『伊藤計劃映画時評集』 伊藤計劃の映画ブログが本に!
『伊藤計劃映画時評集』は、著者が生前ブログで公開していた映画評をまとめたもの。『虐殺器官』『ハーモニー』はオリジナリティに溢れた作品だが、細部にどことなく映画好きの匂いが感じられた(実際には映画だけでなく、ゲームとかアニメの影響が大きいようだ)。この2冊は、伊藤計劃のシネフィルぶりを感じさせる本になっている。
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取り上げられている作品は、第1回の『エイリアン4』(1997年)から第66回の『イノセンス』(2004年)まで。ほかには『スターシップ・トゥルーパーズ』『プライベート・ライアン』『トゥルーマン・ショー』『アイズ・ワイド・シャット』『マトリックス』『ファイト・クラブ』(以上、第1巻)『インビジブル』『ダンサー・イン・ザ・ダーク』『ハンニバル』『ブラックホーク・ダウン』『パニック・ルーム』『マトリックス リローデッド』『ターミネーター3』(以上、第2巻)などなど。たまたま挙げた作品はカタカナばかりだが邦画もある。基本はメジャー系の作品であり、公開されたばかりの新鮮な時期に書かれている。
伊藤は、これらの文章はブログ読者を映画館へ誘導するための「映画の紹介」だと断わっているが、巻末(第1巻)の解説で翻訳家(というか映画評論家)の柳下毅一郎が「この言葉は真っ赤な嘘だ。伊藤のレビュウはたいへん優れた時評であり、映画の本質を突く批評となっている」と記しているように、力の入った映画評である。
文芸誌「群像」で映画時評を連載中の蓮實重彦は、「この歳になると時評は疲れる」みたいなことをどこかで語っていた。批評界の重鎮の意図は測りかねるが、端的に「疲れる」という部分なら何となくわかる気もする。たかがブログだって疲れるときもあるからだ。映画館に出向くたびに素晴らしい作品に出会えるわけではない。とりあえず何か書く段になると、途方に暮れるようなことも多々あるわけだ。
お気に入りの作品に出会えれば、書きたいことが泉のように湧いて出るのかもしれない。伊藤にとって『ファイト・クラブ』はそんな一本であり、高揚した気分のままに読者を煽るような冒頭の文章がいい。
ぼくらは財布の中身じゃない。ぼくらは仕事じゃない。ぼくらはスウェーデン製の家具なんかじゃない。でも今、ぼくらはまさにそのすべてでもある。物に囲まれて都市に生きるぼくらは、ほんとうの痛みをいつのまにか忘れている。神経性の痛みばかり抱え込んで、傷つけ、傷つけられることによってぼくと君とを分かつ、その痛みを忘れている。痛みも他者も、いまやすべてが頭のなかにある。
そんな時代を笑い飛ばしつつ、ラストにささやかなラブ・ソングを歌う、20世紀最強最後の凶悪な詩。20‐30代の立ち位置を確認する、「年齢の高い」若者のための映画「ファイト・クラブ」。
私のオールタイム・ベスト10の一本です。 (第1巻、p.200より)
だけど実際にはそんな作品はまれだ。だから蓮實も言うように「疲れる」のではないか。伊藤のこの本も、ブログを続けること、映画について人に語ることの難しさも感じさせる。到底人様に薦められないような作品は無視すればいいのだけど、ただ「おもしろかった」としか言えない映画もあるわけで、そういうときにもやはり頭を抱えることになる。例えば、伊藤が取り上げている『オースティン・パワーズ:デラックス』など、伊藤の言葉通り「お馬鹿の一言」であって、それ以上何を言えばいいのか? 私も『オースティン・パワーズ』シリーズをなかば呆れつつ大笑いしたのだが、ブログに記すとなるとなかなか……。(*1)
また、退屈な作品もただ「つまらない」と切って捨てては芸がない。小説家の高橋源一郎は“文壇の淀川長治”を目指すと語っていたことがあった。これは淀川さんのように、どんな作品でもいい部分を褒めることを重視するといった意味だろう(日曜映画劇場あたりの淀川さんのことを指していると思われるが)。高橋源一郎は、文壇において貶すことばかりで作品のいい部分を掬いあげるような批評家がいないことを嘆いていたわけで、その役割を自分で担おうとしていたわけだ。伊藤にそういう意図があったのかわからないが、ダメな作品の楽しみ方を披露し、見過ごしがちないい部分を探そうと頭をひねっている。これはなかなか困難な仕事だ。
前半ではそんな困難を正直に吐露する部分もあって共感させられる。しかし後半になるにつれ、筆の運びがスムーズになり、伊藤が描いた批評の姿、「その映画から思いもよらなかったヴィジョンをひねり出すことができる、面白い読み物」として読み応えがある。(*2)
例えば『ターミネーター3』なんて、4作目が登場した今ではなかったことにされているわけだが、そんな作品にも愛情を持って言葉を連ねている。(*3)また、1作目の出来からすればかなり無惨な『マトリックス リローデッド』に関しても、その酷さの分析を試み、最後のネオとアーキテクトの会話を原文から日本語訳してみせたりしている。やはり伊藤も映画が好きだったんだなと思わせる(過去形で語らなければならないのが残念だ)。そうでなければ、手間をかけて頼まれもしない翻訳をしてまで作品に迫ろうとはしなかっただろう。
(*1) 私に関して記せば、例えば、カウリスマキの『ル・アーブルの靴みがき』はとても良かったのだけど、そのおもしろさを言葉で説明しようとしても退屈な読み物にしかならない。
例えば、ジャッキー・チェンの『ライジング・ドラゴン』も、劇場でジャッキーの(最後の?)勇姿に感動し、ファンへの「ありがとう」の言葉に涙を流したほどなのだが、あのアクションのおもしろさを伝えるとなると、ただ「すごい」としか言えなくなってしまうのだ。
(*2) 「批評とはそんなくだらないおしゃべりではなく、もっと体系的で、ボリュームのある読みものだ。もっと厳密にいえば「~が描写できていない」「キャラクターが弱い」「人間が描けていない」とかいった印象批評と規範批評の粗雑な合体であってはいけない。厳密な意味での「批評」は、その映画から思いもよらなかったヴィジョンをひねり出すことができる、面白い読み物だ。」(第1巻、p.12より)
(*3) 『ターミネーター3』のジョナサン・モストウ監督を、アクションの撮れる監督として論じている。キャメロンの前2作品の出来からは比べれば見劣りするからか、私はそんなこと考えもしなかったが、今考えると『ターミネーター3』での中盤の大型クレーン車の逆立ち場面は、『ダークナイト』でクリストファー・ノーランがパクっているようにも見える。
伊藤計劃の作品
