テレンス・マリック監督 『トゥ・ザ・ワンダー』 “祈り”としての映画
テレンス・マリックは“生きる伝説”などと言われる。20年もの沈黙の前に撮った『地獄の逃避行』『天国の日々』の2作品が決定的なインパクトを残していたからだ。1998年の『シン・レッド・ライン』で映画界に復帰を果たし、この作品は第6作目。
出演はベン・アフレック、オルガ・キュリレンコ、レイチェル・マクアダムス、ハビエル・バルデム。撮影は『天国の口、終りの楽園』『ツリー・オブ・ライフ』のエマニュエル・ルベツキ。アメリカの大地もモン・サン=ミシェルも美しいが、オルガ・キュリレンコがとてもきれいに撮られている。『オブリビオン』では、ほかのキャラクターに泣き所をさらわれたオルガ・キュリレンコだったが、この映画は寡黙すぎて印象が薄いベン・アフレックよりも彼女の映画になっている。

公式サイトでは「愛の移ろい」などと要約しているが、物語はほとんどない。ニール(ベン・アフレック)はマリーナ(オルガ・キュリレンコ)とフランスで恋に落ち、アメリカへと呼び寄せるものの結局は別れる。しばらく友人のジェーン(レイチェル・マクアダムス)とも付き合ってみるものの、その後やはりマリーナを呼び戻すことになるが……。おおよそこんな筋があることはわかる。それでもこの映画では登場人物たちが会話するシーンもまれだから、なんとなくわかるという程度だ。それぞれのエピソードは現在進行形というよりは、過去から振り返ったイメージみたいなもので成り立っているからだ。描かれていることは具体的だが、説明的なものがなく唐突な断片で構成されるから抽象的にも感じられる。
前作の『ツリー・オブ・ライフ』は、天地創造とか宇宙の誕生みたいな部分が唖然とさせたが、地上に戻ればそれなりにわかりやすい物語があった。ちょっと頑固者の父親のせいで家族がきついのもわかるし、子どもに対して語りかけるような場面も丁寧に描かれていた。それでもやはり『ツリー・オブ・ライフ』は難解な部分がある映画だと思うが、『トゥ・ザ・ワンダー』は『ツリー・オブ・ライフ』以上に観客を困惑させる映画かもしれない。
この映画が物語の体を成していないのは、出会いにしても別れにしても、「出会いの高揚感」あるいは「関係が崩れつつあるときの絶望感」みたいなもののイメージによって表現されていくからだ。たとえば幸福の絶頂にあるイメージとすれば、アメリカの雄大な草原の上をくるくると回りながらふたりが戯れる、そんな映像が美しい音楽とともに流れていく。逆の絶望的な場面でも同様だ。ニールとマリーナは結婚するものの、うまくいかずカトリック教会の神父(ハビエル・バルデム)に救いを求めるが、そこでも対話がなされるわけではなく、ふたりが苦しんでいるというイメージがあるだけだ。
対話はほとんどないと記してきたが、モノローグはある。登場人物それぞれがイメージの集積である映像をバックに独り言をつぶやく。しかもこのモノローグは『天国の日々』における少女の状況説明的なナレーションとは異なり、「何が真実なの?」「なぜふたりの愛は永遠でないの?」「なぜ愛は憎しみに変わるの?」という問いなのだ。監督・脚本のテレンス・マリックは、『トゥ・ザ・ワンダー』で何を表現しているのか?

