『僕たちは希望という名の列車に乗った』 希望は絶望の礎?
実話を元にした作品とのことで、本国ドイツでは小説が出ているらしい。

舞台は1956年の東ドイツ。この時代はすでに冷戦期だがベルリンの壁は建設前で、東ドイツの人々も列車で西ドイツに行くことが可能だった。クルト(トム・グラメンツ)と親友のテオ(レオナルド・シャイヒャー)は、連れ立って家族の墓参りに西側に行き、東側では観られない娯楽映画を楽しんでみたりもする。
その映画館でふたりが観たハンガリー動乱のニュースが事件のきっかけとなる。翌日の授業前、クルトは2分間の黙祷をハンガリー市民に捧げようと提案するのだが、その小さな出来事が学生たちの人生を変えるほどの事件になってしまう。
黙祷自体は犠牲となったハンガリー市民への真摯な感情から出てきたものだが、クラスの雰囲気としては政治的なものは感じられない。先生を前にしてみんなでだんまりを決め込むというイタズラに、笑いすら生じるくらいの気持ちだったのだ。しかし、その行為は社会主義の世界では許されることではなかったらしい。
校長も特段問題にするつもりはなかったものの、いつの間にかその騒ぎは指導的立場にあるソ連当局も知ることとなり、学校には調査が入ることになる。そうなると「首謀者は誰だ?」ということになり、学生たちは我が身を守るために仲間を裏切るべきか、仲間を守って身を滅ぼすかという難しい選択肢を突きつけられることになる。
※ 以下、ネタバレあり! ラストにも触れているので要注意!

◆希望を求めて西側へ?
『僕たちは希望という名の列車に乗った』という邦題はネタバレになっている上に、変な解釈を押し付ける形にもなってしまっていていただけない。というのも、学生たちは西ドイツに希望を見出していたわけではないからだ。
時代は第二次大戦の約10年後で、東ドイツが社会主義体制になってからまだそれほどの時間が経っているわけではない。冷戦は1989年まで、つまりは30年以上も続くわけで、どちらの体制に軍配が上がるかは予測できなかったはず。だから学生たちも西側の資本主義という体制に特別な希望を抱いていたというふうには描かれていない。せいぜいトップレス女性が登場する映画が観られてうらやましいという程度だったと思われる。
舞台となる学校の学生たちはエリートであり、そのまま社会主義者としてエリートの階段を昇っていけば安定した生活が約束されている。たとえばテオの場合、父親はしがない労働者なのにも関わらず、テオにはエリートへの道が開けているわけで、東ドイツの若者たちは社会主義というものに希望を抱いてもいるのだ。
ハンガリー動乱に対する反応も同様で、黙祷の首謀者であるクルトが怒っていたのは、社会主義国家であるハンガリーの市民に対し、社会主義の指導部であるはずのソ連が銃を向けたということにあるのだ。真の社会主義を実現するためにはそんなことがあってはならないという怒りであって、資本主義を求めての抗議というわけではないのだ。今では社会主義国家は軒並み倒れているために、結果は最初から明らかだったかのようにすら思ってしまう部分もあるわけだが、かつてはそうではなかったというのは改めて新鮮なものにも感じられた。
監督のラース・クラウメもこんなことをインタビューで語っている(こちらのサイトを参照)。
彼らは自分たちが望んでいたわけではない主義を急に押し付けられたにもかかわらず、“集合体”としての個に重きをおくやり方に対し前向きにトライしてみようといった姿勢だった。それはやらされていた、洗脳されていたというわけではなく“やってみよう”という感じに近かったらしく、その風潮に関しては知らなかった部分だったので非常に興味深いと感じたよ。
◆東ドイツの青春
最初に悪口を書いたわけだが、悪いのは邦題であって、この作品は時代に翻弄された若者たち青春ものとして、それぞれのキャラクターにも彩があってよかったと思う。
クルトは理想主義的でちょっと青臭い。テオはクルトよりも現実的で、クラスのリーダー的存在。黙祷に反対することとなるエリック(ヨナス・ダスラー)は、父親がナチスと戦って死んだと信じていたからこそ、社会主義に抗議するようなことはしたくないとしてクルトたちと対立することになる。
さらに彼らの親たちの世代も重要な要素となっている。彼(女)らはヒトラーと戦ったということを誇りにしている世代だ。そして、そのヒトラーの後釜に座ったのがソ連ということになる。社会主義という体制は冷戦構造のなかで押し付けられたものであったにしろ、ヒトラーと戦って得たものがヒトラーのファシズムと変わらないような代物だったとも言えるわけで、やはり親たちの世代も不運な時代を生きたのだろう。
だからこそ親たちが(その方法は様々とはいえ)子供が安寧に生きていくことを願っているというのも頷けた。テオの父親が「英雄になるな」と助言するのも、クルトの母親が二度と会えなくなる可能性を承知で西側に渡ることを望むのも、子供を想ってのことであって涙を禁じえないものがあった。
ただ妙に真面目ぶったところもあって、テオの彼女であったレナ(レナ・クレンナ)がクルトに向かうのは、テオが日和ったからだというのも高校生にしては大人びているように思えた。あまりに政治が日常に顔を出しすぎていて、恋愛云々にうつつを抜かしている余裕がなかったということであれば、これもまた悲劇なのかもしれないのだが……。
◆自由と平等
結局、クルトやテオをはじめほとんどのクラスメイトが西側に渡ることを選んだわけだが、それはなぜかと言えば社会主義には自由がなかったからだろう。国家の転覆を企んだわけでもなければ、テロ行為を行ったわけでもなく、ただ黙祷をしただけで(つまりは考えを示しただけで)すべてを失うような国家では不自由極まりないのは誰もがわかることだ。
もともと社会主義は富の不平等を解決するためにあったとされる。社会学者・大澤真幸の本(『自由という牢獄』)にそのあたりが整理されていたので引用する。
図式的に単純化してしまえば、自由と平等の二つの主要な価値のうちどちらを優先させるかで、二つの主要な政治イデオロギーが生まれる。自由を優先させれば、リベラリズムが得られる。平等を優先させ、平等のための自由の制限を許容すれば、社会主義が得られる。
そして20世紀の歴史が示すように、冷戦は終わりを迎え社会主義は明らかに敗北したわけで、大澤は次のように続ける。「かくして、二〇世紀の政治の思想的教訓は、「自由」の優越である。自由を制限する根拠は、(他の)自由以外にはありえず、自由以外の価値によって、自由を制限すべきではない、と」。
自由と平等と言えば、どちらも普遍的な価値と思われているわけだが、自由のほうが大事ということなのだ。当たり前すぎることではあるけれど、歴史が示す壮大な実験によってそれが確認されたということでもあるのだろう。尤もそれまでに多くの犠牲を払ったことを思うと暗澹とした気持ちにもなる。当時は社会主義という希望があればこそということだったわけだが……。ちなみにパンドラの箱に希望だけが残るのには様々な解釈があって、希望が残っていたからこそさらに打ち砕かれて絶望を深くするとか書いていた人は誰だったろうか?
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