是枝裕和監督 『そして父になる』 福山雅治という存在に泣かされる?
『誰も知らない』の是枝裕和監督作品。出演は福山雅治、尾野真千子、真木よう子、リリー・フランキーなど。カンヌ映画祭審査員特別賞を受賞した作品。すでにスピルバーグのドリームワークスがリメークするのも決定している。

是枝裕和はテレビのドキュメンタリーから出発した人だ。テレビという媒体では、たまたま番組を目にした視聴者をも引き込むような番組作りの必要があるだろう。そうした経験からかはわからないが、是枝作品には、観客それぞれに考えさせるような問題が提起されることが多い。
たとえば『ワンダフルライフ』では“一番大切な思い出”が問いかけられ、『奇跡』では“自分が望む奇跡”が問いかけられた。この『そして父になる』も、観客はそこで提起される問題を、自分に引き付けて考えざるを得ないだろう。
この映画では「子どもの取り違え」が題材とされる。主人公の野々宮良多(福山雅治)と妻のみどり(尾野真千子)は、これまで6年間育ててきた慶多が自分たちの子どもではないことを知らされることになる。
「血のつながりか、共に過ごした時間か」。事件の渦中にある2つの家族は、そうした選択を迫られることになる。“選択”とは記したが、実際のこういうケースでは、ほぼ100%で「血のつながり」が選ばれることになるようだ。だから選択の余地はないのかもしれないのだが、「共に過ごした時間」も簡単には捨てることのできないものだろう。そこにはやはり葛藤が生じ、ドラマが生まれる。そして観客は家族というものを改めて考え直すことになるだろう。
先の言葉は、通常あり得ない事件のため生じた通常あり得ない葛藤だが、教育心理学の知見では、人の個性をつくりあげるのは「遺伝か、環境か」という論点がある。もちろんどちらも重要な要素に違いない。この映画でも、慶多は育ての父親であった良多に似ずに、人にやさしい部分を遺伝的に持っているし、良多の本当の息子である琉晴は生育環境のせいでしつけもなっていないし、ストローを噛んで潰してしまうところは育ての親の癖そのものだ。だから「遺伝か、環境か」というのは、どちらとも容易には言いかねる。(*1)
どちらにしても本当の子どもを自分の手元に置きたい気持ちは当然だし、それまで築いてきた情をまったくなしにすることもできない。選択のしようがないのだ。この映画でもはっきりとした決断の瞬間はない。ふたりの子どもを一時的に交換するところからスタートし、ある日からそれが固定的なものになるのだが、子どもに取り違えの事実を説明することもないし、親たちが子どもの交換を自分たちの4人の決定として認めるようなシーンもない。頭で考える良多は「なるべく早いほうがいい」と言うのだが、ほかの3人はやさしさゆえに情に流され、うやむやのままにしている。また、良多は父親の言葉や、常識的考えに流されているとも言える。とにかく正しい答えなどないわけで、そうした意味でこの作品は観客に問いかけるものがあるのだ。