重要な登場人物のひとりである神父のモノローグを参考にするとわかりやすいと思う。神父も常に心のなかでつぶやいている。「信者をどこに導くべきか?」「なぜあなたは姿を現さないのか?」など。もちろん、ここでの“あなた”とは神のことである。神父のつぶやきはすべて神に向けられている。つまり“神との対話”なのだ。
登場人物たちのモノローグも同様なのだと思う。「なぜふたりの愛は永遠でないの?」といった問いは、愛した相手に向けられているわけではない。神に対して向けられているのだ。登場人物たちもそれぞれに“神との対話”に勤しんでいるのだ。
では、“神との対話”とは何だろうか?
『ふしぎなキリスト教』(橋爪大三郎、大澤真幸の共著)ではこんなふうに説明されている。(*1)一神教では世界のすべての出来事の背後に、唯一の原因があると考える。その原因とはGODである。GODは人格神であり、言葉を用いる存在だ。日本のような多神教の世界では、自然現象のそれぞれに神がいると考えるために、唯一の責任者のような存在はいない(一神教ではGODが唯一の責任者だ)。また仏教は因果法則によって世界を説明するが、法則には人格性がないから、法則とは対話できない(ブッダとは対話できたとしても)。ひるがえって一神教の場合には、GODとの対話が成り立つ。先ほど挙げたような人生における疑問を訴えてもいいし、日々の感謝をしても構わないが、GODへの語りかけを繰り返す。(*2)こんなGODとの不断のコミュニケーションこそが、“祈り”と言われる。
だから『トゥ・ザ・ワンダー』は、テレンス・マリックの“神との対話”を映像化したものであり、“祈り”を表現したものなのだと思う。映画評論家の川口敦子によれば『ツリー・オブ・ライフ』の弟の死や、『トゥ・ザ・ワンダー』に描かれている出会いと別れは、テレンス・マリックの伝記的事実に拠っているのだとか(『キネマ旬報』8月下旬号より)。そうであるとすればますますこの映画がごく個人的な“祈り”としてあるということは明らかだと思う。
ただ残念なことに、映画館の観客は他人の“祈り”にそれほどの関心があるとは思えないのだ。ちょっと観客が置きざりにされた感は否めないような……。なんだかんだ言っても、すでに撮影を終えているという3本の新作も観てしまうとは思うが。
(*1) 『ふしぎなキリスト教』は批判も多い本だが、わかりやすくてためになる部分もある。“神との対話”について論じているのは橋爪大三郎。
(*2) 一神教のなかでもキリスト教はユダヤ教やイスラム教と比べれば戒律が厳しくない。キリストが説いたのは“隣人愛”といった精神論みたいなものだから、明確な指針には程遠い。だからより一層“神との対話”というものが重要になるのかもしれない。
テレンス・マリックの作品

出演はベン・アフレック、オルガ・キュリレンコ、レイチェル・マクアダムス、ハビエル・バルデム。撮影は『天国の口、終りの楽園』『ツリー・オブ・ライフ』のエマニュエル・ルベツキ。アメリカの大地もモン・サン=ミシェルも美しいが、オルガ・キュリレンコがとてもきれいに撮られている。『オブリビオン』では、ほかのキャラクターに泣き所をさらわれたオルガ・キュリレンコだったが、この映画は寡黙すぎて印象が薄いベン・アフレックよりも彼女の映画になっている。

公式サイトでは「愛の移ろい」などと要約しているが、物語はほとんどない。ニール(ベン・アフレック)はマリーナ(オルガ・キュリレンコ)とフランスで恋に落ち、アメリカへと呼び寄せるものの結局は別れる。しばらく友人のジェーン(レイチェル・マクアダムス)とも付き合ってみるものの、その後やはりマリーナを呼び戻すことになるが……。おおよそこんな筋があることはわかる。それでもこの映画では登場人物たちが会話するシーンもまれだから、なんとなくわかるという程度だ。それぞれのエピソードは現在進行形というよりは、過去から振り返ったイメージみたいなもので成り立っているからだ。描かれていることは具体的だが、説明的なものがなく唐突な断片で構成されるから抽象的にも感じられる。
前作の『ツリー・オブ・ライフ』は、天地創造とか宇宙の誕生みたいな部分が唖然とさせたが、地上に戻ればそれなりにわかりやすい物語があった。ちょっと頑固者の父親のせいで家族がきついのもわかるし、子どもに対して語りかけるような場面も丁寧に描かれていた。それでもやはり『ツリー・オブ・ライフ』は難解な部分がある映画だと思うが、『トゥ・ザ・ワンダー』は『ツリー・オブ・ライフ』以上に観客を困惑させる映画かもしれない。
この映画が物語の体を成していないのは、出会いにしても別れにしても、「出会いの高揚感」あるいは「関係が崩れつつあるときの絶望感」みたいなもののイメージによって表現されていくからだ。たとえば幸福の絶頂にあるイメージとすれば、アメリカの雄大な草原の上をくるくると回りながらふたりが戯れる、そんな映像が美しい音楽とともに流れていく。逆の絶望的な場面でも同様だ。ニールとマリーナは結婚するものの、うまくいかずカトリック教会の神父(ハビエル・バルデム)に救いを求めるが、そこでも対話がなされるわけではなく、ふたりが苦しんでいるというイメージがあるだけだ。
対話はほとんどないと記してきたが、モノローグはある。登場人物それぞれがイメージの集積である映像をバックに独り言をつぶやく。しかもこのモノローグは『天国の日々』における少女の状況説明的なナレーションとは異なり、「何が真実なの?」「なぜふたりの愛は永遠でないの?」「なぜ愛は憎しみに変わるの?」という問いなのだ。監督・脚本のテレンス・マリックは、『トゥ・ザ・ワンダー』で何を表現しているのか?

