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ギドクの問題作 『メビウス』 私は父で、母は私で、母は父である(意味不明?)

 キム・ギドクの最新作(第19作目)。
 諸事情により公開が遅れている『メビウス』だが、新宿シネマカリテにおける映画祭カリコレ2014のクロージング作品として2回だけ上映された。
 ちなみに今回のバージョンは、海外で一般的に出回っているインターナショナル・バージョンとは異なり、ギドクが一部を再編集した日本オリジナル・バージョンとのこと。劇場公開は今冬の予定。
 出演は、ギドク映画の常連『悪い男』のチョ・ジェヒョンと、ソ・ヨンジュイ・ウヌなど。

キム・ギドク最新作 『メビウス』 中央がギドクのペルソナなどと呼ばれる“チョ・ジェヒョン”

 この日は上映前に映画評論家・塩田時敏と配給会社キングレコードの担当者とのトークショーも行われ、公開遅延の諸事情についても裏話が披露された。諸事情の詳細についてはここでは触れることはできないが(「書かれると色々都合が……」ということらしい)、とりあえずご立腹の様子だったとだけ記しておく。
 上映前、塩田氏から「乳首に注目せよ」との意味深な発言もあり。

 “近親相姦と去勢”という精神分析を匂わせるキーワードで語られているこの作品だが、観てみればそうした印象とは違うかもしれない。精神分析の見取り図には収まらないギドク印満載の映画になっていると思う。
 『メビウス』では、男たちは精神的に“去勢”されるわけではなく、実際にペニスを切除されてしまう。また、主人公の高校生(実際に15歳だったのだとか)の性行為が、演じる役者の年齢からしても際どいものであることも確か。とにかく万人に受けるような作品ではないだろう。
 前作の『嘆きのピエタ』も相当どぎついエピソードを含んでいるが、説明的な部分もあって、ギドク作品のなかでもわかりやすいし、テーマとしても母性愛など共感できるものでもあったため、ベネチア映画祭での金獅子賞の獲得ともなった。一方、『メビウス』は誰の共感も得られないし、賞レースとも無縁だろう。そのくらいぶっ飛んでいるし、ギドクは好き勝手にやっている(その分、公開を巡っては問題もあるようだが)。
 『嘆きのピエタ』でのしゃべらせすぎの反省かどうかはわからないが、『メビウス』では登場人物は一切口をきかない。うめき声やら悲鳴やらはあったとしても、誰一人として意味をなす言葉を発しない。一部、ウェブサイトの情報を提示する部分はあるが(英語だから詳細はわからないが)、そのほかはほとんど視線のやりとりや行動で物語が進んでいく。言うまでもなく不自然極まりないのだが、誰もが言葉を封じられ、行動だけで自らの意図や感情を示さなければならないという状況は、シュールなコメディのようだった。さりとて笑えるかと言えば、あまりに悪趣味な部分があって苦笑いといったところ。

◆物語は?
 冒頭の様子からすると、この映画で描かれる家庭は明らかに壊れている。朝から赤ワインを傾けている母親が最も狂気を帯びているが、どうやらその原因は父親にあるらしく、父親は母親を無視して愛人との情事に夢中らしい。息子は品行方正らしく見え、両親の激しいつかみ合いを見て唖然としている。
 事態は急に進行する。母親は父親(夫)の浮気現場を目撃し、その夜、父親のベッドへ向かう。父親のペニスを切り落とそうとするのだ。父親は咄嗟に跳ね除けるが、なぜか母親はその刃を息子に向けることになる。母親は寝ている息子のペニスを切り取って、しかもあろうことかそれを食べてしまう……。


 ※ 以下、ネタバレ全開です。鑑賞後にどうぞ。


『メビウス』 左上から右回りに、狂った母親、自殺志願の父親、去勢される息子、父親の愛人。


 ※ 結末にもかなり詳細に触れています。観ていない人はご注意を !



 ここまでが序盤だが、ほとんどあっという間に生じる出来事だ。あまりの性急さに唖然とさせられる。一応それは母親の狂気のなせるわざだが、狂気だとしても狂気は狂気なりに順を追って進行していくはずだと思うが、一気呵成にここまで描いてしまうのが、ギドクらしいと言えばギドクらしい。これらは与えられたシチュエーションであって、そうした状況から何が生まれてくるのか、そこにギドクの主眼があるものと推測する(設定にリアリティがないと非難しても仕方ない)。

 メビウスの帯(輪)の数学的な意味はわからないが、ごく一般的な理解では、表と裏がひと続きになっているような不思議な図形のことだろう。この『メビウス』もその題名の意味から推測すれば、よく理解できる。結論を言ってしまえば、男と女、正気と狂気、傷みと快感、そうした表と裏の関係にあると思われているものも、実は皆ひと続きになっているということだ。

