白石和彌監督 『凶悪』 常識的人間にも潜む凶悪さ
“上申書殺人事件”とも呼ばれる実話をもとにした映画。原作は雑誌「新潮45」で連載されベストセラーになり、すでに文庫化もされている。監督の白石和彌は故・若松孝ニ監督の弟子で、今回が初の長編映画とのこと。脚本は白石和彌と高橋泉が共同で担当。出演には山田孝之、ピエール瀧、リリー・フランキーなど。

映画『凶悪』は、事件を追うことになる雑誌記者の目を通して構成される。冒頭の須藤(ピエール瀧)の悪行は、死刑囚である須藤の公判ですでに明らかになっている犯罪なのだが、観客は突然悪行の数々をダイジェスト版で見せられる。これは須藤に会いに行く前の記者の状況と同じで、後に記者の調査によって詳しい状況が判明し、その背後に「先生」と呼ばれる男(リリー・フランキー)が存在することが明らかになる。記者は死刑囚と協力し上申書を提出し、未だ娑婆でのうのうと暮らしている先生を追い詰めていく。
原作は未読だが、この映画は原作の事件のエピソードとは別に、雑誌記者である藤井(山田孝之)の存在が加えられている。そこが映画『凶悪』の相対的にいい部分だとは思う。というのは、事件のエピソードだけでは、物語としてもたないからだ。
「ぶっこんじゃう」という言葉の正しい意味は知らないけれど、焼却炉に人を放り込んでみたり、簀巻き状態の人を川に投げ込んだりと、あまり愉快な言葉でないことは明らかで、須藤がそんな言葉を吐く場所には決して居合わせたくないし、そんな凶暴な須藤をうまく利用して、老人を金に変える錬金術師である先生にも、その眼鏡の奥の冷ややかな目には見据えられたくない。後半で事件の共犯者がたまたま事故に遭って死んでしまうのも現実に起きたことのようだし、とにかく描かれていることの凄さには目を疑うほかない。
あくまで現実をモデルに描いているのだが、そこに物語にするほどの深みはない。彼らは一種のモンスターであり、ジェイソンが人を襲う程度の理由しか持ち合わせていないからだ。子どもや女には優しく、弟分のことを常に気をかける須藤の存在にはリアリティもあるのだが、同時に気に入らなくなると何でも「ぶっこんじゃう」存在でもあり、結局信頼していた先生にも最後は牙を向くわけで、その存在はリアルではあるかもしれないが、無茶苦茶すぎるだけで面白みにも欠ける。つまりそこからは映画にするほどの物語性など皆無なのであって、そのために雑誌記者の存在が必要だったように思えたのだ。
もちろん物語なんてなくてもいいのだが、その場合はその欠如を補うような別の何かが必要だろう。『凶悪』は、事件の猟奇性から園子温の『冷たい熱帯魚』を連想させる。園作品のなかで『冷たい熱帯魚』を高く評価するものではないが、というのはこの作品も異常な事件という題材に引きずられすぎていると思えるからだが、それでも『冷たい熱帯魚』では事件の描写に圧倒的な熱量を感じて目を離すことができなかった。『凶悪』にはそうしたものが足りないのか、事件の描写を冷めた目で観てしまっていた。
記者の藤井が先生の事務所に辿り着いた場面から、この映画は事件の渦中に移行していく。このスムーズな過去への移行は素晴らしいし、記者が目撃してしまう先生の絞殺シーンもリアルだったが、96度のウォッカを無理やり飲ませて老人を殺す場面では、その最期の瞬間をスローモーションで処理しているのにちょっと感興をそがれる気がした。また、冒頭のダイジェストは中盤での種明かしの伏線みたいなものだが、経緯を省いて唐突に露悪的な場面が展開するものだから、圧倒されるよりあざといものを感じるだけだった。観客の評判も高い作品だし、ほかの邦画の水準も超えているとは思うのだが、期待値が高かったせいか今ひとつノレなかったというのが正直な感想だ。


事件のエピソードから比べれば、藤井の家庭でのエピソードには派手さはない。アルツハイマーの母親とそれを介護する嫁(池脇千鶴)、藤井は仕事を理由に家庭で進行する事態から目を背ける。追い詰められた嫁はボケた義母に対して暴力を振るうようになっていく。無理やり付け加えられた枠物語であり、その出来も決していいとは言えないのだが、映画が終わってみればそちらのほうが印象に残った。
須藤や先生はいかに現実の存在とはいえ、常識的人間からすれば程遠いモンスターなわけで、それだけでは共感性に乏しい。そこに雑誌記者の藤井の存在が加わることで、凶悪なモンスター的存在をノンフィクションや映画などで垣間見ようとする常識的人間にも潜む凶悪さも明らかになる。
ちなみに藤井はたまたま事件に遭遇してのめり込んでいったわけではない。藤井が登場する場面は、冒頭の須藤の殺人事件の後だ。藤井が被害女性の父と面会するというシーンだが、観客は須藤の事件を追って被害者の父に会いに来たと思うだろう。しかし、この被害女性は冒頭の事件とは別の被害者なのだ。そのあとに藤井が出版社に戻ると、初めて須藤からの手紙を渡されるからだ。観客をミスリードするような編集になっているが、ここで理解されるのは、藤井という記者はもとから猟奇的な事件に惹かれているということだ。上司からは芸能人のゴシップ記事を求められるが、雑誌の売り上げに貢献するような仕事には興味はなく、藤井の何かしらの性なのか、凶悪な犯罪に惹かれている。つまり藤井は自ら凶悪な事件を求めていたのだ。
もちろんそれは“正義”という仮面を被ってはいるが、犯罪者を許さないという“正義”と凶悪なものに惹かれる性は切り離すことはできない。最後にそれを先生に見透かされる。先生が去ったあとに面会室に残される藤井の姿は、どちらが囚われの身になっているのか怪しくなる。先生が「おれを殺したいと一番思ってるのは」と指差すのは、藤井の存在を越えてスクリーンを見つめているわれわれ観客にも向けられている。


映画『凶悪』は、事件を追うことになる雑誌記者の目を通して構成される。冒頭の須藤(ピエール瀧)の悪行は、死刑囚である須藤の公判ですでに明らかになっている犯罪なのだが、観客は突然悪行の数々をダイジェスト版で見せられる。これは須藤に会いに行く前の記者の状況と同じで、後に記者の調査によって詳しい状況が判明し、その背後に「先生」と呼ばれる男(リリー・フランキー)が存在することが明らかになる。記者は死刑囚と協力し上申書を提出し、未だ娑婆でのうのうと暮らしている先生を追い詰めていく。
原作は未読だが、この映画は原作の事件のエピソードとは別に、雑誌記者である藤井(山田孝之)の存在が加えられている。そこが映画『凶悪』の相対的にいい部分だとは思う。というのは、事件のエピソードだけでは、物語としてもたないからだ。
「ぶっこんじゃう」という言葉の正しい意味は知らないけれど、焼却炉に人を放り込んでみたり、簀巻き状態の人を川に投げ込んだりと、あまり愉快な言葉でないことは明らかで、須藤がそんな言葉を吐く場所には決して居合わせたくないし、そんな凶暴な須藤をうまく利用して、老人を金に変える錬金術師である先生にも、その眼鏡の奥の冷ややかな目には見据えられたくない。後半で事件の共犯者がたまたま事故に遭って死んでしまうのも現実に起きたことのようだし、とにかく描かれていることの凄さには目を疑うほかない。
あくまで現実をモデルに描いているのだが、そこに物語にするほどの深みはない。彼らは一種のモンスターであり、ジェイソンが人を襲う程度の理由しか持ち合わせていないからだ。子どもや女には優しく、弟分のことを常に気をかける須藤の存在にはリアリティもあるのだが、同時に気に入らなくなると何でも「ぶっこんじゃう」存在でもあり、結局信頼していた先生にも最後は牙を向くわけで、その存在はリアルではあるかもしれないが、無茶苦茶すぎるだけで面白みにも欠ける。つまりそこからは映画にするほどの物語性など皆無なのであって、そのために雑誌記者の存在が必要だったように思えたのだ。
もちろん物語なんてなくてもいいのだが、その場合はその欠如を補うような別の何かが必要だろう。『凶悪』は、事件の猟奇性から園子温の『冷たい熱帯魚』を連想させる。園作品のなかで『冷たい熱帯魚』を高く評価するものではないが、というのはこの作品も異常な事件という題材に引きずられすぎていると思えるからだが、それでも『冷たい熱帯魚』では事件の描写に圧倒的な熱量を感じて目を離すことができなかった。『凶悪』にはそうしたものが足りないのか、事件の描写を冷めた目で観てしまっていた。
記者の藤井が先生の事務所に辿り着いた場面から、この映画は事件の渦中に移行していく。このスムーズな過去への移行は素晴らしいし、記者が目撃してしまう先生の絞殺シーンもリアルだったが、96度のウォッカを無理やり飲ませて老人を殺す場面では、その最期の瞬間をスローモーションで処理しているのにちょっと感興をそがれる気がした。また、冒頭のダイジェストは中盤での種明かしの伏線みたいなものだが、経緯を省いて唐突に露悪的な場面が展開するものだから、圧倒されるよりあざといものを感じるだけだった。観客の評判も高い作品だし、ほかの邦画の水準も超えているとは思うのだが、期待値が高かったせいか今ひとつノレなかったというのが正直な感想だ。


事件のエピソードから比べれば、藤井の家庭でのエピソードには派手さはない。アルツハイマーの母親とそれを介護する嫁(池脇千鶴)、藤井は仕事を理由に家庭で進行する事態から目を背ける。追い詰められた嫁はボケた義母に対して暴力を振るうようになっていく。無理やり付け加えられた枠物語であり、その出来も決していいとは言えないのだが、映画が終わってみればそちらのほうが印象に残った。
須藤や先生はいかに現実の存在とはいえ、常識的人間からすれば程遠いモンスターなわけで、それだけでは共感性に乏しい。そこに雑誌記者の藤井の存在が加わることで、凶悪なモンスター的存在をノンフィクションや映画などで垣間見ようとする常識的人間にも潜む凶悪さも明らかになる。
ちなみに藤井はたまたま事件に遭遇してのめり込んでいったわけではない。藤井が登場する場面は、冒頭の須藤の殺人事件の後だ。藤井が被害女性の父と面会するというシーンだが、観客は須藤の事件を追って被害者の父に会いに来たと思うだろう。しかし、この被害女性は冒頭の事件とは別の被害者なのだ。そのあとに藤井が出版社に戻ると、初めて須藤からの手紙を渡されるからだ。観客をミスリードするような編集になっているが、ここで理解されるのは、藤井という記者はもとから猟奇的な事件に惹かれているということだ。上司からは芸能人のゴシップ記事を求められるが、雑誌の売り上げに貢献するような仕事には興味はなく、藤井の何かしらの性なのか、凶悪な犯罪に惹かれている。つまり藤井は自ら凶悪な事件を求めていたのだ。
もちろんそれは“正義”という仮面を被ってはいるが、犯罪者を許さないという“正義”と凶悪なものに惹かれる性は切り離すことはできない。最後にそれを先生に見透かされる。先生が去ったあとに面会室に残される藤井の姿は、どちらが囚われの身になっているのか怪しくなる。先生が「おれを殺したいと一番思ってるのは」と指差すのは、藤井の存在を越えてスクリーンを見つめているわれわれ観客にも向けられている。
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