重要な登場人物のひとりである神父のモノローグを参考にするとわかりやすいと思う。神父も常に心のなかでつぶやいている。「信者をどこに導くべきか?」「なぜあなたは姿を現さないのか?」など。もちろん、ここでの“あなた”とは神のことである。神父のつぶやきはすべて神に向けられている。つまり“神との対話”なのだ。
登場人物たちのモノローグも同様なのだと思う。「なぜふたりの愛は永遠でないの?」といった問いは、愛した相手に向けられているわけではない。神に対して向けられているのだ。登場人物たちもそれぞれに“神との対話”に勤しんでいるのだ。
では、“神との対話”とは何だろうか?
『ふしぎなキリスト教』(橋爪大三郎、大澤真幸の共著)ではこんなふうに説明されている。(*1)一神教では世界のすべての出来事の背後に、唯一の原因があると考える。その原因とはGODである。GODは人格神であり、言葉を用いる存在だ。日本のような多神教の世界では、自然現象のそれぞれに神がいると考えるために、唯一の責任者のような存在はいない(一神教ではGODが唯一の責任者だ)。また仏教は因果法則によって世界を説明するが、法則には人格性がないから、法則とは対話できない(ブッダとは対話できたとしても)。ひるがえって一神教の場合には、GODとの対話が成り立つ。先ほど挙げたような人生における疑問を訴えてもいいし、日々の感謝をしても構わないが、GODへの語りかけを繰り返す。(*2)こんなGODとの不断のコミュニケーションこそが、“祈り”と言われる。
だから『トゥ・ザ・ワンダー』は、テレンス・マリックの“神との対話”を映像化したものであり、“祈り”を表現したものなのだと思う。映画評論家の川口敦子によれば『ツリー・オブ・ライフ』の弟の死や、『トゥ・ザ・ワンダー』に描かれている出会いと別れは、テレンス・マリックの伝記的事実に拠っているのだとか(『キネマ旬報』8月下旬号より)。そうであるとすればますますこの映画がごく個人的な“祈り”としてあるということは明らかだと思う。
ただ残念なことに、映画館の観客は他人の“祈り”にそれほどの関心があるとは思えないのだ。ちょっと観客が置きざりにされた感は否めないような……。なんだかんだ言っても、すでに撮影を終えているという3本の新作も観てしまうとは思うが。
(*1) 『ふしぎなキリスト教』は批判も多い本だが、わかりやすくてためになる部分もある。“神との対話”について論じているのは橋爪大三郎。
(*2) 一神教のなかでもキリスト教はユダヤ教やイスラム教と比べれば戒律が厳しくない。キリストが説いたのは“隣人愛”といった精神論みたいなものだから、明確な指針には程遠い。だからより一層“神との対話”というものが重要になるのかもしれない。
![]() |


- 関連記事
-
- イ・ユンギ監督 『愛してる、愛してない』 男と女が別れるまでの時間
- テレンス・マリック監督 『トゥ・ザ・ワンダー』 “祈り”としての映画
- 『ペーパーボーイ 真夏の引力』 変態たちのひと夏の経験とこの映画のいびつさ
スポンサーサイト
この記事へのコメント: