『アマンダと僕』 エルヴィスはもうこの建物を出ました
第31回東京国際映画祭の東京グランプリと最優秀脚本賞を受賞した作品。

ダヴィッド(ヴァンサン・ラコスト)は姉ととても仲がよく、別々に暮らしてはいるものの頻繁に会っている。その姉が突然亡くなってしまい、遺されたのは7歳の姪アマンダ(イゾール・ミュルトリエ)。ダヴィッド自身も姉の死を受け入れることができないまま、アマンダの面倒を見ることにもなり……。
予告編を見ていたので姉が死ぬことは知ってはいたのだが、その死がテロによるものとだとわかってちょっとビックリした。『アマンダと僕』は何気ない日常の風景ばかりを描いていて、テロが起きる予兆もほとんど感じられないからだ。
そして、テロ事件そのものの描写もなく、事件後に傷ついた人を映す程度に留まっている。劇中のニュースではイスラム過激派のことにも触れられたりもするが、それ以上テロの原因や犯人像などを描くこともない。
本作はテロに対する恐怖や怒りよりも、親しい人を唐突に喪ったことに対する普遍的とも言える感情のほうにフォーカスしていく。ことさらにテロの被害者ということを前面に押し出すことになれば、『女は二度決断する』のように復讐の連鎖を生むことになってしまうわけで、それを超えたもっと前向きな話になっている。

この映画で初めて知ったのだが、「Elvis has left the building.」というのは英語では慣用句になっているのだとか。この言葉は英語の先生をしていたダヴィッドの姉サンドリーヌ(オフェリア・コルプ)がアマンダに教えたもの。人気者だったエルヴィスは熱狂的なファンも多く、ファンはライヴが終わってもエルヴィス見たさに会場から帰ろうとしない。そんなときのマイクで呼びかけられたのがこの言葉。「エルヴィスはもうこの建物を出ました」、つまりは「(エルヴィスに会いたくても)もう希望はありません」といった意味で使われるのだとか。
本作では最後にそれは否定され、希望はあるんだということが謳われることになる。テロ事件の被害者であるアマンダとダヴィッドだが、それに負けることはなくパリの暮らしに戻っていくところにメッセージが込められているのだろう。
仲のいい姉サンドリーヌとダヴィッドのふたりでの自転車の並走が、ふたりの幸せな時をよく示していて『少年と自転車』を思い出した。後半では悲しみを乗り越えたダヴィッドとアマンダのふたりが自転車で並走することになる。ふたりが並んで自転車を走らすという構図は、それだけでどことなく幸福な一場面と思えるから不思議だ。
アマンダを演じたイゾール・ミュルトリエがとてもかわいらしい。ちょっとぽっちゃりでシュークリームが大好き。遅刻しそうになっても走りながらもパンをかじっているという食いしん坊ぶりがいい。
それ以上の見どころは思えたのは、レナを演じたステイシー・マーティン(『グッバイ・ゴダール!』もよかった)。役柄としてはあまり重要ではないかもしれないのだがとても魅力的だった。そう言えば、ダヴィッドが突然の悲しみに襲われるのはレナが田舎に帰ってしまってからのことで、支えてくれる人が居なくなると人間は弱いのかもしれない。だからこそダヴィッドはアマンダを支える気になったのかも……。
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