:8ミニッツ』『ルーパー』など、“ループもの”とされる作品について記した。『時間ループ物語論』では、“ループもの”の代表作とされる『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』をはじめとして、多くの作品が紹介されている。
 ただ惜しむらくは作品リストがついていない。あとがきに校正の時間もないと漏らしているから、単純にそれだけの理由かと思われる。(参考1)

 著者による“ループもの”の分類は以下のようになる(p126より)。

 ①主人公が時間ループをネガティヴに受け止め、その苦しみを描いた物語
       (例) 『ターン』「倦怠の檻」「タイムマシンの罠」
 ②主人公が時間ループをポジティヴに受け止め、その成長を描いた物語
       (例) 『恋はデジャ・ブ』『未来の想い出』『リセット』
 ③主人公が時間ループを特定の問題の解決のために用いる物語
       (例) 『七回死んだ男』『ひぐらしのなく頃に』『All You Need Is Kill』『Y』
 ④主人公が時間ループそのものを楽しんで肯定する物語
       (例) 「秋の牢獄」『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』『ウロボロス』

 この整理を見ると、ループという現象は同じだが、それを「肯定的に捉えるか」もしくは「否定的に捉えるか」の違いがあるということがわかる。
 『時間ループ物語論』のなかで著者が紹介している分類がある。こちらのほうが単純でわかりやすい。それは「リプレイ派」と「ターン派」という分類だ。(参考2)単純化して説明すれば、「リプレイ派」とは繰り返される期間が長時間に渡り(数十年とか)、「ターン派」とは繰り返される期間が短い(1日など)ということになる。
 「リプレイ派」とはループする時間が長いために、それまでの人生をやり直すという印象が強くなる。誰でも後悔のいくつかは抱えているから、やり直しにより後悔を回避(?)できるためにループは肯定的に捉えられる。一方で「ターン派」では、ループする時間が短いために、同じ現象の繰り返しの印象が強くなる。記憶は続いたとしても、徹夜して仕上げた仕事も朝には元通りになるから、何度も同じことを体験するハメになり、そこから抜け出せないことが苦しみと感じられる。
 浅羽分類の③は、ループを謎解きや犯人探しに当てはめた場合であり、④は「ターン派」の特殊な例だろうか(同じことの繰り返しに耽溺してしまう)。

 浅羽の分類は、後半の日本現代文化論のための整理となっている。

時間ループというエンタメでは、主人公へ感情移入した我々は、いかなる願望を充足され、いかなる悲嘆や不安や恐怖を体験して、洗い流されるのか?  (p127)


 著者はそんな意図で、『ファウスト』、輪廻転生、永劫回帰、シジフォスの神話などを“ループもの”との関係で論じている。そして浦島太郎も“ループもの”の一種だとして論を展開させる(さらには漱石の前期三部作も)。
 なぜ浦島太郎が“ループもの”と関係があるのか? ちょっとわかりづらいから言葉を補うと、例えば『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』の場合、ループするのは学園祭の前日の1日だった。これはループの原因たるラムにとって、永遠に続いてほしいような充実した素晴らしい1日だった(ほかの登場人物たちはそこから逃げ出そうとするが)。ここではループは一種のユートピアなのだ。
 仙境淹留譚せんきょうえんりゅうたんとしての浦島太郎の昔話では、浦島は竜宮という仙境(ユートピア)に遊び、元の世界に戻って途方に暮れた。(*1)その意味で、これは“ループもの”のはらむある一面、④のようにユートピアに閉じこもる姿を描いたものではないかというのだ。

時間ループ物語を空間でなく時間が歪んで生じた隠れ里への淹留譚として読めるとしたら、逆に、隠れ里、仙境淹留譚にも時間ループ的な要素が認められないでしょうか? (p216)


 そして浅羽は河合隼雄の論に拠りながら、浦島太郎をユングの言う「永遠の少年」として論じる。現代のモラトリアム青年として浦島太郎を読もうとするのだ。
 竜宮というユートピアに留まる浦島は、学生時代に留まりたがるモラトリアムや、現実社会を忌避するニート、アニメ等の虚構にはまる「おたく」になぞらえられる。元の世界に戻って途方に暮れる浦島は、ユートピアに浸りすぎて現実に適応できない若者になるだろう。

