ギドクの問題作 『メビウス』 私は父で、母は私で、母は父である(意味不明?)
キム・ギドクの最新作(第19作目)。
諸事情により公開が遅れている『メビウス』だが、新宿シネマカリテにおける映画祭カリコレ2014のクロージング作品として2回だけ上映された。
ちなみに今回のバージョンは、海外で一般的に出回っているインターナショナル・バージョンとは異なり、ギドクが一部を再編集した日本オリジナル・バージョンとのこと。劇場公開は今冬の予定。
出演は、ギドク映画の常連『悪い男』のチョ・ジェヒョンと、ソ・ヨンジュやイ・ウヌなど。

この日は上映前に映画評論家・塩田時敏と配給会社キングレコードの担当者とのトークショーも行われ、公開遅延の諸事情についても裏話が披露された。諸事情の詳細についてはここでは触れることはできないが(「書かれると色々都合が……」ということらしい)、とりあえずご立腹の様子だったとだけ記しておく。
上映前、塩田氏から「乳首に注目せよ」との意味深な発言もあり。
“近親相姦と去勢”という精神分析を匂わせるキーワードで語られているこの作品だが、観てみればそうした印象とは違うかもしれない。精神分析の見取り図には収まらないギドク印満載の映画になっていると思う。
『メビウス』では、男たちは精神的に“去勢”されるわけではなく、実際にペニスを切除されてしまう。また、主人公の高校生(実際に15歳だったのだとか)の性行為が、演じる役者の年齢からしても際どいものであることも確か。とにかく万人に受けるような作品ではないだろう。
前作の『嘆きのピエタ』も相当どぎついエピソードを含んでいるが、説明的な部分もあって、ギドク作品のなかでもわかりやすいし、テーマとしても母性愛など共感できるものでもあったため、ベネチア映画祭での金獅子賞の獲得ともなった。一方、『メビウス』は誰の共感も得られないし、賞レースとも無縁だろう。そのくらいぶっ飛んでいるし、ギドクは好き勝手にやっている(その分、公開を巡っては問題もあるようだが)。
『嘆きのピエタ』でのしゃべらせすぎの反省かどうかはわからないが、『メビウス』では登場人物は一切口をきかない。うめき声やら悲鳴やらはあったとしても、誰一人として意味をなす言葉を発しない。一部、ウェブサイトの情報を提示する部分はあるが(英語だから詳細はわからないが)、そのほかはほとんど視線のやりとりや行動で物語が進んでいく。言うまでもなく不自然極まりないのだが、誰もが言葉を封じられ、行動だけで自らの意図や感情を示さなければならないという状況は、シュールなコメディのようだった。さりとて笑えるかと言えば、あまりに悪趣味な部分があって苦笑いといったところ。
◆物語は?
冒頭の様子からすると、この映画で描かれる家庭は明らかに壊れている。朝から赤ワインを傾けている母親が最も狂気を帯びているが、どうやらその原因は父親にあるらしく、父親は母親を無視して愛人との情事に夢中らしい。息子は品行方正らしく見え、両親の激しいつかみ合いを見て唖然としている。
事態は急に進行する。母親は父親(夫)の浮気現場を目撃し、その夜、父親のベッドへ向かう。父親のペニスを切り落とそうとするのだ。父親は咄嗟に跳ね除けるが、なぜか母親はその刃を息子に向けることになる。母親は寝ている息子のペニスを切り取って、しかもあろうことかそれを食べてしまう……。
※ 以下、ネタバレ全開です。鑑賞後にどうぞ。

※ 結末にもかなり詳細に触れています。観ていない人はご注意を !