◆男⇒女⇒男
 ペニス切断事件のあと、狂気の母親は街を彷徨し、たまたま街角で会った“祈る人”を追いかけて姿をくらます。その後、父親は甲斐甲斐しく息子の世話を焼く。事件のきっかけが彼の浮気ということもあるのだろう。だがその後悔が自分のペニスを息子に移植することにつながるとは……。父親は自殺も考えるが、それは果たせず奇妙な贖罪の行動へと進む(これはひとりよがりの考えであり、ペニスは病院で保管され、後に再登場する)。
 というわけで、しばらくの間、父親と息子は去勢された男同士というややこしい関係にある。この間のふたりは妙に穏やかで馴れ馴れしく、互いを気遣う様子を見せる。言わば女性的な関係なのだ。
 父親は去勢された息子を心配し、ペニス抜きのマスターベーションの方法を探る。それは皮膚を擦ることで快感を得るという方法だった。蚊に刺されて皮膚を掻けば最初は心地いいが、やり過ぎれば痛みを伴う。石などで皮膚を擦れば次第に皮膚は傷つくのだが、皮膚が爛れるまで擦り続けることで、痛みは快感へとつながるらしい。もちろん快感のあとには苦痛が待っている。つまりここでは痛みと快感が表裏一体になっている(痛み⇒快感⇒痛み)。
 さらに息子は別のマスターベーションを見いだす。というよりもこれは一種のセックスとして機能しているようだ。息子は父親の愛人と接近し、別の方法を試す。ペニスがなく、痛みが快感につながるなら、人工的なヴァギナを拵え、それで快楽を得ようとするのだ。具体的にはナイフで身体を刺し、それを傷口に入れたまま振動させる。ナイフはペニスであり、その傷口はヴァギナであるというわけだ。
 この一連のシークエンスで意図されているのは何か?
 父親が見つけ息子がさらに発展させた方法は、去勢された男が女性的な存在として生きることを目論むものだ。父も息子もペニスを切り取って女性的な存在になるが、再びそれを縫合することで息子は男に戻る(男⇒女⇒男)。男と女は対の存在と思われているが、実はあまり差はない。そんなふうにギドクは考えるわけだ。男と女に裏も表もない。裏は表になり、またいつの間にか表が裏になるのがメビウスの帯(輪)であり、男が女になり、女が男になることも当然あり得るのだ。

◆メビウスの帯の結節点?
 息子が男に戻ったころ、母親は家に戻ってくる。すると憑き物が落ちたような穏やかな表情をし、その目からも狂気の妖光は消えている。そして、母親は切り取ったはずの息子のペニスが復活し、父親のペニスがないことに驚く。ここでは以前の正気と狂気の立場が入れ替わっていることにも気づかされるだろう(狂気⇒正気⇒狂気)。
 この映画全体が「家族の物語」だとすれば、「狂気の家族」が裏返って「正気の家族」に向かうと推測できるが、ギドクはそうはしなかった。この映画は家族関係の崩壊あるいは修復などにテーマがあるわけではないからだろう。
 家庭を出て一度は正気に戻った母親だが、家庭に戻ると途端に息子の寝込みを襲うようになる(直接的な近親相姦ではないが性的接触はある)。母親が欲望を息子に向けるのは、単に父親にはペニスがないからだ。一方、父親は妻を奪われたのを羨み、息子に与えたペニスを奪い返そうとする。こうしたすったもんだの挙句、家族の結末は悲劇に終わる。しかし、この絵に描いたような悲劇は現実の出来事でない。恐らく息子が見た夢だ。

 ラストシーンは“祈る人”の再登場だ。最初の登場では後姿しか見せなかった“祈る人”だが、ラストでは振り返って観客に向かって笑いかける。“祈る人”は息子だったのだ。ギドク監督本人が演じているような風貌の“祈る人”だが、それは意図的なミスリードだったようだ(『春夏秋冬そして春』などの俳優ギドクの姿を見ていると、そうしたミスリードをされやすいだろう)。最初の“祈る人”の登場は、息子がペニスを切られたシーンのあと。息子は病院に担ぎ込まれ、時を同じくして街を彷徨している母親が“祈る人”に出会うのだ。
 普通に考えれば、“祈る人”は息子とは別人になるはずで、何かしらの矛盾が生じている。(*1)しかし、その矛盾はここでは問題にならない。裏と表という通常は対の位置にあるものがひと続きになるのが、メビウスの帯なのであり、“祈る人”はメビウスの帯の裏と表との結接点なのだろう。そして、“祈る人”によってつながっているのは「現実の世界」と「虚構の世界」だ。この映画では、現実の出来事も夢の出来事も同等のものとして結びついている。ここでは現実と夢はいつの間にかにつながっていて、どこまでが現実で、どこからが夢だと分けることはできないのだ(現実⇒虚構⇒現実⇒・・・)。

(*1) これは『悪い男』の砂浜に埋められた写真と同じような機能だ。海辺を訪れたハンギとソナは、ある女が海に入っていくのを目撃する。ソナは自殺した女が砂浜に埋めた写真を拾うと、そこには未来の(もしくは幻想の)ハンギとソナの姿が写っている。


◆最後に「乳首の話」
 さて、ここで先に記した「乳首の話」を思い出そう。『メビウス』で登場するふたりの女性(母親と愛人)の乳首(というか乳房)は、幾分作り物めいている。もしかしたら整形なのかもしれないが、そういうことを塩田氏は言わんとしたわけじゃない。ふたりの乳首(乳房)が同じものだということを示していたわけだ。つまり母親役と愛人役を演じているのは、イ・ウヌという一人の女優だということだ。
 一部の情報ではすでに発表されているが、私自身は映画が終わってもそれに気がつかなかった。塩田氏は「ぼんやりしていると気がつかないから」という老婆心から、そのことを前フリしていたのだが、それでも私にはわからなかった。そのくらい妻と愛人は別物に見える。チラシなどでわざわざ登場人物を4つに分割して見せているのも戦略なのだろう(上の写真のふたりの女は到底同じ人物とは思えない)。
 もちろんイ・ウヌがメイクや演技力でうまく化けたことが重要なのではない。母親役と愛人役を一人の役者が演じなければならない理由は、『メビウス』という題名からすれば、すでに明らかだろう。女というものは、妻という存在にも、愛人という存在にもなるということだ。
 ここでは妻という存在にイメージされるのが、たとえば“貞淑”だとすれば、愛人には“不貞”があてはまるが、それらは決して対のものではなくひと続きになっているのだ。たとえば母親が家庭の“守護神”だとすれば、愛人はその“破壊神”かもしれないし、この映画では母親は“狂気”を帯び、愛人は“正気”を保っているようにも見える。とにかく妻という存在と愛人という存在は裏表のようでいて、実は同じ地平にいて“貞淑”も“不貞”も同一人物に生じるその時々のあり方みたいなものなのだ。

 改めて結論を繰り返せば、男と女、正気と狂気、傷みと快感、現実と虚構、そして妻と愛人、そうした反対物も『メビウス』という映画においてはひと続きになっているのだ。
 これはギドクが『悲夢』で取り上げている“黒白同色”という思想に、ひねりを加えて発展させたものだと思う。「そうした思想はわかった。だからどうした? 異様な物語があるばかりじゃないか」というツッコミもあるかもしれない。しかし、迷いが感じられた『悲夢』よりも突き抜けたものがあるし、最後に“祈る人”が観客に向ける不敵な笑みは、ギドクの自信の表れとも思えた。

 続きというか、こちらでも一言

キム・ギドクの作品


Moebius [Italian Edition]



 ↑ 私自身は観ていないが、こんな海外バージョンも出ているようだ。台詞がないから字幕も必要ないわけで、これでも十分かもしれない。ただ海外のものなので、「再生できない可能性」がある旨の注意書きはある。DVDの情報ではイタリア語となっているが、意味不明。悲鳴やらうめき声をイタリア語で吹き替えするとも思えないが。

メビウス [Blu-ray]


メビウス [DVD]



 ↑ この2つは日本版。7月8日に発売。
Date: 2014.06.20 Category: キム・ギドク Comments (3) Trackbacks (7)

『嘆きのピエタ』のつづき その他の覚え書き

 前回の『嘆きのピエタ』のレビューのつづき。前回に書けなかったことと、前回の補足なども含めて。以下、趣味的な覚え書きです。
 ちなみに公開は本日(15日)から。
 『嘆きのピエタ』は、キム・ギドク監督の第18作目。残念ながら第17作目の『アーメン』は公開されていないが、この『嘆きのピエタ』はベネチアで金獅子賞を受賞した作品だけに日本でも公開となった。かなり小規模だが……。

 ※ 以下、前回同様かなりネタばれですのでご注意を!


◆ 「空間についての映画」としてのギドク映画
 舞台となるのは、ソウル市内の小さな工場が並ぶ町だ。その中心には清渓川が流れているが、開発が著しく次々と建てられる高層ビルにその川も消えようとしている。そんな町の姿が悲哀をもって綴られる。ガンドが主な仕事場としているのはこの町工場あたりで、債務者となっているのは工場の経営者たちだ。
 寂れた町工場が舞台となるからか、『嘆きのピエタ』では極端な色は排除され寒々しく乾いた画面だ。『悲夢』『ブレス』などはけばけばしい色彩感覚で画面がつくられていたが、この映画は『受取人不明』あたりのどこかノスタルジックな雰囲気の映像になっている。
 『嘆きのピエタ』でもミソンの息子が葬られるのは清渓川のほとりだ。ギドクの過去作品と同様に、川辺は“死”に近い場所としてある

『嘆きのピエタ』向こうには川が見える どこか乾いた映像

◆ 復讐というテーマ
 復讐は『リアル・フィクション』にも描かれたが、『嘆きのピエタ』のそれとはちょっと違う。『リアル・フィクション』の復讐は、『鰐』の顔の見えない暴力のように、その対象は明確でなく、逆に言えば手当たり次第だ。浮気をする恋人、理不尽な軍隊の後輩、裏切った友人など、理由はあるものの自分が虐げられているという意識が先にある。これは社会全体が自分の敵だという卑屈な考えによる。卑屈な意識が社会に怒りのはけ口を求めていたのだ。
 それに対し『嘆きのピエタ』における復讐する女は明確な相手がいるし、その恨みの原因もはっきりしている。(*1)一方の復讐される側はギドク映画によく登場する孤独な男だが、『リアル・フィクション』のような虐げられる立場ではなく虐げる側に収まっている。復讐される男ガンドの仕事は借金取りであり、これは単にやくざな仕事というよりも資本主義の暗い側面を象徴しているようだ。
 ギドクがいつから資本主義に対しての批判を抱くようになったのかは知らないが、『アリラン』のなかでも語られるように、弟子であった『映画は映画だ』の監督チャン・フンがギドクのもとを去ったことが、ギドクには裏切りに思えたようだ。そしてチャン・フンがその後に監督した『義兄弟』『高地戦』のような、ハリウッド的資本投下をする作品を苦々しく思ってもいる。お金ばかりにすべてが支配され、ほかのものがおろそかにされることが耐えられないのだろう。そんな心情が資本主義批判となっている。
 そんな経験からか、ギドクの映画の製作方法も変わってきている。以前は日本の会社も資金を出していたが、今回の映画は自己資金のみで製作されているようだ(資金援助を嫌うのは、自由度がなくなるから)。脚本を担当した『プンサンケ』では、キャスト・スタッフがノーギャラだったという美談が語られていた。しかしこれには後段があって、出演料などはないのだが利益に関しては分配される方式になっていたようだ。『プンサンケ』の興行収入がそれほど多かったとは思えないが、少なからぬ金額はそれぞれのキャスト・スタッフに分配されたようだ。
 今回の『嘆きのピエタ』もその方式だから、映画がまるっきりこけたりすれば、キャスト・スタッフはまったくのボランティアになることもあり得る。しかしこの映画はそうしたリスクを避けるために、撮影は10日間しかかかっていないとのこと。驚異的な早撮りだ。

