『花筐 HANAGATAMI』 女は悲しく、男はかわいそう

 大林宣彦監督の最新作。
 古里映画『この空の花 長岡花火物語』『野のなななのか』に続く作品。
 原作は檀一雄の処女短編集。

大林宣彦 『花筐 HANAGATAMI』 美那(矢作穂香)は不治の病に侵されている。

 前2作と同じように古里映画という形式を採っているのだけれど、原作では舞台は「架空の町であってもよい」と記されているだけで具体的には特定されていない。大林監督がこの作品の脚本を書いたのは、商業デビュー作『HOUSE ハウス』を撮る前のことで、原作者の壇一雄から助言もあって唐津が舞台となったようだ。
 ただ唐津らしい風景を切り取るつもりはなかったようで、自由な想像力で様々に唐津の風景がコラージュされた大林ワンダーランドが展開されていくことになる。それでも「唐津くんち」の場面は実際の祭りの風景が捉えられていて賑やかな雰囲気が伝わってくる。

 古里映画『この空の花 長岡花火物語』『野のなななのか』では2作とも戦争が題材となっていて、長岡と芦別のそれぞれの戦争の記憶が描かれていた。この『花筐 HANAGATAMI』がちょっと毛色が異なるのは戦争前の話となっているところだろうか。戦争後の話も老いた主人公によってわずかに語られはするけれど、そのほとんどが戦争前の若者たちの青春の描写に費やされる。つまりは決定的な出来事は未だ起きておらず、戦争の予感のなかで展開していく話なのだ。
 ちなみに原作では戦争の影はほとんど感じられない。映画で常盤貴子が演じる主人公のおば圭子は未亡人となっているが、原作では夫が死んだ理由は書かれていない。もっとも原作が書かれた時代(日中戦争の前)ならば、戦争は今そこにある危機だったのかもしれない。しかし、現在の読者が読む限りそこに戦争の予感はあまり感じないんじゃないだろうか。
 映画では時代が第二次大戦前の1941年に変えられている。印象的なのが「青春が戦争の消耗品だなんてまっぴらだ」という主人公の台詞で、これは原作にはないもので大林監督は戦争の予感のなかの青春を際立たせている。
 映画冒頭では大学予備校の授業を抜け出していく3人の男たちのエピソードが描かれる。これは原作では先生の授業が退屈だからというように読めるのだけれど、映画のほうでは戦争の予感が色濃くあるために「こんなことしてはいられない」といった焦燥感が授業を抜け出させたかのように感じられるのだ。

『花筐 HANAGATAMI』 12月8日の真珠湾攻撃の日。その日、前から決まっていたダンスパーティが開かれる。

 鵜飼(満島真之介)は有り余る生命力をどこに向けて発散していいのか困惑している。対照的に病気で寝てばかりだった吉良(長塚圭史)は虚無僧のようだと形容される屈折したキャラだ。そして主人公・榊山俊彦(窪塚俊介)はそんなふたりに憧れている。
 そんな若者の焦燥感は吉良の言葉によく表れている。吉良は鵜飼の「お前は何を待っているんだ」という言葉に対し、「来ないものを待っている」といった禅問答のような回答をする。
 戦争は確かに近づいているらしい。それは誰もが感じているし、実際に召集されている人もいる。それでも実際に戦争の只中に行くことになるのかどうかはよくわからない。不治の病で死んでゆくことになる美那(矢作穂香)の死ほど確実ではないし、戦争は近づいているのかしれないけれどそれを信じることもできない。そんなどっちつかずな状態が「来ないものを待っている」という言葉になっているように思えた。
 もっともこれも原作にある言葉なのだけれど、映画のなかでは近づく戦争を感じさせる言葉として機能している。だからこそ「女は悲しく、男はかわいそう」という映画オリジナルな台詞も染みるものとなったと思う。男たちは若い時代を戦争で消耗し、女たちは夫を亡くし恋人を奪われることになるのだ。

 とにかく大林映画としか言いようのないような作品だった。独特なテンポと台詞回し、アニメとは違うけれど隅々までコントロールされた映像表現で169分もの長尺を見せてしまう。この作品は前2作ほどの情報量ではないけれど、後半は死んでゆく美那の妄想などとも相俟って混沌としてもいる。美那と圭子のヴァンパイアチックな描写とか、丸裸の男ふたりが裸馬に乗って駆けていくといった同性愛を思わせる場面もあったりして、大林監督の妄想が際限なく広がっていくような作品でもあった。
 撮影前にはガンが見つかり余命宣告まで受けていたという大林監督だが、作品のテンションはそんなことを感じさせない大作だった。最後に出てきたディレクダーズ・チェアにはどんな意味合いが込められていたのだろうか?