 河合隼雄によれば、浦島の竜宮行きは無意識への退行とのこと。それは現実からの逃避とも言えるのだが、「「現実原則」に囚われて見えなくなったものへ心の視野を広げて、人生を掴み直して再出発するプロセスともなり得るもの」と積極的にも捉えられる。
 浅羽はそうした解釈から、竜宮から持ち帰った玉手箱とは「無意識へ大きく退行した者だけが知った価値観、発想、イメージの総体ではないのか」とする。浅羽はそうしたイメージをクリエイティブな方向へ熟成することで現実に活かすことを提唱する。
 ユートピアである虚構世界に留まる「おたく」たちだが、それらを熟成して送り手側になることはまれだ。それはブログなどで、ユートピアにおいて学んだことを小出しにして無駄にしてしまっているから。玉手箱を安易に開けずに、ユートピアで掴んだイメージを熟成させれば送り手側にもなれるかもしれない。本来なら玉手箱は有用な価値を持つマジックテクノロジーなのではないか。
 浅羽は大方こんなふうに論じている。玉手箱に関しての一種の珍説とも思えるが、こんな牽強付会の説も嫌いではない。

(参考1) 丁寧にリストをつくったブログがあった。
http://blog.goo.ne.jp/s-matsu2/e/c0736ca9829bdcea00ad63dff254562f

(参考2) 下記のサイトで紹介されている分類だ。
http://www.ktr.to/Mystery/replay.html

(*1) 私は別の場所でキム・ギドク作品のなかの龍宮というユートピアについて記した。ギドク作品では、現実への回帰はあまり問題にならないが……。
Date: 2013.02.16 Category: その他の本 Comments (0) Trackbacks (0)

『暇と退屈の倫理学』 退屈とどう向き合うべきか

 序章は「「好きなこと」は何か?」と題されている。
 人は社会を豊かにしようとしてきた。しかし、豊かさが実現すると人は不幸になる場合がある。豊かになれば暇ができる。暇ができると人は好きなことができる。しかし好きなことがわからない。だから不幸になる。
 暇のなかでいかに生きるべきか、退屈とどう向き合うべきか。『暇と退屈の倫理学』はそんな問いに答えるために書かれている。

暇と退屈の倫理学



 『暇と退屈の倫理学』は退屈を論じているが、その内容は退屈ではない。著者の國分功一郎自身、この本を書いているときは退屈しなかったんじゃないだろうか。著者が退屈していないのはなぜか? 結論に至ってその理由がわかるだろう。

 國分はラッセル、パスカルなど多くの退屈論を検討しつつも、それらに十分に納得させられることはない。最終的には國分が“退屈論の最高峰”と呼ぶハイデッガーの論に拠りながら、自身の退屈論を語っている。議論の筋道は明確で、哲学などに詳しくなくとも興味を持って読み進められるだろう。そのテーマが誰もが一度は心覚えのある感覚だからだ。

 ハイデッガーは退屈を詳細に検討し、退屈こそが人間が動物と違う根拠だとして、退屈に可能性を見出した。退屈であるということは自由であり、われわれ人間は決断によって自由を発揮しなければならないのだという。
 國分はこれに異を唱える。それは決断した人間がどうなるかを考えればわかる。決断した人間はなすべき仕事を見つけそれに励もうとするだろう。強い決意を持ってそれに邁進することで周囲の状況から隔絶し、仕事の奴隷となってしまうだろう。これはおかしいのではないか。これが國分のハイデッガーの決断主義に対する批判である。

 似たような議論は“本来性なき疎外”という概念にも表現されている。

 「疎外」という語は、「そもそもの姿」「戻っていくべき姿」、要するに「本来の姿」というものをイメージさせる。(…略…)<本来的なもの>は大変危険なイメージである。なぜならそれは強制的だからである。何かが<本来的なもの>と決定されてしまうと、あらゆる人間に対してその「本来的」な姿が強制されることになる。本来性の概念は人から自由を奪う。


 だから疎外論自体の可能性を捨てることなく利用するには、“本来性なき疎外”という枠のなかで論じられなければならないのだとしている。
 「小人閑居して不善をなす」などと言うが、これは一般的には「暇人はろくなことをしない」といった意味で使われる。それが退屈に耐えられないからなのかはわからないが、何にせよ短絡的な行動は事を仕損じることになりかねない。安易に本来的な目標などを設定することを決断し、それに向かって盲目的に突き進むような態度は自己喪失であり、周りにとっては危険な存在にもなりかねない。だからそこには慎重さが求められる。(*1)