ここまでが序盤だが、ほとんどあっという間に生じる出来事だ。あまりの性急さに唖然とさせられる。一応それは母親の狂気のなせるわざだが、狂気だとしても狂気は狂気なりに順を追って進行していくはずだと思うが、一気呵成にここまで描いてしまうのが、ギドクらしいと言えばギドクらしい。これらは与えられたシチュエーションであって、そうした状況から何が生まれてくるのか、そこにギドクの主眼があるものと推測する(設定にリアリティがないと非難しても仕方ない)。
メビウスの帯(輪)の数学的な意味はわからないが、ごく一般的な理解では、表と裏がひと続きになっているような不思議な図形のことだろう。この『メビウス』もその題名の意味から推測すれば、よく理解できる。結論を言ってしまえば、男と女、正気と狂気、傷みと快感、そうした表と裏の関係にあると思われているものも、実は皆ひと続きになっているということだ。
◆男⇒女⇒男
ペニス切断事件のあと、狂気の母親は街を彷徨し、たまたま街角で会った“祈る人”を追いかけて姿をくらます。その後、父親は甲斐甲斐しく息子の世話を焼く。事件のきっかけが彼の浮気ということもあるのだろう。だがその後悔が自分のペニスを息子に移植することにつながるとは……。父親は自殺も考えるが、それは果たせず奇妙な贖罪の行動へと進む(これはひとりよがりの考えであり、ペニスは病院で保管され、後に再登場する)。
というわけで、しばらくの間、父親と息子は去勢された男同士というややこしい関係にある。この間のふたりは妙に穏やかで馴れ馴れしく、互いを気遣う様子を見せる。言わば女性的な関係なのだ。
父親は去勢された息子を心配し、ペニス抜きのマスターベーションの方法を探る。それは皮膚を擦ることで快感を得るという方法だった。蚊に刺されて皮膚を掻けば最初は心地いいが、やり過ぎれば痛みを伴う。石などで皮膚を擦れば次第に皮膚は傷つくのだが、皮膚が爛れるまで擦り続けることで、痛みは快感へとつながるらしい。もちろん快感のあとには苦痛が待っている。つまりここでは痛みと快感が表裏一体になっている(痛み⇒快感⇒痛み)。
さらに息子は別のマスターベーションを見いだす。というよりもこれは一種のセックスとして機能しているようだ。息子は父親の愛人と接近し、別の方法を試す。ペニスがなく、痛みが快感につながるなら、人工的なヴァギナを拵え、それで快楽を得ようとするのだ。具体的にはナイフで身体を刺し、それを傷口に入れたまま振動させる。ナイフはペニスであり、その傷口はヴァギナであるというわけだ。
この一連のシークエンスで意図されているのは何か?
父親が見つけ息子がさらに発展させた方法は、去勢された男が女性的な存在として生きることを目論むものだ。父も息子もペニスを切り取って女性的な存在になるが、再びそれを縫合することで息子は男に戻る(男⇒女⇒男)。男と女は対の存在と思われているが、実はあまり差はない。そんなふうにギドクは考えるわけだ。男と女に裏も表もない。裏は表になり、またいつの間にか表が裏になるのがメビウスの帯(輪)であり、男が女になり、女が男になることも当然あり得るのだ。
◆メビウスの帯の結節点?
息子が男に戻ったころ、母親は家に戻ってくる。すると憑き物が落ちたような穏やかな表情をし、その目からも狂気の妖光は消えている。そして、母親は切り取ったはずの息子のペニスが復活し、父親のペニスがないことに驚く。ここでは以前の正気と狂気の立場が入れ替わっていることにも気づかされるだろう(狂気⇒正気⇒狂気)。
この映画全体が「家族の物語」だとすれば、「狂気の家族」が裏返って「正気の家族」に向かうと推測できるが、ギドクはそうはしなかった。この映画は家族関係の崩壊あるいは修復などにテーマがあるわけではないからだろう。
家庭を出て一度は正気に戻った母親だが、家庭に戻ると途端に息子の寝込みを襲うようになる(直接的な近親相姦ではないが性的接触はある)。母親が欲望を息子に向けるのは、単に父親にはペニスがないからだ。一方、父親は妻を奪われたのを羨み、息子に与えたペニスを奪い返そうとする。こうしたすったもんだの挙句、家族の結末は悲劇に終わる。しかし、この絵に描いたような悲劇は現実の出来事でない。恐らく息子が見た夢だ。
ラストシーンは“祈る人”の再登場だ。最初の登場では後姿しか見せなかった“祈る人”だが、ラストでは振り返って観客に向かって笑いかける。“祈る人”は息子だったのだ。ギドク監督本人が演じているような風貌の“祈る人”だが、それは意図的なミスリードだったようだ(『春夏秋冬そして春』などの俳優ギドクの姿を見ていると、そうしたミスリードをされやすいだろう)。最初の“祈る人”の登場は、息子がペニスを切られたシーンのあと。息子は病院に担ぎ込まれ、時を同じくして街を彷徨している母親が“祈る人”に出会うのだ。
普通に考えれば、“祈る人”は息子とは別人になるはずで、何かしらの矛盾が生じている。(*1)しかし、その矛盾はここでは問題にならない。裏と表という通常は対の位置にあるものがひと続きになるのが、メビウスの帯なのであり、“祈る人”はメビウスの帯の裏と表との結接点なのだろう。そして、“祈る人”によってつながっているのは「現実の世界」と「虚構の世界」だ。この映画では、現実の出来事も夢の出来事も同等のものとして結びついている。ここでは現実と夢はいつの間にかにつながっていて、どこまでが現実で、どこからが夢だと分けることはできないのだ(現実⇒虚構⇒現実⇒・・・)。
(*1) これは『悪い男』の砂浜に埋められた写真と同じような機能だ。海辺を訪れたハンギとソナは、ある女が海に入っていくのを目撃する。ソナは自殺した女が砂浜に埋めた写真を拾うと、そこには未来の(もしくは幻想の)ハンギとソナの姿が写っている。
◆最後に「乳首の話」
さて、ここで先に記した「乳首の話」を思い出そう。『メビウス』で登場するふたりの女性(母親と愛人)の乳首(というか乳房)は、幾分作り物めいている。もしかしたら整形なのかもしれないが、そういうことを塩田氏は言わんとしたわけじゃない。ふたりの乳首(乳房)が同じものだということを示していたわけだ。つまり母親役と愛人役を演じているのは、イ・ウヌという一人の女優だということだ。
一部の情報ではすでに発表されているが、私自身は映画が終わってもそれに気がつかなかった。塩田氏は「ぼんやりしていると気がつかないから」という老婆心から、そのことを前フリしていたのだが、それでも私にはわからなかった。そのくらい妻と愛人は別物に見える。チラシなどでわざわざ登場人物を4つに分割して見せているのも戦略なのだろう(上の写真のふたりの女は到底同じ人物とは思えない)。
もちろんイ・ウヌがメイクや演技力でうまく化けたことが重要なのではない。母親役と愛人役を一人の役者が演じなければならない理由は、『メビウス』という題名からすれば、すでに明らかだろう。女というものは、妻という存在にも、愛人という存在にもなるということだ。
ここでは妻という存在にイメージされるのが、たとえば“貞淑”だとすれば、愛人には“不貞”があてはまるが、それらは決して対のものではなくひと続きになっているのだ。たとえば母親が家庭の“守護神”だとすれば、愛人はその“破壊神”かもしれないし、この映画では母親は“狂気”を帯び、愛人は“正気”を保っているようにも見える。とにかく妻という存在と愛人という存在は裏表のようでいて、実は同じ地平にいて“貞淑”も“不貞”も同一人物に生じるその時々のあり方みたいなものなのだ。
改めて結論を繰り返せば、男と女、正気と狂気、傷みと快感、現実と虚構、そして妻と愛人、そうした反対物も『メビウス』という映画においてはひと続きになっているのだ。
これはギドクが『悲夢』で取り上げている“黒白同色”という思想に、ひねりを加えて発展させたものだと思う。「そうした思想はわかった。だからどうした? 異様な物語があるばかりじゃないか」というツッコミもあるかもしれない。しかし、迷いが感じられた『悲夢』よりも突き抜けたものがあるし、最後に“祈る人”が観客に向ける不敵な笑みは、ギドクの自信の表れとも思えた。
