キム・ギドク 『嘆きのピエタ』 救い主は救われたのか?
前作『アリラン』が3年ぶりのリハビリだとすれば、この『嘆きのピエタ』はギドク節の完全復活と言えるかもしれない。韓国内での批判などを受けてか、一時、自らの突飛な想像力を制限していたようにも思えたキム・ギドクだが、『嘆きのピエタ』ではリミッターを外したように自由な物語を創りあげた。
だから道徳的な物語をお望みの人はよしたほうがいい。見たくないもののオンパレードだからだ。マスターベーションに暴力にレイプ、さらにはカニバリズムめいたシーンも登場する。だがギドク作品のそうした背徳的な物語は、それらを突き抜けた世界を描くために必要な設定にすぎない。その先には意外に純なものが存在するのだ。

主人公ガンドは借金の取立屋。返済能力がない債務者には容赦ない暴力をふるう。障害者にすることで保険会社から金を引き出すのが狙いなのだ。ガンドは冷酷に債務者の手や足をつぶす残虐性の持ち主で、債務者からは“悪魔”呼ばわりされている。そんなガンドの前に母親を名乗る女ミソンが姿を現す。いったいなぜ今ごろ姿を現したのか? 何が目的なのか?
※ 以下、完全にネタばれ! 映画鑑賞後にどうぞ。
※ もう一度、改めて警告! 映画の内容に触れています。観てない人は危険かも。
突然現れた母親が「あなたを捨ててごめんなさい」と赦しを乞うのだが、いかにもあやしい。実はミソンは本当の母親ではない。ガンドが自殺に追い込んだ一人の青年の母親であり、その目的は復讐なのだ。
なぜ復讐をテーマにした作品が、「ピエタ=哀れみ」を描くものになるのか? ミソンは天涯孤独なガンドの母親になりきろうとする。愛する者を喪った悲しみを味わわせるためには、ガンドにも愛する者がいなければならないから。ミソンが本当に母親として認められたとき、真の復讐ができるのだ。復讐とは、その愛する母親=ミソンを奪うということ、つまりは自分を殺すということだ。ミソンは赦しを求めてガンドの前に現れたのに、強い意志を感じさせる表情だ。それは息子を捨てた母親の後悔の念ではなく、息子のために命を捨てる覚悟が表れているからだ。
ミソンが押しかけ女房的に母親になる展開はシュールだ。『悪い女~青い門』のいがみ合うふたりが親友になっていくという調子っぱずれな展開を思わせる。こんな荒唐無稽さもギドクらしい。擬似親子のふたりが仲良く手をつないで街を歩くようになるころ、事件が起きる。ガンドに足を折られた債務者がミソンを人質にとるのだ。「おまえなんか焼き殺してやる」と罵っていたように、ガンドを殺しに来たのだ。ガンドは「母親は悪くない」と必死に守ろうとする。ふたりには信頼関係ができ、復讐のための環境が整う。
ガンドは登場シーンで、半ば寝ながらもマスターベーションに耽っている。これは幼いころからの一人寝で身についてしまった癖みたいなものだ。ミソンはそんな姿のガンドを見て、それを手伝ってやる。母親がマスターベーションを手伝うというおぞましいシーンではあるが、ガンドの孤独さをミソンが感じ取ってしまった重要なシーンでもある。
そして復讐は完遂されることになるわけだが、その際、ミソンは本当の息子に対して謝る。「どうしてこんな気持ちになるんだろう?」と戸惑いながらも、ガンドに対しての哀れみの心情を吐露してしまうのだ。ガンドがしてきたことに対しての恨みは尽きないのだろうが、その孤独さを知り同じ時間を多少なりとも過ごした人間としては、それを単に“悪魔”と呼んで退けることもできないのだ。ミソンはガンドの本当の母親ではないが、母性のような何かがガンドに対する哀れみを抱かせるのだ。

この映画の原題は『pieta』だが、“ピエタ”とはミケランジェロの彫刻にあるように、十字架から降ろされたキリストを抱く聖母マリアが題材だ。つまり『嘆きのピエタ』においては、ガンドはキリストであり、ミソンは聖母マリアなのだ。
キリストは人類の罪を背負って十字架刑に赴いたが、ガンドはキリスト(救い主)とは言えない存在だ。債務者からは“悪魔”と罵られる人間なのだ。けれども自分の罪を贖うために行動した。ガンドは「車で引きずり回して殺してやりたい」という債務者の言葉に自ら従う。贖罪のために自死するのだ。復讐を誓ってガンドに近づいたミソンも、聖母マリアにはほど遠い。けれども“悪魔”にさえ哀れみを覚えてしまうほど慈悲深い存在ではある。
キム・ギドク映画にあって常に意識されているのは「救い」ということだ。この映画でガンドは救われたのか? あるいはミソンは救われたのか? とてもそうは思えない。
だが考えてみれば、“ピエタ”の題材とされたイエス自身も救われているとは思えない。人類の罪を独りで背負って死んでしまうのだから。聖母マリアの悲しみも推して知るべしだ。それでもイエスの物語は、聖書という形で福音(good news)として世界中に広まったわけだ。その福音に「救い」を見出す人も多いだろう。だとすれば、到底「救い」のないガンドやミソンの姿も、それを観るわれわれにとってはひとつの福音として現れるのかもしれないのだ。“悪魔”と思える存在にも哀れみを抱くことがあり得るし、“悪魔”でさえも母性愛によって悔い改めることもあるという、そんな福音だ。
ラストシーンはそれまでのどぎつい展開を忘れさせるような、水墨画のような淡い色合いで、いつまでも余韻が残る。 (その他に関しては次回に。)
※ ギドク作品と「救い」に関してはこちらで記しました。
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