イ・ユンギ監督 『愛してる、愛してない』 男と女が別れるまでの時間
以前このブログでも取り上げた『素晴らしい一日』のイ・ユンギ監督の最新作。今月3日にDVDが発売となった。
韓国の監督であるイ・ユンギは、『素晴らしき一日』でもそうだったが、日本の小説にご執心のようだ。原作は『つやのよる』などの井上荒野の短編「帰れない猫」(ハルキ文庫『ナナイロノコイ』
所収)。出演はヒョンビン、イム・スジョン。

冒頭から約10分間の長回し。『素晴らしい一日』のチラシと同様の構図で、カメラは車のなかにいる主人公たちをフロントガラス越しに捉えている。日常的な何気ない会話。女が旅行のため空港に向かうのを、男が送りに行くものらしい。カメラはフィックスしたままふたりの関係を見せる。この時間は結構長い。フロントガラスに幽かに映り込んだ白い雲がゆっくりと後に流れていくのがわかるほど、ただただカメラはふたりを映し続ける。この長回しで何が描かれるかと言えば、女が別れを切り出すまでの時間だろう。通常、そんな場面では人は突然物事を切り出したりしないものだ。何かしらの前置きをしたり、雰囲気を醸し出したりして、きっかけを待っているものだ。『愛してる、愛してない』は、この冒頭によく表れているように、そんな何かが起きる前の予兆に満ちた時間を描いているようだ。
『素晴らしい一日』では、険しい表情だった女主人公が最後にこっそりと笑みを浮かべる。その変化は観終わった後にある種の充実感を生んだかもしれないが、『愛してる、愛してない』では同じような充実感は望み薄だろう。それは男のキャラクターにも一因があるかもしれない。『素晴らしい一日』ではお調子者の憎めない奴だが、『愛してる、愛してない』ではやさしいのかもしれないが幾分退屈な男だからだ(ヒョンビンはハ・ジョンウと比べると二枚目なのだけれど)。
私はこの映画が退屈だとは思わないが、そう感じる人もいるかもしれない。そう取られてもおかしくないような微妙で複雑な感情を描いているからだ。そして、この映画でふたりが変化することもないだろう。家の外は未曾有の雨が降り続け、迷い込んだ猫同様にどこにも行けそうにない。ふたりは家に閉じ込められたまま、夫婦として最後の一日となるはずの時間を過ごすことになる。冒頭の長回しが別れを切り出すまでを描いたとすれば、タイトルが出た後の約1時間半は、何か起きそうな予兆に支配されたふたりの最後の時間をじっくりと見せていく。

男の口癖は「大丈夫」という言葉。韓国の言葉では「ケンチャナヨ」という発音らしく、韓国映画を観ているとよく聞こえてくるフレーズだ。この言葉はごく日常的なものだが、この映画では(原作でも)微妙なニュアンスで用いられている。(*1)男は何事にも「大丈夫」と言って女を安心させるようにも見えるが、一方で「大丈夫」という言葉ですべてを済ましてしまい、その場をやり過ごそうとしているようでもある。女はそんな男に「あなた、いい人ね」などと嫌味とも取れることを言ったりもするのだが、本当に言いたいことは違うようだ。その日の夕食後には、女は家を出て愛人のもとへと去ることになっているのだが、荷造りは一向に進んでいない。自分で決めた別れのはずなのに、女は男から引き止める言葉を待っているようにも見えるのだ。
結局、女は最後まで言いたいことを言うこともないし、男は玉ねぎを切ってちょっと涙を見せるなんてベタなこともするのだが、やはり平静を装って事態を見守り、荷造りを手伝ったりする。もし何かが起きるとすれば映画に描かれた時間の後に起きるということになるのだろうが、監督のイ・ユンギはそうした出来事(=変化)そのものは描かずに、出来事を生じさせることになる(あるいは出来事自体を回避するかもしれないが)意識の流れを推測させるようなものを、ごく日常的な場面に寄り添って繊細に描いている。
(*1) ちなみに、映画ではふたりは一度は別れてもヨリを戻すこともあり得る気がするが、原作では女がキレて決定的に関係をぶち壊しそうにも思える。「大丈夫」という言葉の捉え方の違いかもしれない。