(*1) 復讐というテーマからパク・チャヌク映画を想起させる。女の復讐という点では『親切なクムジャさん』、時間をかけた復讐という点では『オールド・ボーイ』。けれどもそこから先はギドク独自の展開だ。

『嘆きのピエタ』 「お前を捨ててごめんなさい」と女が現れる

◆ ギドク映画における“死”の捉え方
 『アリラン』のパンフレットで語られていることだが、ギドクは『悲夢』を撮影していたころ、“死”は「別の世界に続く神秘のドア」だと考えていた。それはその後否定されるのだが、『嘆きのピエタ』ではどうだろうか。
 この作品では何人もの債務者が自殺する。冒頭に登場するミソンの息子もそうだが、借金で逃げ場を失い、ガンドにも追い詰められ死を求める。ガンドが借金取り最後の仕事として向かった債務者も、妙に悟りきってビルから身を投げる。「死ぬことですべてが終わる」と考えたかはわからないが、死ぬこと自体が逃げ場所であり「救い」になっているようにも感じられる。
 しかし重点はそちらにはない。これは死に「救い」があるということではなく、人の営為にすぎない資本主義というシステムによって人が殺されていくことを示している。借金取りガンドは資本主義の走狗となって債務者たちを追い詰めるのだ。(*2)

 そんなガンドの非道さにも言い分はある。いかに法外な利子とは言え、借りたものは返すのが道義ということだ。ガンドは返さない債務者に責任があるとして容赦しないのだが、反面、債務者を殺すことはしない。「死亡保険金だと後が面倒だ」と言い訳をしているのだが、借金取りの親分は「死亡保険金でも構わない」と語っている。つまりは障害保険金を狙うのはガンドのやり方なのだ。「死んで逃げるのは卑怯」というのがガンドの倫理なのだろう。ガンドは別の場所では、自殺してすでに痛みを感じない債務者の頬に張り手を食らわす。「死んだら終わりか?」、その言葉には絶対に手の届かない場所に逃げ込んだ債務者に対する怒りがこもっている。
 “死”を逃げ場所にしていることが許せないのだ。これは“死”=「別の世界に続く神秘のドア」という考えを退けたギドクの思想的展開の反映だろう。そのせいだろうか、『嘆きのピエタ』ではかつてのギドク映画では「救い」となった夢や幻想が登場することもない。そういった逃げ場が失われた極めて現実的な映画なのだ(映画の設定自体はかなり妄想的だが)。

 ではガンドとミソンの自殺はどうなのか? それまでの行動と矛盾するようにガンドが自殺に走るのはどういうことか?
 ミソンに関して言えば、息子の死に報いるための自殺だった。(*3)ターゲットであるガンドはそれによって絶望して死んだとも言えるから、ミソンの自殺は無駄になってはいないし、息子を喪った辛い現実から目を逸らすための自殺でもない。ガンドに関しても同様に、絶望からこの世を去りたいという逃げの姿勢ではなく、トラックに引き回されるという長く続く痛みを選んだ点で贖罪の想いが感じられる。
 『キネマ旬報』(6月上旬号)にはギドクのインタビューが出ていた。ギドクは「神の視点」ということを強調している。宗教色の強い『春夏秋冬そして春』では、最後に山の上に置かれた仏像からの視点で終わる。『悪い男』でも、最後にゴスペルがかかり宗教的なものを感じさせるが、そのラストも海沿いの道を行くトラックの俯瞰だ。『嘆きのピエタ』のラストは、『悪い男』のラストによく似ている。『悪い男』では最後にトラックのテールランプの赤い色が残るが、『嘆きのピエタ』では朝靄のなかに引きずられたガンドの赤くはない血の跡が残されていくのだ。ギドクはこう語る。

 「私の作品の終わり方はいつも、人間でない何かが人間を見て、人間を理解しようと努力しているというふうなんですね。」


 「神の視点」から見れば(あるいはメタの視点に立てば)、ガンドとミソンというふたりの物語も、かなり歪んだ形ではあるけれども、映画の題名が示すようなキリストと聖母マリアの物語のような福音と思えなくもない。

(*2) 子どものために親である債務者が障害を求めるというエピソードもある。ガンドはそんな自己犠牲を羨ましく思い、仕事を放棄して借金を許すのだが、金の欲しい債務者は安易に自らの手を傷つけてしまう。親子の愛情にガンドが気づいていく場面でもあるが、生命そのものやその機能にまで値段を付けてしまう資本主義に毒された人間の愚かさも感じられる。

(*3) 実際には、目的を遂げようとしつつも、思わぬ感情に囚われ逡巡するところが『嘆きのピエタ』で最も感動的な場面だ。息子への愛情は揺るぎないが、一方で天涯孤独なガンドにも哀れみを覚え、自殺を躊躇するようでもあった。ここの演出は、ミソンがその揺れる想いをしゃべりすぎたきらいはあるのだが、説明的な分、わかりやすい物語になっている。