 決断主義に関しては、宇野常寛『ゼロ年代の想像力』で論じている。こちらは退屈論でもなければハイデッガーについてでもないが、決断主義という用語が登場する。宇野はアニメやテレビドラマなどを中心にした膨大なサブ・カルチャーを扱いつつ、現代社会を生き抜く方法を見出そうとする。それによると90年代は『新世紀エヴァンゲリオン』的「ひきこもり」に、ゼロ年代は『バトル・ロワイヤル』的「決断主義」に分類される。
 「大きな物語」が失われた時代には、「小さな物語」が乱立する。生き残るためにはその「小さな物語」のひとつに関与することを決断し、ほかの「小さな物語」との競争を勝ち残っていかなければならない。「ひきこもり」では生きていけないから、あえて決断するしかないという態度が支配的になるというのが宇野の見立てだ。
 「大きな物語」の失調、それは“終わりなき日常”と言い換えることもできる。その意味で宇野の議論も退屈論に近づく部分があるのだろう。宇野は『ゼロ年代の想像力』で、決断主義を“必要悪”であり“焦りの思想”だとし、その克服をそれ以後の時代のテーマとしている。決断主義は極めて現代的な問題でもあるようだ。

 決断主義を退けた『暇と退屈の倫理学』のさしあたりの結論は、やはり慎重にならざるを得ない。冒頭の問いに対する答えは驚くようなものではない。ごく平易に記せば、「退屈せずに熱中するには訓練が必要」ということだろうか。
 ただ注意が必要だ。國分は結論について、こう注釈を加えている。この本の結論は、それに従えば退屈は何とかなるという類のものではない。その方向性へと向かう道を、読者が切り開くものだ。また結論だけ読んでも意味がなく、本書を読みつつ読者が変化していく過程にこそ意義があるのだと。

 著者は「楽しむには訓練が必要」という結論のために、様々な概念を使って暇と退屈の諸相を描き出す。定住革命、暇と退屈の4類型、本来性なき疎外論、ハイデッガーの3つの退屈の形式、環世界論と環世界移動能力、それらを細かく整理検討して自分なりの退屈論への筋道を丁寧に描いている。結論よりも、ハイデッガーの人間と動物の理解をひっくり返し、動物になること(とりさらわれること、熱中すること)へと導くような論理展開をこそ楽しむべきだろう。
 
 もともとこの本はどうしようもない退屈を抱えた國分の悩みから始まっている。「まえがき」と「あとがき」には、「俺」という1人称でそうした過去の姿が記されている。しかし私は「著者は退屈していないように見える」と記した。それは國分が訓練のなされた人間だからだと思う(國分は哲学専攻の大学准教授だそうな)。
 ギリシャの古典を読むにはギリシャ語を知らなければならない。漢詩を読むには漢字を知らなければならない。國分は訓練を積んだ上で、引用される多くの文献の原書に当たって本書を記しており、またそれを楽しんでいるようだ。だからそのあいだは退屈しなかっただろうと思えるのだ。
 國分の熱中する対象は、多くの本を狩猟して自分なりの哲学を完成させることだろう。國分にとっては哲学が対象だったが、ほかの可能性にも触れられている。例えば、“食”だ。國分によればスローフードとは“情報量の多い食事”となる。訓練によって食べ物も今よりもさらに深く味合うことができる。
 学問や食だけでない。一番わかりやすいのは趣味の分野だろう。結論のなかでドゥルーズの言葉が引用されている。彼の熱中する(とりさらわれる)対象は映画や美術だった。彼はそんな対象に出会いとりさらわれるのを「待ち構えている」と語っていた。また映画監督・北野武も「趣味を楽しむには10年はかかる」と語っていた。やはり趣味を味わい尽くすにも訓練が必要なのだ。
 となると序章にあった「好きなことがわからない」という元の位置に戻ってしまう人もいるのかも知れないのだが、やはりそのくらいは訓練して自分で見つけるしかないだろう。國分が戒めていたのも安易に答えを求める短絡さなのだから。

(*1) 國分は、大儀のために死ぬことを望む過激派とか狂信者たちを「恐ろしくもうらやましく思う」心情を指摘し、それは暇と退屈に悩まされているからだとしている。
Date: 2012.12.30 Category: その他の本 Comments (0) Trackbacks (1)

