『ラビング 愛という名前のふたり』 白人と黒人との距離

 『テイク・シェルター』『MUD‐マッド‐』ジェフ・ニコルズの最新作。
 主演女優のルース・ネッガはアカデミー賞主演女優賞にノミネートされた。
 「ラヴィング対ヴァージニア州裁判」として知られる出来事を題材にした作品。

ジェフ・ニコルズ 『ラビング 愛という名前のふたり』 ラビングという苗字を持つふたりのラブストーリー。

 大工として働くリチャード・ラビング(ジョエル・エドガートン)は、恋人ミルドレッド(ルース・ネッガ)から妊娠したことを告げられ結婚を申し込む。しかし、彼らの住むヴァージニア州では異人種間の結婚は認められていなかった。リチャードは白人で、ミルドレッドは黒人だから、ふたりが結婚することは法律に違反することになる。
 ふたりが結婚したのは1958年。それほど大昔というわけではないのだけれど、アメリカの保守的な州では異人種間の結婚が禁止されていたようだ。ふたりは異人種間の結婚が認められているワシントンD.C.まで遠出して正式に結婚をすることになるが、故郷に戻って新婚生活を始めた途端、夜中に保安官(マートン・ソーカス)が乗り込んできてふたりは逮捕されてしまう。

 ふたりは理不尽な仕打ちになすすべもない。ふたりには知恵もなければコネもなく、差別意識むき出しの保安官の指示にも従うほかない。おかしいことだとわかっていても声高に叫んだりはせず、悲観して嘆いたりすることもない。そんなふたりがのちに最高裁判所に「異人種間結婚禁止法が違憲である」と認めさせることになるのは、ただ愚直なまでにふたりが一緒にいることを望んだからだろう。
 状況に現実的に対応するのは女性のミルドレッドのほうで、司法長官に手紙を出したことがきっかけとなって裁判が動き出す。リチャードはそうした彼女の行動を静観するような態度だが、機会があれば協力も惜しまない。最高裁への出廷については、ミルドレッドはリチャードの意見を尊重するあたり、ふたりが常に互いを尊重しあって最後まで一心同体のごとく結びついていることを感じさせる。

『ラビング 愛という名前のふたり』 リチャード・ラビング(ジョエル・エドガートン)と恋人ミルドレッド(ルース・ネッガ)。冒頭の場面からふたりは同じ方を向いている。

 「異人種間の結婚が禁止されていた時代」という事前の情報からして、ふたりの主人公にはどれほどの距離があるのだろうかと考えていたりもしたのだけれど、そんな予想は冒頭のエピソードで覆されたように思えた。
 冒頭ではミルドレッドが妊娠のことをリチャードに告げるのだが、この場面はそれぞれの横顔がクローズアップで捉えられている。妊娠を告げるミルドレッドの横顔のあとに、それを聞くリチャードの横顔。ここではふたりがまるで向き合っているかのようにスクリーンの端と端とに捉えられ、そこには距離があるように見える。しかしこれは作品上での見せかけに過ぎない。次のカットでふたりの全景が映されると、実際にはふたりは玄関先に並んで座っているのだ。
 白人と黒人という主人公たちの間に距離があると偏見を抱いていたのは、観客である自分のほうだったのだろう。実際にはミルドレッドとリチャードの間に距離はない。リチャードは父親が黒人に雇われていたらしく、生まれたときから黒人たちと一緒になって暮らし、そんななかであくまで自然にミルドレッドと恋愛関係になったと推測される。
 冒頭でふたりに距離を感じるように撮られているのは、観る側のそうした偏見を打ち砕く意図があったのかもしれない。思えばミルドレッドとリチャードのふたりは、最初に玄関先に並んで登場したときから最後に裁判で勝利を得るまで常に同じ方を向いて進んでいたのだった。ふたりの意見が対立するのはメディアに対する対応の部分くらいだろうか。それも結局はリチャードが折れる形でミルドレッドの傍を離れることはなかったわけで、異人種間の結婚ということを抜きにしても愛に溢れた夫婦だったと思う。やや恥ずかしい気もする邦題だけれど、これはふたりの苗字がLovingだったからで、まさにふたりの関係を示してもいるわけでまあ許せるだろうか(原題「Loving」のままでもいいと思うが)。

 『ザ・ギフト』では監督・主演も務めてインパクトを残したジョエル・エドガートンが不器用なリチャードを演じている。普段は不機嫌そうな顔にも見えるが、ミルドレッドに笑みを見せるときとの落差がかえって親しみを感じさせる。リチャードにはほとんど何の力もないのだが、それでもミルドレッドを守ると宣言する。その言葉に実現性が伴うかどうかはあやしい気もするのだが、常にミルドレッドの傍を離れないリチャードの愛の言葉としては有効だったと思う。地味ではあるけれど心に染みる作品。
Date: 2017.03.09 Category: 外国映画 Comments (0) Trackbacks (2)

『素晴らしきかな、人生』 悪意転じて福と成る?

 『プラダを着た悪魔』デヴィッド・フランケルの最新作。
 キャストはウィル・スミス、ケイト・ウィンスレット、キーラ・ナイトレイ、エドワード・ノートン、ヘレン・ミレンと豪華。
 最近の『永い言い訳』とか『雨の日は会えない、晴れた日は君を想う』などと同じように、近しい人を亡くした者のグリーフワーク(喪の仕事)を題材としている(『雨の日』は主人公の壊れっぷりにちょっとついていけなかったけれど)。

デヴィッド・フランケル 『素晴らしきかな、人生』 主役のウィル・スミス以下、なかなか豪華なキャスト陣。

 主人公のハワード(ウィル・スミス)は愛娘を亡くして以来、自分で創業した広告代理店の仕事にも手がつかない。ほとんど周囲とのコミュニケーションすらできない状態で、職場には顔を出しても日がな一日ドミノをやっている(ドミノは一気にすべてが崩れ去ってしまったハワードの心情を示している)。娘が亡くなる前のハワードは広告マンとして従業員のカリスマだった。しかし娘の死で彼は腑抜けになり、その影響で会社自体も傾きかけている。
 ホイット、クレア、サイモンという同僚たち3人はハワードに立ち直ってもらいたいという願いと、会社を潰すわけにはいかないという義務感もあり、ハワードが心を病んでいる証拠を探偵に調べさせる。ハワードが取締役として適格性を欠いているという証拠があれば、会社を救うことができるからだ。
 探偵の調査で明らかになるのは、ハワードが「愛」「時間」「死」という抽象的概念に宛てて手紙を書いていたという事実だ。これだけでもかなり病的だということはわかるわけだが、同僚たちは「愛」「時間」「死」という概念を具現化した人物を役者に演じさせて、ハワードに揺さぶりをかけることになる。

 ※ 以下、ネタバレもあり!


『素晴らしきかな、人生』 ハワードの同僚の3人衆。

『素晴らしきかな、人生』 こちらは「死」「愛」「時間」を演じることになる役者たち。本当に役者だったのかは不明?

 役者たちが演じることになる「愛」「時間」「死」は、ハワードが従業員を前にした演説でも論じていた重要なキーワードだ。ハワードは「広告は人に伝えることがすべて。愛を渇望し、時間を惜しみ、死を恐れる。それこそが人々を繋ぐ要素である」といったことを語っていた(このサイトから引用)。そんなものが具現化して自分に語りかけてきたものだから、ハワードはさすがに自らの病気を自覚したのかもしれない。
 ただこの作品のミソはハワードが立ち直る部分よりも、一連の出来事によって同僚たちのほうがかえって救われるところにあるのだろう。原題は「Collateral Beauty」となっていて、字幕では「幸せのオマケ」という意訳がなされている。
 「Collateral」とは「副次的な」という意味。つまり、同僚たちが仕掛けた作戦はハワードを貶めるためのものだったはずだが、そのとばっちりがうまい具合に同僚たちに波及していくということが含意されているのだろう。「愛」「時間」「死」というキーワードは誰にでも共通することであり、それが人々を結びつけるというのがハワードの考えだった。そして、そうしたつながりこそが登場人物たちの救いの役割を果たしていくのだ。

 ハワードの親友でもあったホイット(エドワード・ノートン)は離婚して娘との関係に悩んでいる。クレア(ケイト・ウィンスレット)は仕事に専念しすぎたのか婚期を逸してしまい、子供を持つことで悩んでいる。サイモン(マイケル・ペーニャ)は自らの死期を知ったものの、それを家族に言い出すことができないでいる。
 そんな3人とペアを組む形になるのが、ハワードを騙すために雇った役者たちで、娘への愛情で悩んでいるホイットは「愛」役のエイミー(キーラ・ナイトレイ)と、婚期を逸したクレアは「時間」役のラフィ(ジェイコブ・ラティモア)と、死期を悟ったサイモンは「死」役のブリジット(ヘレン・ミレン)とやりとりするうちに、それぞれの状況を打破するヒントを得ることになる。

 「愛」「時間」「死」役の3人は、ホイットが拾ってきた役者だったのだけれど、登場の仕方はかなり胡散臭い。もしかすると3人は人間のフリをした天使のようなものだったのかもしれない。脚本全体がかなりご都合主義なのも、天使たちが仕組んだことならば納得がいくだろう。
 この作品の邦題は『素晴らしき哉、人生!』(原題「It's a Wonderful Life」)という名作からいただいてきている。その名作ではクリスマスの晩に天使が登場して主人公を救うことになるわけだが、この『素晴らしきかな、人生』(原題「Collateral Beauty」)もそのあたりはよく似ている。ただ、かつての名作と比べられるほど本作が「素晴らしい」とは言い難い気もする。それでも間違いなく泣かせる話であるとは言える。脚本のあざとさを気にせずに、存分に泣くのもたまにはいいんじゃないかと思う。

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Date: 2017.03.02 Category: 外国映画 Comments (0) Trackbacks (3)

『ラ・ラ・ランド』 ひとときの夢のような……

 『セッション』デイミアン・チャゼル監督の最新作。
 第89回アカデミー賞には史上最多タイの14部門でのノミネートという前評判の高い作品。

デイミアン・チャゼル 『ラ・ラ・ランド』 ミア(エマ・ストーン)とセブ(ライアン・ゴズリング)は街が見える丘の上で踊り出す。名作『バンド・ワゴン』をイメージしているらしい。

 原題の「La La Land」は、「LA」つまり作品の舞台となるロサンゼルスやハリウッドのことを指す。町山智浩によれば、「彼女はラ・ラ・ランドに住んでいるんだ」という使い方をすると、「彼女は夢見がちなんだ。現実を見ていないんだ」といったニュアンスになるらしい。
 『ラ・ラ・ランド』はそんな夢見がちな主人公たちの物語だ。ミア(エマ・ストーン)はオーディションを受けまくっているけれどまったく相手にされない女優の卵。セブ(ライアン・ゴズリング)は自分が好きな古臭いジャズの店をやりたいと考えているけれど、実際には資金もなくて退屈な音楽を弾く仕事に甘んじている。そんなふたりが出会って恋に落ちる。

 映画は所詮虚構なわけだけれど、ひとときの夢を与えてくれたりもする。そんな映画が好きだからこそ映画に関わる人もいる。ハリウッドはそんな人たちの街なのだろう。ミアが現実的で稼ぎもありそうな彼を棄ててまでセブのもとに走るのも、「Audition」という曲で「どうか乾杯を 夢追い人に」と歌い上げるのも、夢見がちな人に対する共感があればこそだろう。だからこそ『ラ・ラ・ランド』はハリウッドでとてもウケがいい。
 劇中では瀕死のジャズという言葉があるが、ミュージカル映画というのも今では瀕死の状態にあるらしい。この作品の製作も難航したようで、チャゼル監督が「資金集めをするときには、ミュージカルやジャズは、映画の要素として人気がないということを嫌というほど思い知らされたし、興行成績も見こめないと何度も言われた」と明かしている。
 それでもチャゼル監督は『セッション』でも題材としたジャズが好きなのと同じように、ミュージカル映画が好きなのだろう。ハリウッドが夢の世界をつくりあげる場所として君臨していた古き良き時代、『ラ・ラ・ランド』はそのころのミュージカル映画に対するオマージュに溢れていている。そんな王道のミュージカルを見事に復活させたからだろうか、アカデミー賞でも本命視されているとのこと。