続きというか、こちらでも一言
キム・ギドクの作品


↑ 私自身は観ていないが、こんな海外バージョンも出ているようだ。台詞がないから字幕も必要ないわけで、これでも十分かもしれない。ただ海外のものなので、「再生できない可能性」がある旨の注意書きはある。DVDの情報ではイタリア語となっているが、意味不明。悲鳴やらうめき声をイタリア語で吹き替えするとも思えないが。


↑ この2つは日本版。7月8日に発売。
諸事情により公開が遅れている『メビウス』だが、新宿シネマカリテにおける映画祭カリコレ2014のクロージング作品として2回だけ上映された。
ちなみに今回のバージョンは、海外で一般的に出回っているインターナショナル・バージョンとは異なり、ギドクが一部を再編集した日本オリジナル・バージョンとのこと。劇場公開は今冬の予定。
出演は、ギドク映画の常連『悪い男』のチョ・ジェヒョンと、ソ・ヨンジュやイ・ウヌなど。

この日は上映前に映画評論家・塩田時敏と配給会社キングレコードの担当者とのトークショーも行われ、公開遅延の諸事情についても裏話が披露された。諸事情の詳細についてはここでは触れることはできないが(「書かれると色々都合が……」ということらしい)、とりあえずご立腹の様子だったとだけ記しておく。
上映前、塩田氏から「乳首に注目せよ」との意味深な発言もあり。
“近親相姦と去勢”という精神分析を匂わせるキーワードで語られているこの作品だが、観てみればそうした印象とは違うかもしれない。精神分析の見取り図には収まらないギドク印満載の映画になっていると思う。
『メビウス』では、男たちは精神的に“去勢”されるわけではなく、実際にペニスを切除されてしまう。また、主人公の高校生(実際に15歳だったのだとか)の性行為が、演じる役者の年齢からしても際どいものであることも確か。とにかく万人に受けるような作品ではないだろう。
前作の『嘆きのピエタ』も相当どぎついエピソードを含んでいるが、説明的な部分もあって、ギドク作品のなかでもわかりやすいし、テーマとしても母性愛など共感できるものでもあったため、ベネチア映画祭での金獅子賞の獲得ともなった。一方、『メビウス』は誰の共感も得られないし、賞レースとも無縁だろう。そのくらいぶっ飛んでいるし、ギドクは好き勝手にやっている(その分、公開を巡っては問題もあるようだが)。
『嘆きのピエタ』でのしゃべらせすぎの反省かどうかはわからないが、『メビウス』では登場人物は一切口をきかない。うめき声やら悲鳴やらはあったとしても、誰一人として意味をなす言葉を発しない。一部、ウェブサイトの情報を提示する部分はあるが(英語だから詳細はわからないが)、そのほかはほとんど視線のやりとりや行動で物語が進んでいく。言うまでもなく不自然極まりないのだが、誰もが言葉を封じられ、行動だけで自らの意図や感情を示さなければならないという状況は、シュールなコメディのようだった。さりとて笑えるかと言えば、あまりに悪趣味な部分があって苦笑いといったところ。
◆物語は?
冒頭の様子からすると、この映画で描かれる家庭は明らかに壊れている。朝から赤ワインを傾けている母親が最も狂気を帯びているが、どうやらその原因は父親にあるらしく、父親は母親を無視して愛人との情事に夢中らしい。息子は品行方正らしく見え、両親の激しいつかみ合いを見て唖然としている。
事態は急に進行する。母親は父親(夫)の浮気現場を目撃し、その夜、父親のベッドへ向かう。父親のペニスを切り落とそうとするのだ。父親は咄嗟に跳ね除けるが、なぜか母親はその刃を息子に向けることになる。母親は寝ている息子のペニスを切り取って、しかもあろうことかそれを食べてしまう……。
※ 以下、ネタバレ全開です。鑑賞後にどうぞ。

※ 結末にもかなり詳細に触れています。観ていない人はご注意を !