 血を吐き若き身空で死んでいく美那を演じるのは、いかにも正統派の美少女の矢作穂香『江ノ島プリズム』のときは未来穂香という名前だったが、改名したらしい。池畑真之介がママを演じるバーの場面で登場する女の子も印象に残った(地元のエキストラなんだろうか)。やっぱり大林監督は美少女が好きなのね。

花 筐 (光文社文庫)


Date: 2017.12.21 Category: 日本映画 Comments (0) Trackbacks (3)

『ビジランテ』 一郎、ニ郎、三郎、それぞれの呪縛

 『SR サイタマノラッパー』シリーズなどの入江悠監督によるオリジナル脚本による最新作。
 タイトルの“ビジランテ”とは「自警団」のこと。

入江悠 『ビジランテ』 神藤家の三兄弟を演じるのは、大森南朋と鈴木浩介と桐谷健太。


 地元の有力者であり、神藤家では暴君として振舞っていた父親が死に、二郎(鈴木浩介)は父親の市議会議員としての地盤を引き継ぎ、父親とは距離を保っていた三郎(桐谷健太)はデリヘルの店長として働いている。父親の持っていた土地がアウトレットモールの建設用地として浮上したころ、30年前に失踪した長男の一郎(大森南朋)が遺言状を持って姿を現す。

 舞台となっているのは埼玉県の架空の市。東京などごく一部の大都市を除けばほとんどが北関東とさして変わらない地方都市なわけで、この作品で描かれる北関東の憂鬱は多くの人にあてはまる普遍的なものとなっているのだろう。
 この地方都市は閉鎖的で、一部の有力者が暴力団などの裏社会ともつながり、利権を牛耳っている。どこまで行っても殺風景で特徴のない場所ばかりで、守るべきものなどあまりありそうにもないのだけれど、住民たちは自警団を結成し外国人労働者たちを排除しようとする。それは郷土愛というよりは鬱憤を晴らしにも見え、地方都市の退屈さの表れということなのだろうと思う。
 こうした舞台設定や主題の選択は、『国道20号線』『サウダーヂ』などの空族の作品を思わせなくもない。ただ空族の作品では「ここではないどこか」として、たとえばタイという外国が挙げられたりもして、実際に『バンコク・ナイツ』では舞台をタイのバンコクへと移したりもすることになったのに対し、この『ビジランテ』では登場人物はその地方都市から逃れることはできないようだ。

 二郎が地元に留まったのは、優柔不断で自ら決めることができないだけで、父親や妻の希望通りに動いていくことでその土地に自分を縛り付けている。一郎は借金を抱えているのだけれど、戻ってきた理由は金をつくることではないらしく、祖父が初めて買った土地に執着しているようでもある。
 そして3人のなかでは一番魅力的に映る人物として三郎がいるわけだが、三郎もまた土地に縛られている。30年前に一郎が失踪した夜の出来事が作品冒頭に描かれる(闇のなかの川のシーンが印象的)。なぜか三郎はその事件の記憶を歪曲している。父親に対してナイフで切りつけたのは一郎だったと勘違いしているようなのだ。これはその土地から出て行くべき人間は一郎だったと自分を納得させるためなのだろうか(本当は自分が出て行くべき人間だったにも関わらず)。そんな無意識の後ろめたさが「もっと大事なことを三人で話そう」という嘆願となっていたのかもしれない。とにかく神藤家の三兄弟は三者三様にその土地の呪縛にあるのだ。

『ビジランテ』 久しぶりに会った三兄弟は……。舞台となるのは何もない寒々しい風景の地方都市。

 私は「地方都市の憂鬱」とか、「土地に縛られている」などと書いたわけだけれど、この作品の登場人物がその地方都市を退屈だと考えているのかどうかはわからない。退屈な地方都市出身で今では都会で暮らす観客としては、勝手な思い込みでそんなことを読み込んでいただけなのかも……。作品内の地方都市は確かに魅力的な場所としては描かれてはいないのだけれど、登場人物はそこから逃げ出そうとか外の世界を求めたりはしていないからだ。
 一度は外部に出ていた一郎も邪魔だった父親がいなくなると自ら帰郷したわけだし、この作品のなかでその土地を出て行くのは一郎に酷い目に遭わされたデリヘル嬢だけで、しかもそれは外部に「ここではないどこか」を求めたわけでもないのだ。
 それから二郎の妻(篠田麻里子)は夫が窮地に立たされたことを知ると、自らの身体で地元の有力者を篭絡してまでその土地で生きることを選ぶ。何が彼女にそこまでの覚悟を抱かせるのかはよくわからないし、神藤家の三兄弟をその土地に縛り付けるものも何なのかもわからない。そんな意味では投げやりだし、不親切な部分も多いとは思うのだけれど、『SR サイタマノラッパー』のような緩さとは打って変わった重苦しい神話的世界は悪くなかったと思う。
 いつもはもっとテンション高く弾けるような演技を見せる桐谷健太は、今回は抑えた演技に徹している。それによってノワールな世界観とよくマッチする男になりきっていたのが新鮮だった。

入江悠の作品
Date: 2017.12.14 Category: 日本映画 Comments (0) Trackbacks (1)

『光』 冥府へと続く道しるべ

 原作は『舟を編む』『まほろ駅前多田便利軒』などの三浦しをんの同名小説。
 監督は『まほろ駅前多田便利軒』や『さよなら渓谷』などの大森立嗣

大森立嗣監督 『光』 主要な4人のキャスト。井浦新、瑛太、長谷川京子、橋本マナミ。


 故郷の島でかつて起きた殺人事件。中学生だった信之は、恋人の美花が森のなかで犯されているのを見つけ、相手の男を殺してしまう。25年後、島を出て妻子と暮らしていた信之の前に、事件を知っている幼なじみのたすくが現れる。

 美花と信之は恋人同士だが、信之の近くにはいつも輔がいた。輔は暴力的な父親に殴られてばかりだが、信之のことを“ゆきにぃ”と呼んで跡を追い回している。信之は鬱陶しく思いつつも、父親から酷い目に遭わされている輔のことを不憫にも思ってもいるようだ。そして、暑い夏のある日、事件は起きるのだが、その後津波が発生して島は壊滅状態になったために、殺人事件の証拠は輔が撮った写真以外は流されてしまう。
 25年後、信之(井浦新)は市役所で働き、妻・南海子(橋本マナミ)と娘とで暮らしている。南海子はある男と浮気をしているのだが、この男が成長した輔(瑛太)である。輔は信之の弱味を握るために南海子に近づいたのだが、単純に金ばかりが目的ではなさそうでもある。というのも金が欲しければ最初から昔の殺人事件のことを持ち出せばいいわけで、実際に輔の父親(平田満)が現れると、そのことをネタに今では女優となって活躍している美花(長谷川京子)と信之を脅すことになる。

 ※ 以下、ネタバレもあり!

大森立嗣監督 『光』 信之(井浦新)と輔(瑛太)は幼なじみ。輔は信之の秘密を握っている。

◆タイトルの“光”とは?
 輔が信之に近づくのは金だけじゃないというのは、何らかの親しみを感じているということもあるのだが、それ以上に信之ならば自分のことを殺してくれるだろうという予感があるからだ。信之が一度殺人を犯しているということもあるが、父親の暴力には未だに恐れを抱いているところを見ると、殺されるならば相手は信之でなければならないという執着のようなものすら感じられるのだ。
 なぜ輔がそんな破滅願望を抱くことになったのか。輔は島の暑い夏のせいにしてみたりもするのだが、どうにも説得力には欠ける。輔が魅入られたのは津波の夜に海を照らしていた月の光なのだろうと思う。

 たまたま今年の邦画でまったく同じタイトルを持つ河瀨直美監督の『光』では、“光”とは弱視の主人公が感じたであろう太陽の光を指していた。そして、その“光”は何かしら希望のメタファーとして捉えられることになるだろう。しかし、今回の大森立嗣版の『光』においては、“光”とは月の光であり、暗いなかに浮かび上がる青白い光なのだ。
 タイトルバックでも木の洞のなかに青白いものが浮かび上がり“光”という文字を形作っていた。この作品の“光”は明るい希望を指し示すのではなく、暗闇のなかに浮かび上がる光であり、それは冥府へと続く道しるべのようなものなのだ。

 輔は信之に殺されることを望んでいるし、信之も死んだように冷たい目をしている。そして信之は未だに執着を断ち切れずにいた美花に突き放されることになると、感情を露わにして自殺めいた場面を演じたりもする(投身自殺したかのように地面に横たわる信之の周りを赤い椿の花が散っている)。
 輔を彼の希望通りに始末し、妻と子供の待つ家に戻った信之は一体何をしに帰ったのか。父親の帰宅にうるさいくらいにはしゃぎまわる娘の椿(早坂ひらら)は信之の暴力的衝動を引き出そうとするかのように喚き続ける。椿が描いた絵には暗い夜に輝く月が描かれていたことも示されているわけで、娘にもそうした死への願望めいたものが受け継がれているのかもしれないとすら思わせるシーンだった。

大森立嗣監督 『光』 橋本マナミが演じるのは信之の妻・南海子。

◆島の自然と人為的な音楽
 冒頭、鬱蒼とした緑が生い茂る島の風景が描写されていくのだが、この場面の劇伴はジェフ・ミルズの大音量のテクノ・ミュージックで、とにかく違和感この上ない。島の自然と対比される人為的な音。音楽はすべて人の生み出すものなのかもしれないが、たとえば鳥の鳴き声を模したメロディとか自然に似つかわしいものだってあるはずだが、この作品のテクノはまったく自然にそぐわないのだ。
 人間だって本来は自然の一部のはずだが、岸田秀(『ものぐさ精神分析』)的に言えば人間は本能が壊れてしまっているから自然のなかの異物となっている。この作品のテクノの異物感は、自然のなかの異物としての人間を示しているように感じられた。
 そうした異物としての人間が抱えているのが過剰な“暴力”というものであり、この作品では“暴力”が重要な主題となっている。「暴力には暴力で返すしかないんだよ」というのは信之の言葉だが、最初に信之の暴力を誘発した美花は「暴力に暴力で返した者は、この世界には居られないのかも」とつぶやいたりもする。美花は周囲の男を手玉に取るという能力を駆使して生き残ってきた。それでも「あの日以来、何も感じないの」と語るなど、その表情には壊れたようなところもあり、輔や信之と同じように死に近いところにいるのかもしれない。
 ラストシーンでは家のなかを突き破るようにして大木が育っている様子が描かれる。ただそれだけのシーンなのだが人為的なものが滅び、自然が再び盛り返した“終末世界”のようにも感じられた。この作品の青白い“光”が導くところはそうした世界なのだろうか。

 怖いくらい冷たい目をした井浦新と、やけっぱちのように笑う瑛太のやりとりは緊張感があって見応えがあった。撲殺シーンでの効果音の使い方が結構怖くて、頭が潰れる音が一撃ごとに微妙に違ってくるように、断末魔のうめき声も悲痛さも増していくようだった。劇伴のテクノの使い方はかなり挑戦的な試みで、それがぴったりはまったかどうかは微妙なところだけれど、心意気はいいと思う。それから長谷川京子のラストの壊れた表情と、橋本マナミのおしりも見逃せない(ついでに言えば平田満のおしりもたっぷり拝める)。

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Date: 2017.11.29 Category: 日本映画 Comments (0) Trackbacks (2)

『南瓜とマヨネーズ』 「迷子の誰かさん」って誰のこと?

 監督は『ローリング』などの冨永昌敬
 原作は『strawberry shortcakes』『blue』などの魚喃キリコの漫画。

冨永昌敬 『南瓜とマヨネーズ』 主要キャストの3人。臼田あさ美、太賀、オダギリジョー。


 ツチダ(臼田あさ美)は売れないバンドマンのせいいち(太賀)と暮らしている。バンド仲間とうまくいかず、職もなく、自堕落に過ごしているせいいちのために、ツチダはライブハウスのバイト以外にキャバクラの仕事も始め、尽くす女に徹している。さらにキャバクラで出会った客(光石研)と愛人契約をしてまで稼ごうとするのだが、そのことがバレてけんかになってしまう。その後、せいいちもようやく働き始め、生活も軌道に乗ったかと思うと、ツチダはたまたま出会ってしまった昔の男・ハギオ(オダギリジョー)との関係に夢中になってしまう……。

 ミュージシャンを目指しつつも迷いがあるのか悶々としているせいいちにしても、女にモテすぎるからかヒモみたいな生活をしているハギオにしても、あまり褒められた人間ではないのだけれど、主人公であるツチダのやっていることもまたよくわからない。せいいちに対して尽くす女を演じていたかと思うと、その関係修復もままならぬうちにハギオと一夜を過ごしたりしてしまうのだ。傍から見ていると「何をやっているんだろうか、この女は」と疑問を感じてしまう。
 すると、そんな観客の気持ちを見透かしたかのようにツチダのモノローグが響く。「自分のやってることがわからないよ」と。その後のツチダの行動はちょっと痛々しいものにも感じられる。ハギオとキャバクラの友達・可奈子(清水くるみ)を連れてわざわざ自宅でせいいちの帰りを待つのは悪趣味だし、ツチダはなぜか修羅場となるかもしれない現場で楽しそうな笑いを浮かべているのだ。
 ツチダの行動はせいいちとの関係の息苦しさからなのだろう。ふたりは終わっているのに、それでも居場所がないから一緒に居るしかない。また一方で、ツチダはハギオのことを未だに好きなのも確かなのだけれど、それがいつまでも続くものではないことも理解している。ハギオとの情事は、せいいちとの関係から目をそらすための逃避であり、どちらにも進むことができないツチダの破れかぶれにも映る。計算高くせいいちから別れの言葉を引き出そうというよりは、わけがわからなくてどうでもよくなってしまっているのだ。

『南瓜とマヨネーズ』 ツチダ(臼田あさ美)は売春がバレて、せいいち(太賀)とぶつかることになってしまう。

『南瓜とマヨネーズ』 オダギリジョー演じるハギオはそれほど顔がアップになるわけではないのだけれど、声のトーンやその振舞いでいかにもモテそうに見える。

 『パビリオン山椒魚』『パンドラの匣』『ローリング』などを観ると冨永昌敬は様々な語り口を持つ監督で、観客の興味を惹き付け、作品をリズムにのせることもできるはず。しかし、この『南瓜とマヨネーズ』はどこに向かうのかわからないような感覚がある。というのも、主人公ツチダ自身が自分がやっていることがわからない迷子の状態にあるからなのかもしれない。作品そのものも真っ直ぐに進むわけにもいかずにうろちょろすることになるのだろう。
 冒頭ではいくつかの断片が提示される。誰かが奏でるギターの音、シャワー室の足元のアップとそれに踏みつけられている黒いもの、ショートパンツ姿の女の子たちのおしり、業務用の掃除機の回る様子。これらの断片が何なのかは映画を観始めた観客にはよくわからない。
 断片を散りばめたとしても、たとえば「輝かしい青春の一場面」とか「若者たちの怠惰な日々」とか、何かしらの意味合いを持たせることは可能なはずだが、ここでは意味不明なまま進んでいく。
 ギターを弾いているのが誰なのか不明だし、シャワー室で踏みつけられているものが何なのかもわからない(ツチダが客に着せられたスクール水着だろうか)。これらの断片は作品中の一場面なのだけれど、意味連関もなくコラージュされただけで、この作品が何を描いていくのか、どこに向かうのかまったくわからないのだ。
 もちろんこれは意図的なものなのだろう。作品中には劇伴は排除されているし、せいいちも最後の最後まで歌うことはないし、最後の歌ですらパーカッションのリズムによる“語り”のようにも聴こえるのだ。(*1)美しい旋律を奏でるように作品がスムーズに流れていかないのも、迷子の登場人物を表しているのかもしれない。

(*1) せいいちがギターの伴奏で歌うのは、風呂場でふたつの歌が交差するように歌ったもので、結局きちんと曲を歌い上げることはなかったような気がする。

 最後のせいいちの歌はツチダのためにつくったのではないと語られるのだが、その歌詞のなかに登場する「迷子の誰かさん」はツチダのことを指しているようにも思える。ともかくそれを聴くツチダの泣き笑いは、ツチダがその曲に自分のことが歌われていると感じたからだろう。
 ツチダは独りよがりにせいいちに尽くし、勝手に自滅したわけだけれど、彼の歌が好きなのは本当なのだ。そして、せいいちが自分のこと的確に把握していたことに涙したのだろう。もっとも、迷子なのはツチダの家を出て流浪状態のせいいちも一緒だし、さらに言えばあちこちの女を渡り歩くハギオも同様とも言えるかもしれない。
 途中まではイタい女にしか感じられなかったツチダだけれど、最後にせいいちの歌を聴くころには何ともいとおしい存在に感じられてもらい泣きした(臼田あさ美の泣き笑いの表情がとてもよかった)。何と言うか「迷子の誰かさん」をほかの誰かのことだと思える人はよっぽど満ち足りた人なんじゃないかと思う。とても身に染みた作品。

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冨永昌敬の作品
Date: 2017.11.22 Category: 日本映画 Comments (0) Trackbacks (2)

『予兆 散歩する侵略者 劇場版』 東出宇宙人大活躍の巻

 『散歩する侵略者』のスピンオフドラマの劇場版。
 WOWOWにおいて全5話で放映されたものを140分にまとめたもの。

黒沢清 『予兆 散歩する侵略者 劇場版』 主役の三人。東出の役は『散歩する侵略者』のときとは別のもののようだ。

 『散歩する侵略者』と設定は同じで、ほぼ同じころに別の場所で起きていたことを描いていく。主人公の山際悦子(夏帆)の周囲の人物が普段と何かしら違うように感じられるという描写から始まる。夫の辰雄(染谷将太)はベランダから遠くの空を見てぼんやりしているし、同僚のみゆき(岸井ゆきの)は家に幽霊みたいなものがいると助けを求めてくる。
 『散歩する侵略者』を観ている人ならば、彼(女)らは宇宙人に乗っ取られたのか、あるいは何かしらの“概念”を奪い取られてしまって腑抜けになったのだろうと推測することになる。なぜか勘の鋭い悦子は、そうした不穏な予兆を感じ取り怯えることになる。

 ※以下、ネタバレもあり!


『予兆 散歩する侵略者 劇場版』 真壁(東出昌大)は悦子(夏帆)から“概念”を奪おうとするのだが……。

 夫の辰雄が何かしら怪しいように感じられたのは、実は彼は宇宙人のガイドであり、職場の医師・真壁(東出昌大)により支配されているからだ。辰雄は真壁に右手に苦痛を埋め込まれ、それによりガイドとなることを強要されている。辰雄は真壁が概念を奪うターゲットを選別する役割を担うことになり、辰雄が気に入らない人間から順に真壁の餌食となる。この状況を利用すれば神のように振舞うことすらできるかもしれないのだが、辰雄は人間ではなく宇宙人の側に味方することに耐えられなくなっていく。
 『散歩する侵略者』ではガイドの桜井(長谷川博己)がなぜか宇宙人と友情を育んでしまうことになっていたが、『予兆』の辰雄のほうがより一般的な態度なんじゃないかとも思う。桜井は一匹狼的存在だったから例外であり、人間としてはこっそり敵側のスパイとなるような状況は耐え難いからだ。

 もともと観客を劇場へと走らせるための壮大な予告編という意味合いもある『予兆 散歩する侵略者』だけに、『散歩する侵略者』と並べると目新しい感じもないのだけれど、『予兆』には最強の宇宙人たる東出昌大がいるところが見どころだろうか。
 東出の無表情は傍若無人な振舞いもよく似合うし、死の概念を知ってなぜか無邪気に喜んでみたりするところも妙におかしい。黒沢監督も東出宇宙人が気に入ったのか、真壁はほかの宇宙人にはないほどのしぶとさがあり、いつまでも悦子たちを苦しめることになる。悦子を演じる夏帆が激しくふっ飛んでいったときには、「東出、やり過ぎ!」とスクリーンにツッコミを入れたくなった。
 概念を奪うときの光の演出とか、風に揺れるカーテンなど、黒沢清らしさが十分に楽しめる作品になっている。冒頭に登場する山際夫妻のベランダのつくりもおもしろいし、いつものように廃墟も登場する。夏帆が銃を構えつつゆっくりとそこを移動していくのは、廃墟をたっぷり見せたいがためのものとすら感じられた。

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Date: 2017.11.14 Category: 日本映画 Comments (0) Trackbacks (0)
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新作映画(もしくは新作DVD)を中心に、週1本ペースでレビューします。

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