『そして父になる』には4人の親が登場するが、やはり主役は福山雅治だ。『そして父になる』というタイトルの主語は、当然リリー・フランキー演じる雄大ではなく、福山=良多なのだ。雑誌「CUT」に掲載されたインタビューによると、この映画はもともと福山主演というのが先にあって、いくつかの題材のなかから福山自身がこの題材を選んだのだとか。是枝監督は福山を主役にして脚本をあて書きしたのだ。
映画の最初のほうでは、リリーがごく自然に電気屋のオヤジになりきっているのに対し、福山はCMやテレビで見る福山のイメージそのものだ。東京タワーが見えるモデルルームみたいなタワーマンションという、いかにもスノッブな場所で、福山が気取った台詞を吐くものだから少々唖然とするかもしれない。しかし、映画を観終わってから考えれば、これも是枝監督の術中にはまっていたということだと思う。良多は福山のイメージをうまく利用した主人公なのであり、そんな福山的存在が事件によってどんなふうに苦しみ、変わっていくかが描かれるのだ。本当の主題は子どもの取り違えという事件よりも、こちらにあるのかもしれない。
タレント福山雅治はかなりの二枚目で、十人並み以上の成功を手にしている。同様に、彼が演じる良多も、やはり二枚目で成功を手にしている。そして福山も良多もどこか嫌な奴なのだ。嫌な奴というのは、誰もが福山みたいな存在になれるわけではないと嫉妬させる奴という意味だ。ちなみに事件の原因は、福山たち夫婦があまりに幸せそうに見えたという、看護婦の悪意によるものだった。事件のもう一方の当事者であるリリーからは「負けたことない奴ってのは、ほんとに人の気持ちがわからないんだな」と小突かれる。そのくらい福山は嫌な奴なのだ。(*2)
福山の嫌な部分はそれだけではない。どこか冷たくてあまりに理知的に事を運びすぎ、金や弁護士の力で何でも解決しようとする。そういった鼻持ちならない性格は成功を掴むために遮二無二頑張ってきたということでもあるが、遺伝によるものも大きいだろう。先ごろ亡くなった夏八木勲が演じる父の存在が効いている。出番は少ないが、どこか近寄りがたい雰囲気を持つ父親の存在は、6年間育ててきた息子(慶多)に対する福山の接し方にも影響を与えている。そして、ここが重要だが、福山が抱く父に対しての嫌悪感は、同時に自分の欠点だとも彼は気づきはじめているのだ。
福山は勝ち組だと自ら信じていたはずだったのに、それを事件によって打ち砕かれ、少しずつ変らざるを得ない。最後には息子に向かって自分を「できそこない」だと語るが、自らの非を認めたことで、福山=良多は本当に父になっていくのだろうと思う。そしてこの映画が泣かせるのは、福山が嫌な奴だったように、われわれ観客も同じように嫌な部分を抱えているからじゃないだろうか。(*3)映画のなかで福山がそれに気づいていくように、観客もそれに気づかされるのだ。
事件の発端となった看護婦と福山が会う場面や、その後、福山が義母に電話する場面などに泣かされる。ここで是枝監督は、福山に何か感動的なことを言わせるわけではないのだが、それまでの福山の姿を追ってきた観客には彼の言いたいことが痛いほどわかるだろう。福山雅治という存在に泣かされるとは思わなかったのだが、くやしいのだけれど終わってみたら映画のなかの彼に共感していたみたいだ。
(*1) 環境閾値説という考え方によれば、環境がある一定の水準に達していれば、遺伝的要因が顕在化する可能性が高いのだとか。だからどうしても「血のつながり」は捨てられないのだろうか。
(*2) 「やっぱり、そういうことか」、福山は取り違えの事実を知ったときにつぶやく。これも福山の嫌なところであり、後に妻とのいさかいの原因となるのだが、ストリンドベリの戯曲『父』ではないが、男は子どもを自分のものとは信じられないのかもしれない。母親と違い、自分で子どもを産むわけではないから。ストリンドベリの場合は妻への不信や狂気がそうさせ、福山の場合は取り違えという事件よりも、自らへの過信と子どもへの高い期待がそうさせたのかもしれない。
(*3) どこかのブログで拝見したのだが、是枝作品で“良多”という名前の主人公は、この作品のほかにもいくつかあるのだそうだ。そして“良多”という名前の主人公は、是枝監督自身に近しい存在であるのだという。だからこの福山=良多という存在も、タレント福山という絶対的な勝ち組のイメージではなく、嫌な部分を抱えた人間という意味で、われわれ観客にも近しい存在でもあるのかもしれない。もちろん是枝監督自身もどう考えても勝ち組なんだけれど……。

是枝裕和の作品
福山雅治の作品

是枝裕和はテレビのドキュメンタリーから出発した人だ。テレビという媒体では、たまたま番組を目にした視聴者をも引き込むような番組作りの必要があるだろう。そうした経験からかはわからないが、是枝作品には、観客それぞれに考えさせるような問題が提起されることが多い。
たとえば『ワンダフルライフ』では“一番大切な思い出”が問いかけられ、『奇跡』では“自分が望む奇跡”が問いかけられた。この『そして父になる』も、観客はそこで提起される問題を、自分に引き付けて考えざるを得ないだろう。
この映画では「子どもの取り違え」が題材とされる。主人公の野々宮良多(福山雅治)と妻のみどり(尾野真千子)は、これまで6年間育ててきた慶多が自分たちの子どもではないことを知らされることになる。
「血のつながりか、共に過ごした時間か」。事件の渦中にある2つの家族は、そうした選択を迫られることになる。“選択”とは記したが、実際のこういうケースでは、ほぼ100%で「血のつながり」が選ばれることになるようだ。だから選択の余地はないのかもしれないのだが、「共に過ごした時間」も簡単には捨てることのできないものだろう。そこにはやはり葛藤が生じ、ドラマが生まれる。そして観客は家族というものを改めて考え直すことになるだろう。
先の言葉は、通常あり得ない事件のため生じた通常あり得ない葛藤だが、教育心理学の知見では、人の個性をつくりあげるのは「遺伝か、環境か」という論点がある。もちろんどちらも重要な要素に違いない。この映画でも、慶多は育ての父親であった良多に似ずに、人にやさしい部分を遺伝的に持っているし、良多の本当の息子である琉晴は生育環境のせいでしつけもなっていないし、ストローを噛んで潰してしまうところは育ての親の癖そのものだ。だから「遺伝か、環境か」というのは、どちらとも容易には言いかねる。(*1)
どちらにしても本当の子どもを自分の手元に置きたい気持ちは当然だし、それまで築いてきた情をまったくなしにすることもできない。選択のしようがないのだ。この映画でもはっきりとした決断の瞬間はない。ふたりの子どもを一時的に交換するところからスタートし、ある日からそれが固定的なものになるのだが、子どもに取り違えの事実を説明することもないし、親たちが子どもの交換を自分たちの4人の決定として認めるようなシーンもない。頭で考える良多は「なるべく早いほうがいい」と言うのだが、ほかの3人はやさしさゆえに情に流され、うやむやのままにしている。また、良多は父親の言葉や、常識的考えに流されているとも言える。とにかく正しい答えなどないわけで、そうした意味でこの作品は観客に問いかけるものがあるのだ。

『そして父になる』には4人の親が登場するが、やはり主役は福山雅治だ。『そして父になる』というタイトルの主語は、当然リリー・フランキー演じる雄大ではなく、福山=良多なのだ。雑誌「CUT」に掲載されたインタビューによると、この映画はもともと福山主演というのが先にあって、いくつかの題材のなかから福山自身がこの題材を選んだのだとか。是枝監督は福山を主役にして脚本をあて書きしたのだ。
映画の最初のほうでは、リリーがごく自然に電気屋のオヤジになりきっているのに対し、福山はCMやテレビで見る福山のイメージそのものだ。東京タワーが見えるモデルルームみたいなタワーマンションという、いかにもスノッブな場所で、福山が気取った台詞を吐くものだから少々唖然とするかもしれない。しかし、映画を観終わってから考えれば、これも是枝監督の術中にはまっていたということだと思う。良多は福山のイメージをうまく利用した主人公なのであり、そんな福山的存在が事件によってどんなふうに苦しみ、変わっていくかが描かれるのだ。本当の主題は子どもの取り違えという事件よりも、こちらにあるのかもしれない。
タレント福山雅治はかなりの二枚目で、十人並み以上の成功を手にしている。同様に、彼が演じる良多も、やはり二枚目で成功を手にしている。そして福山も良多もどこか嫌な奴なのだ。嫌な奴というのは、誰もが福山みたいな存在になれるわけではないと嫉妬させる奴という意味だ。ちなみに事件の原因は、福山たち夫婦があまりに幸せそうに見えたという、看護婦の悪意によるものだった。事件のもう一方の当事者であるリリーからは「負けたことない奴ってのは、ほんとに人の気持ちがわからないんだな」と小突かれる。そのくらい福山は嫌な奴なのだ。(*2)
福山の嫌な部分はそれだけではない。どこか冷たくてあまりに理知的に事を運びすぎ、金や弁護士の力で何でも解決しようとする。そういった鼻持ちならない性格は成功を掴むために遮二無二頑張ってきたということでもあるが、遺伝によるものも大きいだろう。先ごろ亡くなった夏八木勲が演じる父の存在が効いている。出番は少ないが、どこか近寄りがたい雰囲気を持つ父親の存在は、6年間育ててきた息子(慶多)に対する福山の接し方にも影響を与えている。そして、ここが重要だが、福山が抱く父に対しての嫌悪感は、同時に自分の欠点だとも彼は気づきはじめているのだ。
福山は勝ち組だと自ら信じていたはずだったのに、それを事件によって打ち砕かれ、少しずつ変らざるを得ない。最後には息子に向かって自分を「できそこない」だと語るが、自らの非を認めたことで、福山=良多は本当に父になっていくのだろうと思う。そしてこの映画が泣かせるのは、福山が嫌な奴だったように、われわれ観客も同じように嫌な部分を抱えているからじゃないだろうか。(*3)映画のなかで福山がそれに気づいていくように、観客もそれに気づかされるのだ。
事件の発端となった看護婦と福山が会う場面や、その後、福山が義母に電話する場面などに泣かされる。ここで是枝監督は、福山に何か感動的なことを言わせるわけではないのだが、それまでの福山の姿を追ってきた観客には彼の言いたいことが痛いほどわかるだろう。福山雅治という存在に泣かされるとは思わなかったのだが、くやしいのだけれど終わってみたら映画のなかの彼に共感していたみたいだ。
(*1) 環境閾値説という考え方によれば、環境がある一定の水準に達していれば、遺伝的要因が顕在化する可能性が高いのだとか。だからどうしても「血のつながり」は捨てられないのだろうか。
(*2) 「やっぱり、そういうことか」、福山は取り違えの事実を知ったときにつぶやく。これも福山の嫌なところであり、後に妻とのいさかいの原因となるのだが、ストリンドベリの戯曲『父』ではないが、男は子どもを自分のものとは信じられないのかもしれない。母親と違い、自分で子どもを産むわけではないから。ストリンドベリの場合は妻への不信や狂気がそうさせ、福山の場合は取り違えという事件よりも、自らへの過信と子どもへの高い期待がそうさせたのかもしれない。
(*3) どこかのブログで拝見したのだが、是枝作品で“良多”という名前の主人公は、この作品のほかにもいくつかあるのだそうだ。そして“良多”という名前の主人公は、是枝監督自身に近しい存在であるのだという。だからこの福山=良多という存在も、タレント福山という絶対的な勝ち組のイメージではなく、嫌な部分を抱えた人間という意味で、われわれ観客にも近しい存在でもあるのかもしれない。もちろん是枝監督自身もどう考えても勝ち組なんだけれど……。
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