ここまでが序盤だが、ほとんどあっという間に生じる出来事だ。あまりの性急さに唖然とさせられる。一応それは母親の狂気のなせるわざだが、狂気だとしても狂気は狂気なりに順を追って進行していくはずだと思うが、一気呵成にここまで描いてしまうのが、ギドクらしいと言えばギドクらしい。これらは与えられたシチュエーションであって、そうした状況から何が生まれてくるのか、そこにギドクの主眼があるものと推測する(設定にリアリティがないと非難しても仕方ない)。
メビウスの帯(輪)の数学的な意味はわからないが、ごく一般的な理解では、表と裏がひと続きになっているような不思議な図形のことだろう。この『メビウス』もその題名の意味から推測すれば、よく理解できる。結論を言ってしまえば、男と女、正気と狂気、傷みと快感、そうした表と裏の関係にあると思われているものも、実は皆ひと続きになっているということだ。
◆男⇒女⇒男
ペニス切断事件のあと、狂気の母親は街を彷徨し、たまたま街角で会った“祈る人”を追いかけて姿をくらます。その後、父親は甲斐甲斐しく息子の世話を焼く。事件のきっかけが彼の浮気ということもあるのだろう。だがその後悔が自分のペニスを息子に移植することにつながるとは……。父親は自殺も考えるが、それは果たせず奇妙な贖罪の行動へと進む(これはひとりよがりの考えであり、ペニスは病院で保管され、後に再登場する)。
というわけで、しばらくの間、父親と息子は去勢された男同士というややこしい関係にある。この間のふたりは妙に穏やかで馴れ馴れしく、互いを気遣う様子を見せる。言わば女性的な関係なのだ。
父親は去勢された息子を心配し、ペニス抜きのマスターベーションの方法を探る。それは皮膚を擦ることで快感を得るという方法だった。蚊に刺されて皮膚を掻けば最初は心地いいが、やり過ぎれば痛みを伴う。石などで皮膚を擦れば次第に皮膚は傷つくのだが、皮膚が爛れるまで擦り続けることで、痛みは快感へとつながるらしい。もちろん快感のあとには苦痛が待っている。つまりここでは痛みと快感が表裏一体になっている(痛み⇒快感⇒痛み)。
さらに息子は別のマスターベーションを見いだす。というよりもこれは一種のセックスとして機能しているようだ。息子は父親の愛人と接近し、別の方法を試す。ペニスがなく、痛みが快感につながるなら、人工的なヴァギナを拵え、それで快楽を得ようとするのだ。具体的にはナイフで身体を刺し、それを傷口に入れたまま振動させる。ナイフはペニスであり、その傷口はヴァギナであるというわけだ。
この一連のシークエンスで意図されているのは何か?
父親が見つけ息子がさらに発展させた方法は、去勢された男が女性的な存在として生きることを目論むものだ。父も息子もペニスを切り取って女性的な存在になるが、再びそれを縫合することで息子は男に戻る(男⇒女⇒男)。男と女は対の存在と思われているが、実はあまり差はない。そんなふうにギドクは考えるわけだ。男と女に裏も表もない。裏は表になり、またいつの間にか表が裏になるのがメビウスの帯(輪)であり、男が女になり、女が男になることも当然あり得るのだ。
◆メビウスの帯の結節点?
息子が男に戻ったころ、母親は家に戻ってくる。すると憑き物が落ちたような穏やかな表情をし、その目からも狂気の妖光は消えている。そして、母親は切り取ったはずの息子のペニスが復活し、父親のペニスがないことに驚く。ここでは以前の正気と狂気の立場が入れ替わっていることにも気づかされるだろう(狂気⇒正気⇒狂気)。
この映画全体が「家族の物語」だとすれば、「狂気の家族」が裏返って「正気の家族」に向かうと推測できるが、ギドクはそうはしなかった。この映画は家族関係の崩壊あるいは修復などにテーマがあるわけではないからだろう。
家庭を出て一度は正気に戻った母親だが、家庭に戻ると途端に息子の寝込みを襲うようになる(直接的な近親相姦ではないが性的接触はある)。母親が欲望を息子に向けるのは、単に父親にはペニスがないからだ。一方、父親は妻を奪われたのを羨み、息子に与えたペニスを奪い返そうとする。こうしたすったもんだの挙句、家族の結末は悲劇に終わる。しかし、この絵に描いたような悲劇は現実の出来事でない。恐らく息子が見た夢だ。