阿部和重 『クエーサーと13番目の柱』 「引き寄せの法則」と“可能世界”

 物語はハリウッドのスパイ映画のように展開する。何かを監視しているモニタリング眼鏡と丸刈りのふたり組。男たちの注視する先に闖入者が現れる。野球帽のふたり組だ。野球帽たちは、眼鏡たちが監視のターゲットとしている人物の部屋に忍び込むのだ。それを発見した眼鏡たちは、野球帽たちを排除するために行動を開始する。

『クエーサーと13番目の柱』 ニューロマンサーを思わせる装丁

 導入はスパイ物だが、『クエーサーと13番目の柱』では国家的な陰謀など登場せず、眼鏡の男(タカツキ)たちの対象はアイドルの女の子だ。安っぽいアイドルを追いかけるパパラッチ的存在と、それを出し抜こうとする見えない敵との戦いが繰り広げられる。
 そこには阿部和重的な誇大妄想満載の登場人物が関わっている。タイトルの“クエーサー(準恒星状天体)”とは、限りなく遠くにあっても強く輝いている天体のこと。モニタリング作戦の首謀者(タカツキの雇い主)曰く、「天体観測者の愛」というのが、アイドルとファンとの関係なんだとか。あまりに遠すぎて絶対に近づけないけれども、その輝きだけは見ることが出来る。だから監視はするけれども、それ以上近づこうとはしない。

 タカツキはそんな雇われ仕事のなかで、別の誇大妄想者のニナイケントに出会う。ニナイの妄想は「引き寄せの法則」という言葉で示される。これはいわゆる成功哲学で、思考は必ず実現するという考えだ。(*1)ニナイは、その法則に従って正しく思考することさえできれば、どんな願望も自らに引き寄せることができると考える。
 ニナイの願望とは母親を蘇らせることである。これだけでも普通とは言えないが、その方法がまた変わっている。ニナイの母親がダイアナ元皇太子妃と同じ時期に同じ状況で亡くなったことから、そのときの事故を再現し、彼が新たなダイアナとするアイドル(エクストラ・ディメンションズのミカ)を助けることによって母が蘇るというのだ。完全に狂気である。

 ニナイが担う「引き寄せの法則」について、作者の阿部和重はこんなふうに語る。

「引き寄せの法則は投資などをする人が読むようなありふれた成功哲学です。そのスピリチュアルな面を虚構的に俗っぽく強調することで、何か違った意味を持たせられたらと意図しました。世間で紋切型として扱われている言葉や概念を更新することは、文学のひとつの役割だと思っています」(*2)

 この作品では「引き寄せの法則」は、“可能世界”や“輪廻”などの考え方と結び合って、それまでの意味合いとは違ったものとして生まれ変わる。
 この作品の冒頭は1997年8月31日日曜日から始まる。これはダイアナ元皇太子妃が事故死した日だ。作者は事実とされることだけを連ね、その事故の詳細をごく客観的に報告している。また、モニタリング作戦中の2009年12月17日木曜日には、伊豆で震度5の地震が起きたことが触れられる。これも事実だ。つまりわれわれの生きている現実を舞台にした話なのだ。(*3)
 しかし一方で、この物語のなかには“可能世界”や“輪廻”を思わせるガジェットに溢れている。“可能世界”論とは、今ある形の現実世界は、あまたあるほかの形の世界のうちのひとつでしかなく、たまたま偶然に(あるいは神様のご意志により)こんな形になっているとする考え方だ。“輪廻”も「今の生が唯一の生ではない」という意味で、“可能世界”論と重なる部分も多いだろう。
 作中、Beyonce「Deja Vu」やRadiohead「Airbag」などの曲が引用される。デジャヴとは、輪廻転生における過去生の記憶の蘇りという説もある。また、「Airbag」でも直接的に輪廻が表現されているし、「ドイツ車に乗っていて、エアバッグで生き残った」と要約される歌詞の内容は、ダイアナを襲った現実とは別の“可能世界”を感じさせる。
 さらに言えば、スピリチュアルな曲という印象はあるが、引用の意図が明瞭でないEarth Wind & Fire「Fantasy」では、“12番目(twelfth)”という言葉が記されている。(*4)タイトルにもある“13番目の柱”とは、ダイアナを乗せたベンツ280Sが激突したのが、アルマ・トンネル内の13番目の柱だったからだ。これは史実であるかもしれないが、13番目の柱に激突したことに特別な意味はないはずだ。
 あえて13番目という言葉を意味ありげに示しておいて、その傍に12番目という言葉が隠されているのだ。現実世界では13番目だったけれども、“可能世界”においては12番目ということも当然あり得る。もしかしたら柱に激突しない世界もあるかもしれない。どんな世界も可能性はある。そんなことを感じさせるのだ。
 もちろんこれは私の妄想だが、ニナイの計画がタカツキに「ご都合主義の妄想」と指摘されるように、この小説はそんな都合のいい解釈も可能なようにも、、書かれていると思う。