『ラ・ラ・ランド』 ふたりは夜空高く舞い上がって踊る。まさに夢のようなシーン。

◆ふたりだけの夢の世界
 なぜミュージカル映画が瀕死の状態にあるのかといえば、登場人物が突然歌い出すという通常ではあり得ない設定に違和感を覚える観客が多いからなのだろう。個人的には冒頭のハイウェイ上のモブシーンは唐突でちょっと違和感を覚えた。
 ここでは渋滞に巻き込まれた人々がそのイライラを解消するかのように踊り出す。果てしなくつながる車列とその上で踊る人々を優雅に移動するカメラの長回しで捉えつつ、主人公ふたりのすれ違いまでを一気に見せてしまう手腕は見事なのだけれど、あまりに唐突で気分が盛り上がってこないのだ。

 ミュージカル映画で登場人物が歌い出すのには理由があるはずで、それは何かしらの感情が湧き上がってきたからだろう。それによって舞台は現実から非現実的な夢の世界へと移行し、登場人物はその感情を歌に込め、踊りとして表現する。だから観客を主人公たちの感情に惹きつけることができれば、歌い出すことも不自然ではなくなるのだ。
 ミュージカル映画では主人公たちが歌う必然性が最初から設定されている場合もある。たとえば『ムーラン・ルージュ』のように主人公がキャバレーの踊り手とその曲の作り手だったとすれば、主人公たちが歌い出すのに何の不思議もない。ただこれはミュージカル映画独特の現実から夢の世界への移行という部分がない分おもしろみにも欠けるのかもしれない(『ムーラン・ルージュ』は大好きだけれど)。
 この作品ではミアとセブが出会ってからの展開には惹き込まれた。再会したふたりがそれまでのすれ違いもあって微妙な駆け引きをしながらも近づいていき、街を見下ろす丘の上で踊り出すころにはすでに夢の世界にどっぷりと浸っていた。

 ふたりが恋に落ちると、そこにはふたりだけの夢のような世界がある。ふたりが見つめあうと周囲は暗くなり、周りの人の存在も消え失せ、世界はミアとセブのふたりだけになる。そして、ふたりは歌い踊る。こうした設定はミュージカル映画だからこそで、夢の世界では星がきらめく夜空まで舞い上がることでさえも可能になる。
 ただ現実はやはり厳しくて、夢を追うことには犠牲が必要だ。ラストではふたりそれぞれが夢を実現しているわけだけれど、それによって失ったものもまた大きかったとも感じさせる。5年ぶりに会ったふたりの視線が交錯する瞬間が何とも切なくて涙を禁じ得なかった。

◆アカデミー賞の結果発表
 レビューをアップするのにもたついていたらアカデミー賞の結果が出てしまったようだ。大方の予想を覆し、作品賞は『ムーンライト』だった。『ラ・ラ・ランド』は監督賞と主演女優賞と、歌曲賞(「City of Stars」)・作曲賞(ジャスティン・ハーウィッツ)・撮影賞(リヌス・サンドグレン)・美術賞を獲得した。6部門受賞というのは立派だが、前評判では作品賞も確実視されていたようだし大波乱といった印象。しかも何の因果か進行側の手違いで最初は『ラ・ラ・ランド』の名前が読み上げられてしまい、その後に撤回されるという前代未聞の出来事まで起こってしまったらしい。製作陣はひとときの夢にぬか喜びということになったわけだ。
 『ムーンライト』はまだ日本では公開されていないから詳細はわからないけれど、黒人が主人公で製作総指揮にはブラッド・ピットということで『それでも夜は明ける』のようなシビアな話が予想される。アカデミー賞は娯楽作よりもメッセージ性のあるものを選びがちだから順当なのかもしれないけれど、「アカデミー賞は白人偏重だ」という批判もあったようだからそのあたりが影響しているのかどうか……。個人的には夢のある作品が作品賞になったっていいと思うのだけれど。

ラ・ラ・ランド-オリジナル・サウンドトラック



Date: 2017.02.28 Category: 外国映画 Comments (0) Trackbacks (9)

『愚行録』 日本は格差社会ではなく階級社会?

