『嘆きのピエタ』のつづき その他の覚え書き
前回の『嘆きのピエタ』のレビューのつづき。前回に書けなかったことと、前回の補足なども含めて。以下、趣味的な覚え書きです。
ちなみに公開は本日(15日)から。
『嘆きのピエタ』は、キム・ギドク監督の第18作目。残念ながら第17作目の『アーメン』は公開されていないが、この『嘆きのピエタ』はベネチアで金獅子賞を受賞した作品だけに日本でも公開となった。かなり小規模だが……。
※ 以下、前回同様かなりネタばれですのでご注意を!
◆ 「空間についての映画」としてのギドク映画
舞台となるのは、ソウル市内の小さな工場が並ぶ町だ。その中心には清渓川が流れているが、開発が著しく次々と建てられる高層ビルにその川も消えようとしている。そんな町の姿が悲哀をもって綴られる。ガンドが主な仕事場としているのはこの町工場あたりで、債務者となっているのは工場の経営者たちだ。
寂れた町工場が舞台となるからか、『嘆きのピエタ』では極端な色は排除され寒々しく乾いた画面だ。『悲夢』『ブレス』などはけばけばしい色彩感覚で画面がつくられていたが、この映画は『受取人不明』あたりのどこかノスタルジックな雰囲気の映像になっている。
『嘆きのピエタ』でもミソンの息子が葬られるのは清渓川のほとりだ。ギドクの過去作品と同様に、川辺は“死”に近い場所としてある。
◆ 復讐というテーマ
復讐は『リアル・フィクション』にも描かれたが、『嘆きのピエタ』のそれとはちょっと違う。『リアル・フィクション』の復讐は、『鰐』の顔の見えない暴力のように、その対象は明確でなく、逆に言えば手当たり次第だ。浮気をする恋人、理不尽な軍隊の後輩、裏切った友人など、理由はあるものの自分が虐げられているという意識が先にある。これは社会全体が自分の敵だという卑屈な考えによる。卑屈な意識が社会に怒りのはけ口を求めていたのだ。
それに対し『嘆きのピエタ』における復讐する女は明確な相手がいるし、その恨みの原因もはっきりしている。(*1)一方の復讐される側はギドク映画によく登場する孤独な男だが、『リアル・フィクション』のような虐げられる立場ではなく虐げる側に収まっている。復讐される男ガンドの仕事は借金取りであり、これは単にやくざな仕事というよりも資本主義の暗い側面を象徴しているようだ。
ギドクがいつから資本主義に対しての批判を抱くようになったのかは知らないが、『アリラン』のなかでも語られるように、弟子であった『映画は映画だ』の監督チャン・フンがギドクのもとを去ったことが、ギドクには裏切りに思えたようだ。そしてチャン・フンがその後に監督した『義兄弟』『高地戦』のような、ハリウッド的資本投下をする作品を苦々しく思ってもいる。お金ばかりにすべてが支配され、ほかのものがおろそかにされることが耐えられないのだろう。そんな心情が資本主義批判となっている。
そんな経験からか、ギドクの映画の製作方法も変わってきている。以前は日本の会社も資金を出していたが、今回の映画は自己資金のみで製作されているようだ(資金援助を嫌うのは、自由度がなくなるから)。脚本を担当した『プンサンケ』では、キャスト・スタッフがノーギャラだったという美談が語られていた。しかしこれには後段があって、出演料などはないのだが利益に関しては分配される方式になっていたようだ。『プンサンケ』の興行収入がそれほど多かったとは思えないが、少なからぬ金額はそれぞれのキャスト・スタッフに分配されたようだ。
今回の『嘆きのピエタ』もその方式だから、映画がまるっきりこけたりすれば、キャスト・スタッフはまったくのボランティアになることもあり得る。しかしこの映画はそうしたリスクを避けるために、撮影は10日間しかかかっていないとのこと。驚異的な早撮りだ。
(*1) 復讐というテーマからパク・チャヌク映画を想起させる。女の復讐という点では『親切なクムジャさん』、時間をかけた復讐という点では『オールド・ボーイ』。けれどもそこから先はギドク独自の展開だ。
◆ ギドク映画における“死”の捉え方
『アリラン』のパンフレットで語られていることだが、ギドクは『悲夢』を撮影していたころ、“死”は「別の世界に続く神秘のドア」だと考えていた。それはその後否定されるのだが、『嘆きのピエタ』ではどうだろうか。
この作品では何人もの債務者が自殺する。冒頭に登場するミソンの息子もそうだが、借金で逃げ場を失い、ガンドにも追い詰められ死を求める。ガンドが借金取り最後の仕事として向かった債務者も、妙に悟りきってビルから身を投げる。「死ぬことですべてが終わる」と考えたかはわからないが、死ぬこと自体が逃げ場所であり「救い」になっているようにも感じられる。
しかし重点はそちらにはない。これは死に「救い」があるということではなく、人の営為にすぎない資本主義というシステムによって人が殺されていくことを示している。借金取りガンドは資本主義の走狗となって債務者たちを追い詰めるのだ。(*2)
そんなガンドの非道さにも言い分はある。いかに法外な利子とは言え、借りたものは返すのが道義ということだ。ガンドは返さない債務者に責任があるとして容赦しないのだが、反面、債務者を殺すことはしない。「死亡保険金だと後が面倒だ」と言い訳をしているのだが、借金取りの親分は「死亡保険金でも構わない」と語っている。つまりは障害保険金を狙うのはガンドのやり方なのだ。「死んで逃げるのは卑怯」というのがガンドの倫理なのだろう。ガンドは別の場所では、自殺してすでに痛みを感じない債務者の頬に張り手を食らわす。「死んだら終わりか?」、その言葉には絶対に手の届かない場所に逃げ込んだ債務者に対する怒りがこもっている。
“死”を逃げ場所にしていることが許せないのだ。これは“死”=「別の世界に続く神秘のドア」という考えを退けたギドクの思想的展開の反映だろう。そのせいだろうか、『嘆きのピエタ』ではかつてのギドク映画では「救い」となった夢や幻想が登場することもない。そういった逃げ場が失われた極めて現実的な映画なのだ(映画の設定自体はかなり妄想的だが)。
ではガンドとミソンの自殺はどうなのか? それまでの行動と矛盾するようにガンドが自殺に走るのはどういうことか?
ミソンに関して言えば、息子の死に報いるための自殺だった。(*3)ターゲットであるガンドはそれによって絶望して死んだとも言えるから、ミソンの自殺は無駄になってはいないし、息子を喪った辛い現実から目を逸らすための自殺でもない。ガンドに関しても同様に、絶望からこの世を去りたいという逃げの姿勢ではなく、トラックに引き回されるという長く続く痛みを選んだ点で贖罪の想いが感じられる。
『キネマ旬報』(6月上旬号)にはギドクのインタビューが出ていた。ギドクは「神の視点」ということを強調している。宗教色の強い『春夏秋冬そして春』では、最後に山の上に置かれた仏像からの視点で終わる。『悪い男』でも、最後にゴスペルがかかり宗教的なものを感じさせるが、そのラストも海沿いの道を行くトラックの俯瞰だ。『嘆きのピエタ』のラストは、『悪い男』のラストによく似ている。『悪い男』では最後にトラックのテールランプの赤い色が残るが、『嘆きのピエタ』では朝靄のなかに引きずられたガンドの赤くはない血の跡が残されていくのだ。ギドクはこう語る。
「神の視点」から見れば(あるいはメタの視点に立てば)、ガンドとミソンというふたりの物語も、かなり歪んだ形ではあるけれども、映画の題名が示すようなキリストと聖母マリアの物語のような福音と思えなくもない。
(*2) 子どものために親である債務者が障害を求めるというエピソードもある。ガンドはそんな自己犠牲を羨ましく思い、仕事を放棄して借金を許すのだが、金の欲しい債務者は安易に自らの手を傷つけてしまう。親子の愛情にガンドが気づいていく場面でもあるが、生命そのものやその機能にまで値段を付けてしまう資本主義に毒された人間の愚かさも感じられる。
(*3) 実際には、目的を遂げようとしつつも、思わぬ感情に囚われ逡巡するところが『嘆きのピエタ』で最も感動的な場面だ。息子への愛情は揺るぎないが、一方で天涯孤独なガンドにも哀れみを覚え、自殺を躊躇するようでもあった。ここの演出は、ミソンがその揺れる想いをしゃべりすぎたきらいはあるのだが、説明的な分、わかりやすい物語になっている。
◆母親の存在と子宮回帰願望
ギドク作品で母親が重要な役割を果たしたのは『受取人不明』くらいだ(戻ってこない手紙を待ち続ける、混血児チャンググの母親)。父親の存在も『サマリア』があったくらいで、ギドクの映画では家族は未だ本格的なテーマとして取り上げられてはいないとも言える。今回の母親の存在も、結局のところ偽者だったわけだ。
ミソンが母親であるという証拠を示すためにガンドが求めるのはカニバリズムだ。はっきりとは描かれないがバスルームから肉片を持って戻ってきたガンドの足は血だらけになっているから、自分の肉を切り取ったということを示しているのだろう。『受取人不明』でも、自殺してしまった息子の遺骸を取り戻した母親は、息子の肉を食べたと思われる描写がなされている。放心状態のままシーツに包まれた首を大事そうに抱え、口の中では何かをしきりに噛んでいるのだ。
こうした描写は、子どもが母親の身体から生まれたということを感じさせるし、それをもう一度母親の身体に取り戻すことに、ギドクが何かしらの意味を込めているということだろう。母親の側からすれば、一度は我が身を離れたものを取り戻すことになるのかもしれないし、子ども側からすれば自分の肉体が母親のなかに戻るという意味では、子宮回帰願望の変種みたいなものかもしれない。
『嘆きのピエタ』ではガンドは母親を名乗るミソンをレイプするが、これも子宮回帰願望であるのは言うまでもない。この時点ではまだ偽者の母親とは判明していないために、このシーンは近親相姦とも言えるわけで、これでもかというくらいタブーばかり連発している。金獅子賞でもひっそりと公開されるのもむべなるかな。
先日、次回作『メビウス』についての発表がなされたようだ。出演には『鰐』『悪い男』でギドク的キャラクターを演じてきたチョ・ジェヒョンの名前が登場している。久しぶりだ。この作品も近親相姦を題材にしているのだとか。韓国では公開も危ぶまれているというニュースが伝わってきているが果たしてどうなるか?
※ ギドク作品と「救い」に関してはこちらで記しました。
キム・ギドクの作品
ちなみに公開は本日(15日)から。
『嘆きのピエタ』は、キム・ギドク監督の第18作目。残念ながら第17作目の『アーメン』は公開されていないが、この『嘆きのピエタ』はベネチアで金獅子賞を受賞した作品だけに日本でも公開となった。かなり小規模だが……。
※ 以下、前回同様かなりネタばれですのでご注意を!
◆ 「空間についての映画」としてのギドク映画
舞台となるのは、ソウル市内の小さな工場が並ぶ町だ。その中心には清渓川が流れているが、開発が著しく次々と建てられる高層ビルにその川も消えようとしている。そんな町の姿が悲哀をもって綴られる。ガンドが主な仕事場としているのはこの町工場あたりで、債務者となっているのは工場の経営者たちだ。
寂れた町工場が舞台となるからか、『嘆きのピエタ』では極端な色は排除され寒々しく乾いた画面だ。『悲夢』『ブレス』などはけばけばしい色彩感覚で画面がつくられていたが、この映画は『受取人不明』あたりのどこかノスタルジックな雰囲気の映像になっている。
『嘆きのピエタ』でもミソンの息子が葬られるのは清渓川のほとりだ。ギドクの過去作品と同様に、川辺は“死”に近い場所としてある。
◆ 復讐というテーマ
復讐は『リアル・フィクション』にも描かれたが、『嘆きのピエタ』のそれとはちょっと違う。『リアル・フィクション』の復讐は、『鰐』の顔の見えない暴力のように、その対象は明確でなく、逆に言えば手当たり次第だ。浮気をする恋人、理不尽な軍隊の後輩、裏切った友人など、理由はあるものの自分が虐げられているという意識が先にある。これは社会全体が自分の敵だという卑屈な考えによる。卑屈な意識が社会に怒りのはけ口を求めていたのだ。
それに対し『嘆きのピエタ』における復讐する女は明確な相手がいるし、その恨みの原因もはっきりしている。(*1)一方の復讐される側はギドク映画によく登場する孤独な男だが、『リアル・フィクション』のような虐げられる立場ではなく虐げる側に収まっている。復讐される男ガンドの仕事は借金取りであり、これは単にやくざな仕事というよりも資本主義の暗い側面を象徴しているようだ。
ギドクがいつから資本主義に対しての批判を抱くようになったのかは知らないが、『アリラン』のなかでも語られるように、弟子であった『映画は映画だ』の監督チャン・フンがギドクのもとを去ったことが、ギドクには裏切りに思えたようだ。そしてチャン・フンがその後に監督した『義兄弟』『高地戦』のような、ハリウッド的資本投下をする作品を苦々しく思ってもいる。お金ばかりにすべてが支配され、ほかのものがおろそかにされることが耐えられないのだろう。そんな心情が資本主義批判となっている。
そんな経験からか、ギドクの映画の製作方法も変わってきている。以前は日本の会社も資金を出していたが、今回の映画は自己資金のみで製作されているようだ(資金援助を嫌うのは、自由度がなくなるから)。脚本を担当した『プンサンケ』では、キャスト・スタッフがノーギャラだったという美談が語られていた。しかしこれには後段があって、出演料などはないのだが利益に関しては分配される方式になっていたようだ。『プンサンケ』の興行収入がそれほど多かったとは思えないが、少なからぬ金額はそれぞれのキャスト・スタッフに分配されたようだ。
今回の『嘆きのピエタ』もその方式だから、映画がまるっきりこけたりすれば、キャスト・スタッフはまったくのボランティアになることもあり得る。しかしこの映画はそうしたリスクを避けるために、撮影は10日間しかかかっていないとのこと。驚異的な早撮りだ。
(*1) 復讐というテーマからパク・チャヌク映画を想起させる。女の復讐という点では『親切なクムジャさん』、時間をかけた復讐という点では『オールド・ボーイ』。けれどもそこから先はギドク独自の展開だ。
◆ ギドク映画における“死”の捉え方
『アリラン』のパンフレットで語られていることだが、ギドクは『悲夢』を撮影していたころ、“死”は「別の世界に続く神秘のドア」だと考えていた。それはその後否定されるのだが、『嘆きのピエタ』ではどうだろうか。
この作品では何人もの債務者が自殺する。冒頭に登場するミソンの息子もそうだが、借金で逃げ場を失い、ガンドにも追い詰められ死を求める。ガンドが借金取り最後の仕事として向かった債務者も、妙に悟りきってビルから身を投げる。「死ぬことですべてが終わる」と考えたかはわからないが、死ぬこと自体が逃げ場所であり「救い」になっているようにも感じられる。
しかし重点はそちらにはない。これは死に「救い」があるということではなく、人の営為にすぎない資本主義というシステムによって人が殺されていくことを示している。借金取りガンドは資本主義の走狗となって債務者たちを追い詰めるのだ。(*2)
そんなガンドの非道さにも言い分はある。いかに法外な利子とは言え、借りたものは返すのが道義ということだ。ガンドは返さない債務者に責任があるとして容赦しないのだが、反面、債務者を殺すことはしない。「死亡保険金だと後が面倒だ」と言い訳をしているのだが、借金取りの親分は「死亡保険金でも構わない」と語っている。つまりは障害保険金を狙うのはガンドのやり方なのだ。「死んで逃げるのは卑怯」というのがガンドの倫理なのだろう。ガンドは別の場所では、自殺してすでに痛みを感じない債務者の頬に張り手を食らわす。「死んだら終わりか?」、その言葉には絶対に手の届かない場所に逃げ込んだ債務者に対する怒りがこもっている。
“死”を逃げ場所にしていることが許せないのだ。これは“死”=「別の世界に続く神秘のドア」という考えを退けたギドクの思想的展開の反映だろう。そのせいだろうか、『嘆きのピエタ』ではかつてのギドク映画では「救い」となった夢や幻想が登場することもない。そういった逃げ場が失われた極めて現実的な映画なのだ(映画の設定自体はかなり妄想的だが)。
ではガンドとミソンの自殺はどうなのか? それまでの行動と矛盾するようにガンドが自殺に走るのはどういうことか?
ミソンに関して言えば、息子の死に報いるための自殺だった。(*3)ターゲットであるガンドはそれによって絶望して死んだとも言えるから、ミソンの自殺は無駄になってはいないし、息子を喪った辛い現実から目を逸らすための自殺でもない。ガンドに関しても同様に、絶望からこの世を去りたいという逃げの姿勢ではなく、トラックに引き回されるという長く続く痛みを選んだ点で贖罪の想いが感じられる。
『キネマ旬報』(6月上旬号)にはギドクのインタビューが出ていた。ギドクは「神の視点」ということを強調している。宗教色の強い『春夏秋冬そして春』では、最後に山の上に置かれた仏像からの視点で終わる。『悪い男』でも、最後にゴスペルがかかり宗教的なものを感じさせるが、そのラストも海沿いの道を行くトラックの俯瞰だ。『嘆きのピエタ』のラストは、『悪い男』のラストによく似ている。『悪い男』では最後にトラックのテールランプの赤い色が残るが、『嘆きのピエタ』では朝靄のなかに引きずられたガンドの赤くはない血の跡が残されていくのだ。ギドクはこう語る。
「私の作品の終わり方はいつも、人間でない何かが人間を見て、人間を理解しようと努力しているというふうなんですね。」
「神の視点」から見れば(あるいはメタの視点に立てば)、ガンドとミソンというふたりの物語も、かなり歪んだ形ではあるけれども、映画の題名が示すようなキリストと聖母マリアの物語のような福音と思えなくもない。
(*2) 子どものために親である債務者が障害を求めるというエピソードもある。ガンドはそんな自己犠牲を羨ましく思い、仕事を放棄して借金を許すのだが、金の欲しい債務者は安易に自らの手を傷つけてしまう。親子の愛情にガンドが気づいていく場面でもあるが、生命そのものやその機能にまで値段を付けてしまう資本主義に毒された人間の愚かさも感じられる。
(*3) 実際には、目的を遂げようとしつつも、思わぬ感情に囚われ逡巡するところが『嘆きのピエタ』で最も感動的な場面だ。息子への愛情は揺るぎないが、一方で天涯孤独なガンドにも哀れみを覚え、自殺を躊躇するようでもあった。ここの演出は、ミソンがその揺れる想いをしゃべりすぎたきらいはあるのだが、説明的な分、わかりやすい物語になっている。
◆母親の存在と子宮回帰願望
ギドク作品で母親が重要な役割を果たしたのは『受取人不明』くらいだ(戻ってこない手紙を待ち続ける、混血児チャンググの母親)。父親の存在も『サマリア』があったくらいで、ギドクの映画では家族は未だ本格的なテーマとして取り上げられてはいないとも言える。今回の母親の存在も、結局のところ偽者だったわけだ。
ミソンが母親であるという証拠を示すためにガンドが求めるのはカニバリズムだ。はっきりとは描かれないがバスルームから肉片を持って戻ってきたガンドの足は血だらけになっているから、自分の肉を切り取ったということを示しているのだろう。『受取人不明』でも、自殺してしまった息子の遺骸を取り戻した母親は、息子の肉を食べたと思われる描写がなされている。放心状態のままシーツに包まれた首を大事そうに抱え、口の中では何かをしきりに噛んでいるのだ。
こうした描写は、子どもが母親の身体から生まれたということを感じさせるし、それをもう一度母親の身体に取り戻すことに、ギドクが何かしらの意味を込めているということだろう。母親の側からすれば、一度は我が身を離れたものを取り戻すことになるのかもしれないし、子ども側からすれば自分の肉体が母親のなかに戻るという意味では、子宮回帰願望の変種みたいなものかもしれない。
『嘆きのピエタ』ではガンドは母親を名乗るミソンをレイプするが、これも子宮回帰願望であるのは言うまでもない。この時点ではまだ偽者の母親とは判明していないために、このシーンは近親相姦とも言えるわけで、これでもかというくらいタブーばかり連発している。金獅子賞でもひっそりと公開されるのもむべなるかな。
先日、次回作『メビウス』についての発表がなされたようだ。出演には『鰐』『悪い男』でギドク的キャラクターを演じてきたチョ・ジェヒョンの名前が登場している。久しぶりだ。この作品も近親相姦を題材にしているのだとか。韓国では公開も危ぶまれているというニュースが伝わってきているが果たしてどうなるか?
※ ギドク作品と「救い」に関してはこちらで記しました。
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