 物語の最後で起きる出来事は、ニナイの夢の実現ではない。願望を引き寄せてしまうのはタカツキだ。それはタカツキが抱える後悔の念から生じているのかもしれない。事故で後輩の妻子を奪ってしまった過去があるのだ。後悔という強烈な感情が、思考を現実化するのだろうか。
 眼鏡の男として登場したタカツキは、いつの間にか眼鏡を必要としなくなる。さらに見失ったターゲットの行き先を勘で言い当ててしまう。ニナイから「引き寄せの法則」を聞かされたことが影響してか、知らぬ間に願ったことを引き寄せてしまっているのだ。そして、落雷により純白に染めあげられた世界が、瞬時に新たな世界のイメージとして再生されるのを知って、タカツキは覚醒する。「おれにはすべてのイメージが鮮明に見えている」と語るように、様々な“可能世界”のなかから唯一の正しい世界を選択し、新たなダイアナ(ミカ)を助け出すのだ。救出のエピソードは『マトリックス』のラストみたいな爽快感だ。

(*1) ナポレオン・ヒル『思考は現実化する』という本が、「引き寄せの法則」の代表的なものとされているようだ。自己啓発的な内容らしい。

(*2) この認識は、フローベール『紋切型辞典』などにある問題意識を引き継いだものだ。

(*3) ここでわざわざ地震のエピソードが記されるのは、その後に起きるはずの3.11を意識してのことだと思われる。もし狂った地震学者なんかが登場して、震災に対する警鐘を鳴らしていたならば……。

(*4) “12番目”という言葉はこんなふうに使われている。
  Our voices will ring together 僕らの声はひとつになって鳴り響く
  until the twelfth of never 永久に、いつまでも…
  We all will live love forever as one 僕らはみんな愛の世界に生きることになる 永遠に…
 「the twelfth of never」で、「永遠に」という意味になる。




阿部和重の作品
Date: 2012.11.30 Category: 小説 Comments (0) Trackbacks (0)

トルストイ 『コザック ハジ・ムラート』

 『コザック』『幼年時代』(1852)『少年時代』(1854)の後に書かれたトルストイの初期作品。
 『ハジ・ムラート』はトルストイが死んでから発表された作品である。

トルストイ 『コザック ハジ・ムラート』


『コザック』
 「コザック(コサック)」とは、領主の支配の強化を嫌って辺境のステップ地帯に逃亡した農民の集団からなり、19世紀に入って「貴族・聖職者・農民・商人とならぶ階級の一つとなり、税金免除の引き換えに騎兵として常の兵役の義務が課された」(Wikipediaより)軍事共同体だという。『戦争と平和』でもナポレオン軍を迎え撃つコサック兵が描かれているが、『コザック』でもチェチェン人との戦いの先陣を切る役割を果たしている。
 『コザック』では、オレーニンという若者の青春時代が描かれる。モスクワでの貴族生活を捨ててカフカーズ(コーカサス)へとやってきた主人公は、そこに暮らすコザックたちのなかで生活することになる。オレーニンは「ここいらで見る人間は、人間ではない。彼らのうちには、誰ひとりおれを知るものもなければ、将来だって、おれのいたモスクワの社交界などへ出入りする気づかいはないのだから、おれの過去を知るはずもないのだ。」などと考え、過去からの解放感を覚えつつ新たな土地で新たな出発を夢見る若者なのだ。そこでの生活には人生をいかに生きるべきかという悩みがあり、チェチェン人との戦いがあり、猟に耽溺する楽しみがあり、そして初めて愛するということを知ることになるのだ。