韓国の監督であるイ・ユンギは、『素晴らしき一日』でもそうだったが、日本の小説にご執心のようだ。原作は『つやのよる』などの井上荒野の短編「帰れない猫」(ハルキ文庫『ナナイロノコイ』


冒頭から約10分間の長回し。『素晴らしい一日』のチラシと同様の構図で、カメラは車のなかにいる主人公たちをフロントガラス越しに捉えている。日常的な何気ない会話。女が旅行のため空港に向かうのを、男が送りに行くものらしい。カメラはフィックスしたままふたりの関係を見せる。この時間は結構長い。フロントガラスに幽かに映り込んだ白い雲がゆっくりと後に流れていくのがわかるほど、ただただカメラはふたりを映し続ける。この長回しで何が描かれるかと言えば、女が別れを切り出すまでの時間だろう。通常、そんな場面では人は突然物事を切り出したりしないものだ。何かしらの前置きをしたり、雰囲気を醸し出したりして、きっかけを待っているものだ。『愛してる、愛してない』は、この冒頭によく表れているように、そんな何かが起きる前の予兆に満ちた時間を描いているようだ。
『素晴らしい一日』では、険しい表情だった女主人公が最後にこっそりと笑みを浮かべる。その変化は観終わった後にある種の充実感を生んだかもしれないが、『愛してる、愛してない』では同じような充実感は望み薄だろう。それは男のキャラクターにも一因があるかもしれない。『素晴らしい一日』ではお調子者の憎めない奴だが、『愛してる、愛してない』ではやさしいのかもしれないが幾分退屈な男だからだ(ヒョンビンはハ・ジョンウと比べると二枚目なのだけれど)。
私はこの映画が退屈だとは思わないが、そう感じる人もいるかもしれない。そう取られてもおかしくないような微妙で複雑な感情を描いているからだ。そして、この映画でふたりが変化することもないだろう。家の外は未曾有の雨が降り続け、迷い込んだ猫同様にどこにも行けそうにない。ふたりは家に閉じ込められたまま、夫婦として最後の一日となるはずの時間を過ごすことになる。冒頭の長回しが別れを切り出すまでを描いたとすれば、タイトルが出た後の約1時間半は、何か起きそうな予兆に支配されたふたりの最後の時間をじっくりと見せていく。

男の口癖は「大丈夫」という言葉。韓国の言葉では「ケンチャナヨ」という発音らしく、韓国映画を観ているとよく聞こえてくるフレーズだ。この言葉はごく日常的なものだが、この映画では(原作でも)微妙なニュアンスで用いられている。(*1)男は何事にも「大丈夫」と言って女を安心させるようにも見えるが、一方で「大丈夫」という言葉ですべてを済ましてしまい、その場をやり過ごそうとしているようでもある。女はそんな男に「あなた、いい人ね」などと嫌味とも取れることを言ったりもするのだが、本当に言いたいことは違うようだ。その日の夕食後には、女は家を出て愛人のもとへと去ることになっているのだが、荷造りは一向に進んでいない。自分で決めた別れのはずなのに、女は男から引き止める言葉を待っているようにも見えるのだ。
結局、女は最後まで言いたいことを言うこともないし、男は玉ねぎを切ってちょっと涙を見せるなんてベタなこともするのだが、やはり平静を装って事態を見守り、荷造りを手伝ったりする。もし何かが起きるとすれば映画に描かれた時間の後に起きるということになるのだろうが、監督のイ・ユンギはそうした出来事(=変化)そのものは描かずに、出来事を生じさせることになる(あるいは出来事自体を回避するかもしれないが)意識の流れを推測させるようなものを、ごく日常的な場面に寄り添って繊細に描いている。
(*1) ちなみに、映画ではふたりは一度は別れてもヨリを戻すこともあり得る気がするが、原作では女がキレて決定的に関係をぶち壊しそうにも思える。「大丈夫」という言葉の捉え方の違いかもしれない。
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