 監督の石川慶はポーランドで映画を学んできた人ということで、今回が商業デビュー作。
 原作は直木賞の候補作にもなったという貫井徳郎の同名小説。

石川慶 『愚行録』 主人公となる田中兄妹と対照的なエリートたちのぎらついた目が印象的。


 主人公の田中武志(妻夫木聡)は週刊誌の記者で、一年前の殺人事件について追うことになる。その事件ではエリート会社員とその妻と娘が殺されたのだが、未だに犯人は見つかっていない。田中は改めて被害者の関係者にインタビューを試みる。

 主人公の記者・田中には妹・光子(満島ひかり)がいる。冒頭のエピソードでは、自分の娘への虐待容疑で逮捕された光子と田中の面会が描かれる。その後に本題の殺人事件へと移っていくわけだが、なぜ主人公の記者が編集部の反対を押し切ってまで事件に追うのかは謎のまま進んでいく。

 最初の取材対象者の男(眞島秀和)は、殺されたエリート会社員・田向浩樹(小出恵介)との思い出をビール片手に話し出す。ふたりが新入社員の女の子とちょっと遊んで都合よく棄てたという話で、要は殺された田向という男も取材対象者の男もクソみたいな男だということわかり、観客としてもこんな男なら殺されても当たり前という感情を抱くようになっている。
 その後も田中の取材は続く。被害者たちの思い出話はある大学の特殊な事情に関わっていく。原作未読なので詳細はわからないのだが、原作ではこの大学は慶應大学と名指しされているようだ。映画のなかでは別の名前とされているが、モデルはやはり慶應大学のようで、この特殊な社会では幼稚舎あたりからエリート街道を歩んできた“内部”の人たちと、試験で合格した“外部”の人たちは階級の差がある。
 “内部”はエリートだけで固まって、“外部”の人を差別する。とはいえ“外部”から“内部”へ昇格する人もいる。それはごく一部の容姿端麗な女性だ。そんなふうに昇格した女が夏原友季恵(松本若菜)で、彼女は“内部”と“外部”を結びつける役割も果たすことになる。つまりは“外部”の女を連れてきては“内部”の男に紹介するという遣手婆のような役割を果たしているのだ。平凡な女の子は相手にしないが、“外部”の男が好きそうな容姿の女には近づいていく。そんな友季恵はのちに田向と結婚し、誰かに殺害されることになる。
 ほかの取材対象には夏原友季恵に男を取られて壮絶な張り手の応酬をすることになる宮村淳子(臼田あさ美)とか、田向浩樹に利用されつつ自分もほかの男を利用している稲村恵美(市川由衣)など様々だが、彼らや彼女らがやっていることは愚行というよりも胸クソが悪いものに感じられる。

 ※ 以下、ネタバレあり! ラストにも触れているので要注意!!

『愚行録』 光子(満島ひかり)は精神科で過去について語り出す。

 なぜ記者の田中がその事件に拘るのかと言えば、実は妹の光子がその事件の犯人であることを知っているから。この兄妹はエリート社会とは縁のないはずの人間で、親から虐待を受けて育った子供たちだ。そんな光子も実は舞台となる大学の“外部”側の人間だったことが明らかになる。さらに記者の田中が取材を続けているのは、取材によって妹が事件に関わっていることを感づいている人物を探すためでもある。エリートたちの行動は胸クソ悪いが、田中兄妹の行動は愚かだったとは言えるかもしれない。

 時代背景がはっきりとは示されないけれど、登場人物がスマホではなく折りたたみ式の携帯電話を使っているところからするとちょっと前の話かと思われる。登場人物が一様に上昇志向(聞き役の田中は例外だが)で、男たちは彼女の父親に取り入ってまで一流企業に入ろうと奔走するし、女たちはエリート会社員と結婚するというゴールを疑うことがない。このあたりは未だ不況から抜け出す気配もない今から見るとちょっとウソっぽくも感じられる。
 予告編で煽っているような衝撃な部分は色々とあるものの、児童虐待とか近親相姦といった出来事は誰もが身近に感じられるものとは思えないし、エリート大学の特殊事情に関してはそれが本当なのかも知らないし、本当だとしてもアホみたいな話に思えた。劇中でも「ほかの人にはわからない」という台詞があるけれども、端的にどうでもいい話でしかないからだ。そんな意味ではやはりエリートたちも愚かな人たちだとも言えるのかもしれない。「胸クソ悪い」と感じてしまうのは、観ているこちらが“内部”側の人ではないからなのだろう。

 冒頭にバスのなかで席を譲るシーンがあり、ラストでも再び繰り返されるのだが、それはまったく同じ形ではない。冒頭では田中の行為にささくれ立った心を見ることになるが、ラストでは素直に席を譲っている。2時間の映画のなかで田中のなかに何か変化があったということになるわけだが、妹の犯罪を隠し通すことにも成功してちょっとだけ心にゆとりを持つことができたということかもしれない。それでも彼らの未来は明るいとは到底思えないわけで、どこにも救いがなく何ともイヤな気持ちになる作品だった。
 新人監督の演出も悪くなかったと思う。雨のなかにくすんだ風貌で登場する妻夫木聡と、陽の光で脱色されたような満島ひかり。その兄妹とは対照的に過去に登場するエリートたちは妙に目がぎらついているのが印象に残る。ただ、エリート大学の特殊事情を示す様々なエピソードにはどうにも興味を抱けなかった。

愚行録 (創元推理文庫)


Date: 2017.02.19 Category: 日本映画 Comments (0) Trackbacks (2)

『たかが世界の終わり』 自己憐憫の先にあるもの

 『わたしはロランス』『トム・アット・ザ・ファーム』などのグザヴィエ・ドランの最新作。
 原作ジャン=リュック・ラガルスの戯曲『まさに世界の終り/忘却の前の最後の後悔』。なぜか映画の邦題は「たかが」となっていて、原作とは異なる。「たかが」と「まさに」では意味が違うと思うのだけれど……。この映画の原題も英語版は「It’s only the end of the world」で、フランス語版では「Juste la fin du monde」となっていて、その違いが原作と映画の邦題の違いなのだろうか。

グザヴィエ・ドラン 『たかが世界の終わり』 フランスを代表する役者陣が揃った豪勢な作品。


 12年も前に家を飛び出したルイ(ギャスパー・ウリエル)は、自分の死期が近いことを告げに自宅へと帰る。久しぶりの再会に家族からの歓待を受けるルイだが、目的となる告白をすることはできずに時間が過ぎていく。昼食後のデザートのタイミングで告白しようと決断するものの、その間の家族のやりとりは穏やかなものではなかった。

 ルイは今では劇作家として成功した立場にある。彼がなぜ家を出ることになったのかはわからない。ゲイであることがきっかけかもしれないし、口数少なく愛想笑いばかりのルイにとっては、家族間の言い争いが絶えないこの家は居心地のいい家ではなかったことは推測できなくもない。
 次男の帰郷にテンションが上がる母親(ナタリー・バイ)も、ルイが家を飛び出したころには幼かった妹シュザンヌ(レア・セドゥ)もルイを歓待する。その様子を離れたところから窺っている兄アントワーヌ(ヴァンサン・カッセル)は横から色々とケチをつけてくる。彼らのやりとりは騒がしく、兄嫁のカトリーヌ(マリオン・コティヤール)はどこか居心地が悪そうにも見える。そんな疎外感において、家を飛び出したルイとカトリーヌはどこかで通じ合っている部分がある。

『たかが世界の終わり』 家族が揃って食事をするものの雰囲気は穏やかとは言えない。

◆家族間のディスコミュニケーション
 戯曲の映画化ということで中心となるのは会話であり、監督ドランはそれをクローズアップの多用で描いていく(役者陣が豪華なのはこのためだろう)。交わされる会話の多くは他愛ないもので、場を繕うためのものにすぎない。12年ぶりに戻ったルイに対してそれぞれ言いたいことはあるはずだけれど、家族が勢揃いした場では騒がしいやりとりがあるばかりだ。
 ルイが家族の面々と個々に対話する場面もある。そうなるとルイに対して言いたいことが噴き出してくるのだが、すぐにもそうした言葉は否定されたりもする。「ごめんなさい」とか「別にあなたを非難したいわけではない」なとど取り繕うのだが、否定した言葉のほうが嘘なのだろうとも感じられる。そんな意味では家族といえども(あるいは家族だからこそ)、言いたいことを伝えることは難しいようだ。
 大事なことは語られることはないし、語ったとしても本音ではないかもしれないし、本音を言ったところで自分の伝えたいことは相手には伝わらないのかもしれない。そんな感覚が支配しているのだ。

◆伝えたいこと/聞きたくないこと
 自らの死を伝えるために戻ってきたルイだが、ルイが不在となった家に残された家族には別の事情もある。それまで一緒に居た人間が消えてしまうわけで、家族の間には何かしらの動揺が生じただろう。後半、特に中心に据えられてくるのはアントワーヌの存在だ。家を出て成功した弟と、家に残った厄介者の兄。そんな関係が前面に出てくる。
 多分、アントワーヌはルイの帰郷の理由を理解している。ルイがもうすぐ死ぬかもしれないという悲劇の主人公となれば、ますますアントワーヌの居場所はない。ルイは自分勝手に出て行ったくせに、都合よく帰ってきては家族の中心になり、自分をコケにする。そんなアントワーヌのルイに対する劣等感が最後の騒動へと発展することになる。
 激高してルイに殴りかからんとするアントワーヌの瞳は涙で濡れている。哀れに何かを懇願するような瞳と相対したルイは何も言わないことを選ぶ。その瞳にルイは言葉では語り尽くすことのできないものを感じたようにも思えた。

 『たかが世界の終わり』は最初から家族のディスコミュニケーションに貫かれているわけで、言葉では言い尽くせないことを描いている。だから私がそれを言葉で説明しようとするのは無粋と言えば無粋だけれど、それを承知でもう少し続ければこんなふうになるかもしれない。
 ルイには何らかの理由で死期が迫っている。それを家族に報告するというのは特別なことでもないし、むしろ義務と言ってもいいことだろう。それでも電話で恋人相手に「誰も泣かないかもしれない」などと心配していたように、どこかで自己憐憫があるだろうし、家族からの同情も期待しているわけで、それは結局自分勝手な都合にすぎない。アントワーヌの瞳のなかにそんなことをルイは感じていたようにも思う。
 ルイにはルイの都合があるかもしれないけれど、アントワーヌにはアントワーヌの都合がある。ルイには伝えたいことがあっても、アントワーヌは聞きたくないわけで、相手にそれを押付けるわけにはいかない。ルイはそんなことを察したからこそ、何も言わないことを選んだし、声をかけようとするカトリーヌをも仕草で制することになる。家族でもわかりあえないものがある。ただ、その「わかりあえない」という一点だけは共有できたというのは何とも哀しい話ではないだろうか。

 手法として奇抜なところはまったくなく、その意味でドランの成長が感じられるとも言えるし、外連味が失われたとも言えるかもしれない。そのあたりはどちらなのかは決めかねるところだろうか。役者陣の演技は繊細だったけれど、会話が長々と続く展開は舞台劇の映画化とはいえしんどい部分もあるだろうと思う。
 それでもやはり音楽の選曲は凝っていて、この作品で唯一の愉快なシーンでは「恋のマイアヒ」が登場するのは意図的にハズしているのだろうけど、冒頭とエンディングの曲はこの作品の雰囲気をよく示している。



まさに世界の終り/忘却の前の最後の後悔 (コレクション現代フランス語圏演劇)


たかが世界の終わり 【輸入盤帯付国内仕様】


Date: 2017.02.13 Category: 外国映画 Comments (0) Trackbacks (7)
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新作映画(もしくは新作DVD)を中心に、週1本ペースでレビューします。

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