 ここでは著作『ロシア的人間』でトルストイを論じている井筒俊彦の言葉を借りたい。「まず何よりも地的な、純粋に地上的な「生」に対する素朴で無羞恥な愛、一日一日を生きていくことの尽きせぬ悦び、ここにこそトルストイの真の偉大さがある。」と井筒俊彦は記している。そしてそんな「人間における自然性」を体現した存在が、『コザック』におけるエローシカだと論じている。

人間における自然性を、その窮極的形態に捉えて、これを見事に生きた人間として受肉させたトルストイ芸術のすぐれた創造物の一つである。絶対に無条件な存在の受容、徹底した生の肯定、それがこの老コサックの精神である。

 
 そして「自然と一つに成ること」が、「エローシカ的モラル」だと井筒は記し、「ちょっと見ると何の訳もない簡単なことのように思われるけれど、実はここにこそ人生の意義に百八十度の旋廻を強いる大きな意味が含まれている」と続けている。井筒は『ロシア的人間』において、トルストイの章の大半を『コザック』に費やしている。『戦争と平和』でもなく、『アンナ・カレーニナ』でもなく、『コザック』にこそトルストイの「生の肯定」が表れていると考えているのだ。
 また、この本の解説において、『ドストエフスキー』という著作もある山城むつみはこう記している。「ドストエフスキー本人は、天がトルストイ作品に与えたとしか言いようのない極上の恵みに比べれば自分の書くものなど、健全さに欠けた、ヤクザな二流品ではないのかと心のどこかで疑っていたと思います」。トルストイの健全さは、ドストエフスキーを嫉妬させもするのだが、一方で表面的には道徳的で安易な印象を与えかねない(日本ではドストエフスキーのほうが人気のようだ)。井筒俊彦もトルストイが誤解されてきたことに注意を促している。ここでは詳しく触れる余裕はないから、あの『意識と本質』(手元に置きたい本とはまさにこの本!)を書いた井筒俊彦が絶賛しているのだからトルストイは素晴らしい、とその権威にすがって言っておこう。


『ハジ・ムラート』 
 『ハジ・ムラート』は『コザック』から30年以上のちに記されたトルストイ最後の小説。冒頭、作者と思わしき「私」が、野道を散歩していると「だったん草(野アザミ)」を見つける。それは車輪の下敷きになったらしく、ひどく痛めつけられ傷ついていた。その草はこう描写される。

まさにからだの一部をむしりとられ、腸を露出し、片手をもがれ、眼をとびださせられているのであった。しかも彼は、依然として立ち、周囲の同胞をことごとく滅ぼしつくした人間に、降参しようとはしていないのであった。


 この印象的な場面から、ひとつの出来事を思い出し回想に入っていく。それが「ハジ・ムラート」という実在の人物の物語だ。
 ハジ・ムラートがチェチェン人の村に秘かに現れる冒頭から始まって、ハジ・ムラートの投降を受け入れるロシア側のざわめきに場面を展開していきつつ、イスラム神秘主義者たちの反ロシア運動に巻き込まれるハジ・ムラートの人生も語られていく。ハジ・ムラートはロシアとイスラム勢力の狭間を行き来し、寝返りを繰り返す。ラスト、母親たちを助けるためにロシア側から逃げ出してイスラム側に戦いを挑もうとするが、ロシア側の兵士に囲まれて壮絶な最期を遂げるのだ(藪のなかに立てこもり反撃する場面は西部劇のよう)。このハジ・ムラートの姿が冒頭の「だったん草」に描写されるものなのだ。

 トルストイ作品の登場人物が自伝的要素を含んでいることはつとに指摘されているが、最晩年に記したハジ・ムラートの姿にも、トルストイは自分の姿を見ていたのだろうか。
 トルストイは「だったん草」に対し、≪なんという精力だろう!≫≪人間はすべてに打ち勝ち、幾百万の草を絶滅したが、これだけはついに降参しようとしないのだ≫と記す。これはそのままハジ・ムラートについての評言だ。だがそこには生の肯定というよりは、つまり降参しなかったことの賛美よりは、痛めつけられる「だったん草」(=ハジ・ムラート)に対する悲哀のほうが強く感じられるのは私だけだろうか。
 トルストイは『ハジ・ムラート』を書き上げた6年後、すべてを捨てて家出をし、旅先の駅で野垂れ死ぬようにこの世を去るわけだ。

トルストイの作品
Date: 2012.06.30 Category: 小説 Comments (0) Trackbacks (0)
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新作映画(もしくは新作DVD)を中心に、週1本ペースでレビューします。

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