◆母親の存在と子宮回帰願望
 ギドク作品で母親が重要な役割を果たしたのは『受取人不明』くらいだ(戻ってこない手紙を待ち続ける、混血児チャンググの母親)。父親の存在も『サマリア』があったくらいで、ギドクの映画では家族は未だ本格的なテーマとして取り上げられてはいないとも言える。今回の母親の存在も、結局のところ偽者だったわけだ。
 ミソンが母親であるという証拠を示すためにガンドが求めるのはカニバリズムだ。はっきりとは描かれないがバスルームから肉片を持って戻ってきたガンドの足は血だらけになっているから、自分の肉を切り取ったということを示しているのだろう。『受取人不明』でも、自殺してしまった息子の遺骸を取り戻した母親は、息子の肉を食べたと思われる描写がなされている。放心状態のままシーツに包まれた首を大事そうに抱え、口の中では何かをしきりに噛んでいるのだ。
 こうした描写は、子どもが母親の身体から生まれたということを感じさせるし、それをもう一度母親の身体に取り戻すことに、ギドクが何かしらの意味を込めているということだろう。母親の側からすれば、一度は我が身を離れたものを取り戻すことになるのかもしれないし、子ども側からすれば自分の肉体が母親のなかに戻るという意味では、子宮回帰願望の変種みたいなものかもしれない。
 『嘆きのピエタ』ではガンドは母親を名乗るミソンをレイプするが、これも子宮回帰願望であるのは言うまでもない。この時点ではまだ偽者の母親とは判明していないために、このシーンは近親相姦とも言えるわけで、これでもかというくらいタブーばかり連発している。金獅子賞でもひっそりと公開されるのもむべなるかな。

 先日、次回作『メビウス』についての発表がなされたようだ。出演には『鰐』『悪い男』でギドク的キャラクターを演じてきたチョ・ジェヒョンの名前が登場している。久しぶりだ。この作品も近親相姦を題材にしているのだとか。韓国では公開も危ぶまれているというニュースが伝わってきているが果たしてどうなるか?

ギドクの次回作『メビウス』 右上がチョ・ジェヒョン

※ ギドク作品と「救い」に関してはこちらで記しました。

嘆きのピエタ [DVD]


キム・ギドクの作品
Date: 2013.06.15 Category: キム・ギドク Comments (0) Trackbacks (0)

キム・ギドク 『嘆きのピエタ』 救い主は救われたのか?

 試写会にて鑑賞。公開は6月15日から。

 前作『アリラン』が3年ぶりのリハビリだとすれば、この『嘆きのピエタ』はギドク節の完全復活と言えるかもしれない。韓国内での批判などを受けてか、一時、自らの突飛な想像力を制限していたようにも思えたキム・ギドクだが、『嘆きのピエタ』ではリミッターを外したように自由な物語を創りあげた。
 だから道徳的な物語をお望みの人はよしたほうがいい。見たくないもののオンパレードだからだ。マスターベーションに暴力にレイプ、さらにはカニバリズムめいたシーンも登場する。だがギドク作品のそうした背徳的な物語は、それらを突き抜けた世界を描くために必要な設定にすぎない。その先には意外に純なものが存在するのだ。

『嘆きのピエタ』 キム・ギドク監督の最新作


 主人公ガンドは借金の取立屋。返済能力がない債務者には容赦ない暴力をふるう。障害者にすることで保険会社から金を引き出すのが狙いなのだ。ガンドは冷酷に債務者の手や足をつぶす残虐性の持ち主で、債務者からは“悪魔”呼ばわりされている。そんなガンドの前に母親を名乗る女ミソンが姿を現す。いったいなぜ今ごろ姿を現したのか? 何が目的なのか?


 ※ 以下、完全にネタばれ! 映画鑑賞後にどうぞ。



 ※ もう一度、改めて警告! 映画の内容に触れています。観てない人は危険かも。


 突然現れた母親が「あなたを捨ててごめんなさい」と赦しを乞うのだが、いかにもあやしい。実はミソンは本当の母親ではない。ガンドが自殺に追い込んだ一人の青年の母親であり、その目的は復讐なのだ。
 なぜ復讐をテーマにした作品が、「ピエタ=哀れみ」を描くものになるのか? ミソンは天涯孤独なガンドの母親になりきろうとする。愛する者を喪った悲しみを味わわせるためには、ガンドにも愛する者がいなければならないから。ミソンが本当に母親として認められたとき、真の復讐ができるのだ。復讐とは、その愛する母親=ミソンを奪うということ、つまりは自分を殺すということだ。ミソンは赦しを求めてガンドの前に現れたのに、強い意志を感じさせる表情だ。それは息子を捨てた母親の後悔の念ではなく、息子のために命を捨てる覚悟が表れているからだ。

 ミソンが押しかけ女房的に母親になる展開はシュールだ。『悪い女~青い門』のいがみ合うふたりが親友になっていくという調子っぱずれな展開を思わせる。こんな荒唐無稽さもギドクらしい。擬似親子のふたりが仲良く手をつないで街を歩くようになるころ、事件が起きる。ガンドに足を折られた債務者がミソンを人質にとるのだ。「おまえなんか焼き殺してやる」と罵っていたように、ガンドを殺しに来たのだ。ガンドは「母親は悪くない」と必死に守ろうとする。ふたりには信頼関係ができ、復讐のための環境が整う。
 ガンドは登場シーンで、半ば寝ながらもマスターベーションに耽っている。これは幼いころからの一人寝で身についてしまった癖みたいなものだ。ミソンはそんな姿のガンドを見て、それを手伝ってやる。母親がマスターベーションを手伝うというおぞましいシーンではあるが、ガンドの孤独さをミソンが感じ取ってしまった重要なシーンでもある。
 そして復讐は完遂されることになるわけだが、その際、ミソンは本当の息子に対して謝る。「どうしてこんな気持ちになるんだろう?」と戸惑いながらも、ガンドに対しての哀れみの心情を吐露してしまうのだ。ガンドがしてきたことに対しての恨みは尽きないのだろうが、その孤独さを知り同じ時間を多少なりとも過ごした人間としては、それを単に“悪魔”と呼んで退けることもできないのだ。ミソンはガンドの本当の母親ではないが、母性のような何かがガンドに対する哀れみを抱かせるのだ。

ミケランジェロのピエタ像

 この映画の原題は『pieta』だが、“ピエタ”とはミケランジェロの彫刻にあるように、十字架から降ろされたキリストを抱く聖母マリアが題材だ。つまり『嘆きのピエタ』においては、ガンドはキリストであり、ミソンは聖母マリアなのだ。
 キリストは人類の罪を背負って十字架刑に赴いたが、ガンドはキリスト(救い主)とは言えない存在だ。債務者からは“悪魔”と罵られる人間なのだ。けれども自分の罪を贖うために行動した。ガンドは「車で引きずり回して殺してやりたい」という債務者の言葉に自ら従う。贖罪のために自死するのだ。復讐を誓ってガンドに近づいたミソンも、聖母マリアにはほど遠い。けれども“悪魔”にさえ哀れみを覚えてしまうほど慈悲深い存在ではある。
 キム・ギドク映画にあって常に意識されているのは「救い」ということだ。この映画でガンドは救われたのか? あるいはミソンは救われたのか? とてもそうは思えない。
 だが考えてみれば、“ピエタ”の題材とされたイエス自身も救われているとは思えない。人類の罪を独りで背負って死んでしまうのだから。聖母マリアの悲しみも推して知るべしだ。それでもイエスの物語は、聖書という形で福音(good news)として世界中に広まったわけだ。その福音に「救い」を見出す人も多いだろう。だとすれば、到底「救い」のないガンドやミソンの姿も、それを観るわれわれにとってはひとつの福音として現れるのかもしれないのだ。“悪魔”と思える存在にも哀れみを抱くことがあり得るし、“悪魔”でさえも母性愛によって悔い改めることもあるという、そんな福音だ。
 ラストシーンはそれまでのどぎつい展開を忘れさせるような、水墨画のような淡い色合いで、いつまでも余韻が残る。 (その他に関しては次回に。)

※ ギドク作品と「救い」に関してはこちらで記しました。

嘆きのピエタ [DVD]


キム・ギドクの作品
Date: 2013.06.08 Category: キム・ギドク Comments (0) Trackbacks (3)

『プンサンケ』のつづき キム・ギドク脚本作品

 ギドクの脚本と監督チョン・ジェホンの仕事や、その他の諸々の気づいた点について。

 9月9日、ギドクの金獅子賞受賞が発表された。
 第69回ベネチア国際映画祭で、ギドク監督の『ピエタ / Pieta(原題)』が金獅子賞を獲得したようだ。『アリラン』で復活を果たしたギドクだが、これでまた映画界の最前線に戻ってきたと言えるのかもしれない。とにかく何ともめでたい限り。とりあえずは手放しで喜びたい。

ギドク 金獅子賞受賞!!

◆ジェホン監督処女作『ビューティフル』について
 美しすぎる罪というのがあるのかどうかわからないが、絶世の美女ヘレネーはトロイア戦争の原因とはなっても、その罪によって自分が虐げられたわけではなかった。だが『ビューティフル』の主人公ウニョンは、その美貌が仇となってストーカーの被害に遭い、暴行を受ける。ウニョンは美しすぎたことでかえって幸せになれず、次第に精神を病み過食と拒食を繰り返すようになる。
 『ビューティフル』はギドクが原案を担当し、ジェホン監督の長編デビュー作となった作品。この映画でどこまでがギドクの案で、どこからがジェホン監督の独自色かは不明だが、過去のギドク作品から勝手に推測することはできる。
 この映画では、ウニョンを常に見守っている警察官がもう一人の主役だが、この警察官は驚くべき行動に出る。レイプされて精神を病んだウニョンに対して、また同じことを繰り返そうとするのだ。これを無理やりに解釈すれば、ウニョンの悪夢を消すためということになる。ウニョンはストーカーの幻影に悩まされ、その幻影を消さなければ生きていけなかったからだ。もう一人の主人公である警察官があえてストーカーの真似をして彼女に殺されることで、ウニョンはストーカーに復讐を果たしたという達成感を勝ち取れる。警察官は自ら犠牲になることで、ウニョンの再生を図るのだ。ギドクが書いた原案はおそらくここまで(と私には思われる)。
 だがジェホン監督の『ビューティフル』はまだ終わらない。さらに狂気を帯びた主人公は、街中で通り魔的に銃を乱射して射殺されてしまうのだ。さらにエピローグでも、変態の検死官が登場して……。悲劇なのか、ブラックジョークなのか、どちらにしても後味が悪く、主人公ウニョンにしてみればまったく何の「救い」もなく、哀れとしか言いようがない映画だった。(*1)
 ラストの改変はともかくとしても、『ビューティフル』は脚本の骨組みばかりが目立つように感じられ、ギドクの荒唐無稽さが際立ってしまった印象だ。

◆脚本と監督の関係
 脚本と監督の仕事の関係について、黒沢清はこんなふうに語っている。

 「映画監督とは、脚本と映像、ドラマとリアル、非現実と現実とを強引にくっつけて何とか辻褄を合わせていく仕事のこと」 (黒沢清 『黒沢清、21世紀の映画を語る』より)  (*2)


 映画において、「ドラマ」部分を主に担うのが“脚本”で、「リアル」を請け負うのが“映像”になる。ここで扱われている映画は、アニメーションやCGなどではない実写映画のことで、カメラによって捉えられた現実を素材としてつくられる映画に限定されている。映画は非現実なのだが、撮影現場は現実である。カメラという機材は、ありのままの現実をそのまま切り取ってしまう。別の箇所で黒沢清は次のように語る。「映画を監督することは非現実を現実化する作業、または現実の断片を寄せ集めて非現実を作り出すことである」。ここには「リアル=現実」と「ドラマ=非現実」のせめぎあいがある。映画監督の実体験として、脚本をもとに撮影しても、そこに映るのは白々しい嘘があるだけということも多いのだそうだ。「ドラマ」を描くために、映像という「リアル」なものがあるはずなのだが、カメラを通して映される「リアル」はなかなか「ドラマ」と結びついていかない。黒沢清が映画監督を目指す学生から受ける質問でもっとも多いのが、「映画はどうやったらリアルに撮れるのか」ということだそうだ。黒沢清は監督も脚本も手がける実作者の問題意識として、映画は「ドラマ=脚本」と「リアル=映像」に引き裂かれていると語っているのだ。

 上記のような黒沢清の問題意識とはずれるが、『プンサンケ』でも脚本を映像化していく部分で、監督という仕事の難しさが窺える気がした。
http://eiganotubo.blog31.fc2.com/blog-entry-356.html
 上のインタビューを読むとギドクは撮影には立ち会わず、細かい部分までの口出しはしていないようだ。主人公プンサンケも脚本段階では台詞があったものの、ジェホン監督の決断で削ったのだとか。
 ジェホン監督の演出は、アクションなどは悪くはない。プンサンケが非武装地帯を駆け抜けるシーンなどは躍動感がある。だがプンサンケとイノクが惹かれあっていく場面だとか(*3)、北朝鮮高官とイノクが車のなかでけんかして云々といった場面では凡庸さが目立つ。テンポが悪いのか、エモーショナルな部分が描けていないのか……。ギドクの脚本にどこまでの部分が描かれているかはわからないが、後半の両国間の戯画化などは言葉で記しやすいが、男女間の感情の交歓あるいはいざこざは、言葉だけでは示しにくいだろう。台詞はあっても、それを読み上げるだけでは伝わらないものだから。そうした部分を映像化するときに監督の力量があらわになるのかもしれない。
『プンサンケ』 寄り添うプンサンケとイノク
◆その他の気づいた点
 ギドクの“死”に対する捉え方に関して、以前このブログでも記した。『プンサンケ』でも、そうしたエピソードがある。
 『ブレス』では、「一度死んだことがある」と語る女性が主人公だった。『プンサンケ』でも、イノクは脱北の際に川のなかで臨死体験をする。最初は「死んだら楽になれるから助けてくれなくても良かった」などと言うが、結局はそれを否定する。これはギドクが辿った軌跡と同じだ。ギドクも、“死”は「別の世界に続く神秘のドア」ではなく、「未来を断つことであり、ドアを閉めること」だと考え直したのだ。
 イノクは臨死体験のなかでこう悟る。「向こう側は何もなかった。虚空だった」。だから戻って来ることができて良かったとイノクは語るのだ(それなのに最後は追い詰められて川に身を投げてしまうのだが)。『プンサンケ』の冒頭のエピソードはこう描かれている。北朝鮮に残された家族にビデオレターが届けられる。それは脱北して韓国にいる夫からのメッセージだった。それは、ただ「生きていてくれ」という願いなのだ。もちろんこんなテーマ自体はありふれているが、ギドク作品ではどこかから借りてきたものでなく、ギドクが作品をつくるうちに辿り着いてしまうところがスリリングだし、ギドクの真摯な生きる姿勢が垣間見えるところがいいのだと思う。


(*1) 『プンサンケ』でも、イノクは酷い目に遭う。ダイヤを飲み込まされていたイノクは、それを取り出すために死体にまで手をかけられるのだ。これは資本主義批判のエピソードとしてあるのだが、映像は綺麗に撮られていてもイノクの虐げられ方を考えると、『ビューティフル』のおぞましいラストを思い出して監督の趣味を疑ってしまう(ギドクの脚本通りなのかもしれないが)。

(*2) ちなみにこの本では、黒沢清が考える21世紀の映画として、「河」を描いた映画についても触れられている。『グエムル―漢江の怪物―』『ある子供』などが挙げられている。

「河は、何かが流れてくる、向こう側に渡る、水面を漂う、潜る、など、何かこちらとあちらの関係、不意にあらわになる外側、どこか向こう側に向かって動き出す、といったことと結びつきやすい場所なのかもしれません。三途の川を例に挙げるまでもなく、河岸と彼岸を表現するのに、監督や脚本家が、自然と選び取る場所なのでしょう。」(黒沢清 『黒沢清、21世紀の映画を語る』より) 

 ギドク作品における川の役割について、こちらのHPでも記しています。

(*3) 『プンサンケ』では、小さな仏像がふたりを結びつける役割を果たしているようだ。だが映画のなかでそれがうまく機能しているとは思えない。ギドク映画のなかで仏様がどんな意味を持つのかはっきりとはしないが、「心の安らぎ」みたいなものが込められているような……。


ギドクについての覚え書き ←こちらのHPはギドクの過去作品について。
キム・ギドクの作品


プンサンケ [DVD]


Date: 2012.09.09 Category: キム・ギドク Comments (0) Trackbacks (0)

『プンサンケ』 キム・ギドク脚本作品

 キム・ギドクが製作総指揮と脚本を担当した映画。
 監督を務めたのは、ギドクの弟子で『ビューティフル』で監督デビューしたチョン・ジェホン

ギドク脚本 『プンサンケ』

 ギドク作品では『ワイルド・アニマル』『コースト・ガード』でも取り上げられた分断国家というテーマだが、この映画ではより直接的に38度線が描かれる。非武装地帯の鉄条網を軽々飛び越え、地雷をものともせず、わずか3時間で北と南を行き来する主人公を擁する映画はエンターテインメントに仕上がっている。
 題名にもなっている“プンサンケ(=豊山犬)”とは、北朝鮮原産の狩猟用犬種のことだが、これは主人公の呼び名だ。この口をきかず素性の知れない主人公は、いつも“プンサンケ”という銘柄のタバコを吸っていることからそう呼ばれるのだ。プンサンケは北と南を行き来して運び屋をする。依頼を受ければ、離ればなれの家族のために大切なビデオレターを届け、あるいは体を張って脱北を助けたりもする。
 物語は脱北して韓国で匿われている元北朝鮮高官のわがままから動き出す。この高官は北の秘密を握っており、北朝鮮からは当然命を狙われる。一方、韓国側には匿われつつもその秘密を文書化することを迫られる。高官は文書を作成し終われば自分が存在意義を失い、自らの命を危うくすることを知っているから、現状のまま(秘密を保持したまま)で自分の価値を吊り上げ韓国からさまざまな見返りを引き出したい。そんな見返りのひとつとして挙げられるのが、北側に残してきた愛人イノクで、それを連れて来ることがプンサンケの仕事になる。
 危険を伴う北からの脱出の際、なぜかプンサンケと高官の女は気持ちを通じ合うようになるのだが……。

 プンサンケは韓国からは利用され、北側からは脱北の手伝いをする邪魔者として命を狙われる。韓国側の組織と北朝鮮の工作員が入り乱れて結局は高官も殺され、脱北者であるイノクは逃走中に川に落ちて死んでしまう(自死とも言える)。プンサンケは両陣営に復讐を決意する。
 プンサンケは拉致してきた敵たちを密室に放り込んでいく。まずは北朝鮮の人間と韓国の人間がひとりずつ。この密室のなかで1対1の戦いが始まる。しかしすぐに次の人間が加えられる。今度は2対1だ。当然、数で多いほうが有利になる。だがすぐにまた拉致された人間が登場する。今度は2対2になって戦況はイーブンになる。
 馬鹿げたけんかは終わらない。結局、プンサンケによってすべての人間が拉致されて密室に入れられ4対4の膠着状態になる。するとプンサンケは銃を一丁密室に投げ込む。となれば銃を手にした側が主導権を握る。だが次にはもう一丁の銃が登場してにらみ合いになり……。
 もちろんこれは現実の二国間の争いの戯画化だ。この争いは中国の人間が介入して一旦は収まるかに見えたが、最後までどちら側も譲ることをせずに解決を見ることはないままだ。

『プンサンケ』 両国の膠着状態

 『プンサンケ』では、先進国である韓国側が無条件によいとされているわけではない。イノクは北から南に来て、高官の人柄が変わってしまったと感じ、北に戻りたいと言い出すし、高官でさえ命を賭して逃げ出してきたはずなのに、平壌が恋しいのか平壌冷麺を食べたがる。北の政治状況はおかしいのだが、韓国に来てみれば韓国には別の問題がある(北側からすれば資本主義)と描かれるのだ。どちらが正しいというわけではなく、どちらもおかしいのだ。 

「おまえは北と南、どっちの犬だ?」

 プンサンケは韓国側からも北朝鮮側からもそう問われる。しかし一切それに答えることはない。どちら側でもないからだ。そもそも「どちらかに付く」などという考えが愚かなのであって、韓国も北朝鮮もどちらも愚かだと映画は語っている。
 
 分断された家族のために境界線上を行き来していたプンサンケは、両国の間にある非武装地帯上で銃弾に倒れていく。これもプンサンケが北でも南でもないということを悲劇的に示している。超人的な活躍を見せていたプンサンケだが、北でも南でもない場所に立つということは、結局、死を導くことになったのだ。プンサンケの復讐を経ても、韓国と北朝鮮は未だ愚かさに気づかない。その意味では、映画は両国の状況を追認しただけとも言える。祖国の統一の夢ははるかに遠い。それまでは「どちらにもくみしない」ことは、かえって危険を伴う。しかし、ラストにこそ、この映画に込められたメッセージがある。銃弾を受けて横たわるプンサンケの目に空が映る。境界線などないその空を、鳥たちが自由に羽ばたいてゆく。ジョン・レノンの「イマジン」ではないが、そのメッセージは誰にでも明らかだろう。
 この映画『プンサンケ』は、スタッフ・俳優のすべてがノーギャラで臨んでいるのだそうだ。そのメッセージが、映画を製作した韓国にとっていかに重要かということがわかるだろう。資本主義などに毒されることもなく、多くの韓国映画人を動かして1本の映画をつくってしまうのだから。

つづく : キドクの脚本などに関しては次回……。

プンサンケ [DVD]


Date: 2012.09.04 Category: キム・ギドク Comments (0) Trackbacks (0)
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