ラストシーンは“祈る人”の再登場だ。最初の登場では後姿しか見せなかった“祈る人”だが、ラストでは振り返って観客に向かって笑いかける。“祈る人”は息子だったのだ。ギドク監督本人が演じているような風貌の“祈る人”だが、それは意図的なミスリードだったようだ(『春夏秋冬そして春』などの俳優ギドクの姿を見ていると、そうしたミスリードをされやすいだろう)。最初の“祈る人”の登場は、息子がペニスを切られたシーンのあと。息子は病院に担ぎ込まれ、時を同じくして街を彷徨している母親が“祈る人”に出会うのだ。
普通に考えれば、“祈る人”は息子とは別人になるはずで、何かしらの矛盾が生じている。(*1)しかし、その矛盾はここでは問題にならない。裏と表という通常は対の位置にあるものがひと続きになるのが、メビウスの帯なのであり、“祈る人”はメビウスの帯の裏と表との結接点なのだろう。そして、“祈る人”によってつながっているのは「現実の世界」と「虚構の世界」だ。この映画では、現実の出来事も夢の出来事も同等のものとして結びついている。ここでは現実と夢はいつの間にかにつながっていて、どこまでが現実で、どこからが夢だと分けることはできないのだ(現実⇒虚構⇒現実⇒・・・)。
(*1) これは『悪い男』の砂浜に埋められた写真と同じような機能だ。海辺を訪れたハンギとソナは、ある女が海に入っていくのを目撃する。ソナは自殺した女が砂浜に埋めた写真を拾うと、そこには未来の(もしくは幻想の)ハンギとソナの姿が写っている。
◆最後に「乳首の話」
さて、ここで先に記した「乳首の話」を思い出そう。『メビウス』で登場するふたりの女性(母親と愛人)の乳首(というか乳房)は、幾分作り物めいている。もしかしたら整形なのかもしれないが、そういうことを塩田氏は言わんとしたわけじゃない。ふたりの乳首(乳房)が同じものだということを示していたわけだ。つまり母親役と愛人役を演じているのは、イ・ウヌという一人の女優だということだ。
一部の情報ではすでに発表されているが、私自身は映画が終わってもそれに気がつかなかった。塩田氏は「ぼんやりしていると気がつかないから」という老婆心から、そのことを前フリしていたのだが、それでも私にはわからなかった。そのくらい妻と愛人は別物に見える。チラシなどでわざわざ登場人物を4つに分割して見せているのも戦略なのだろう(上の写真のふたりの女は到底同じ人物とは思えない)。
もちろんイ・ウヌがメイクや演技力でうまく化けたことが重要なのではない。母親役と愛人役を一人の役者が演じなければならない理由は、『メビウス』という題名からすれば、すでに明らかだろう。女というものは、妻という存在にも、愛人という存在にもなるということだ。
ここでは妻という存在にイメージされるのが、たとえば“貞淑”だとすれば、愛人には“不貞”があてはまるが、それらは決して対のものではなくひと続きになっているのだ。たとえば母親が家庭の“守護神”だとすれば、愛人はその“破壊神”かもしれないし、この映画では母親は“狂気”を帯び、愛人は“正気”を保っているようにも見える。とにかく妻という存在と愛人という存在は裏表のようでいて、実は同じ地平にいて“貞淑”も“不貞”も同一人物に生じるその時々のあり方みたいなものなのだ。
改めて結論を繰り返せば、男と女、正気と狂気、傷みと快感、現実と虚構、そして妻と愛人、そうした反対物も『メビウス』という映画においてはひと続きになっているのだ。
これはギドクが『悲夢』で取り上げている“黒白同色”という思想に、ひねりを加えて発展させたものだと思う。「そうした思想はわかった。だからどうした? 異様な物語があるばかりじゃないか」というツッコミもあるかもしれない。しかし、迷いが感じられた『悲夢』よりも突き抜けたものがあるし、最後に“祈る人”が観客に向ける不敵な笑みは、ギドクの自信の表れとも思えた。
続きというか、こちらでも一言
キム・ギドクの作品

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↑ 私自身は観ていないが、こんな海外バージョンも出ているようだ。台詞がないから字幕も必要ないわけで、これでも十分かもしれない。ただ海外のものなので、「再生できない可能性」がある旨の注意書きはある。DVDの情報ではイタリア語となっているが、意味不明。悲鳴やらうめき声をイタリア語で吹き替えするとも思えないが。
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↑ この2つは日本版。7月8日に発売。