『さよならくちびる』 映画は音楽に嫉妬する
監督・脚本・原案は『害虫』『どろろ』などの塩田明彦。
劇中の楽曲は秦基博、あいみょんの提供したもの。

インディーズで売り出し中のデュオ「ハルレオ」は全国7カ所を巡るツアーに旅立つところ。しかしハルレオはそのツアーで解散することが決まっていた。
高架下に停めた車にハルレオのふたりとローディーのシマ(成田凌)が勢ぞろいしたところから険悪な雰囲気。ハル(門脇麦)はレオのことをバカ女呼ばわりし、レオ(小松菜奈)もハルの存在を無視している。シマは改めて解散の意思について確認するものの、それは変わらないらしく、そのまま車はスタートすることに……。
音楽映画というだけで映画ファンの評価の点数は甘くなるところがあるんじゃないかと常々思っているのだが、それはなぜかと言えばやはり音楽というものが魅力的だからということになる。『ボヘミアン・ラプソディ』があれだけの評判を獲得したのも、クイーンの楽曲の良さにあったことは間違いないだろう。
この作品も秦基博、あいみょんの提供した楽曲によって魅力度を増している。そして、ハルを演じる門脇麦とレオを演じる小松菜奈は、実際にギターを弾きながら歌っている。ふたりの歌声のハーモニーが思った以上に素晴らしく、映画を観た人の多くがハルレオのCDが欲しくなるんじゃないだろうか。
特に門脇麦の声は際立っていて、また芸達者な部分を見せてくれたように思う。相方の小松菜奈はマッシュルームカットが涼しげな目とぴったりマッチしていて、カリスマ的な人気を誇るレオにふさわしいビジュアルだった。そんなハルレオのライブを体験できただけでもう十分満足という作品だったと思う。
映画の感想としてはすでに尽きているとも思うのだが、塩田明彦監督の『映画術 その演出はなぜ心をつかむのか』には本作を理解する上で役に立つかもしれないことが記されていたようにも思えたので、以下その点について書きたいと思う。
『映画術』では音楽について書かれた章がある。塩田はここで黒沢清監督の言葉として「ただひとつ、映画が嫉妬するジャンルがあって、それが音楽なんだ」というものを挙げている。塩田はその言葉からスタートして「映画が音楽になる」ということはどういうことかという独自の論を展開していく。
黒沢清がどんな意図でもって映画が音楽に嫉妬していると語ったのかについては塩田は触れていないのだが、ある程度推測することはできる。というのは黒沢清の言葉はウォルター・ペイターの「あらゆる芸術は音楽の状態にあこがれる」というものが元ネタだと推測できるからだ。
私がこの言葉を知ったのはホルヘ・ルイス・ボルヘスの本(『詩という仕事について』)の引用で、ボルヘスはこの言葉にさらに解説を加えていて、なぜ「あらゆる芸術は音楽の状態にあこがれる」のかを論じている。
つまりこういうことだろう。何らかの感情なりテーマを表現しようとしたとき、音楽ならメロディーでそれを直接に表現できる。ベートーヴェンが交響曲第5番を作曲したとき、最初にあったのはメロディーであって、それで事足りているはずだ。
ウィキペディアにあるエピソードによれば、交響曲第5番が「運命」と呼ばれたりするのは、「冒頭の4つの音は何を示すのか」という質問に対し「このように運命は扉をたたく」と答えたことに由来しているとか。ベートーヴェンは問われたからそう答えただけで、そうした説明は蛇足であるとも言えるだろう。
また、そうしたテーマを言葉で表現するとすれば、物語という形式で伝えることはできるかもしれない。ただ、伝えようとする内容と、表現のための形式は分けられている。何らかの形式を媒介として内容を伝えるということになる。
映画だって同様だろう。映画は映像メディアであるから映像を使って何かを表現することになるわけだが、伝えようとする内容と表現の形式は常に別個に考えられているんじゃないだろうか。しかしながら音楽だけは何の媒介もなしに表現することができる。だから映画は音楽に嫉妬している、そんなふうに黒沢清は語っているのだと思う。
塩田が言う「映画が音楽になる」というのもそうした議論があってのこと。塩田が『映画術』のなかで挙げている例としては『曽根崎心中』『緋牡丹博徒 花札勝負』などの台詞回しがある。これらの作品では独特の台詞回しが音楽を感じさせるものとなっているのだ。
今回の『さよならくちびる』について言えば、ハルレオのギター演奏とふたりの歌声はもちろん一番の見どころなのは間違いないのだが、ほかの部分でも「映画が音楽になる」瞬間があったような気もする。
この作品は音楽映画と言いつつも使われている楽曲はそれほど多くはないし、よくある音楽映画のような高揚感には欠けるかもしれない。ハルレオのふたりとシマという男の奇妙な三角関係(というか三すくみ状態?)があって、それはほとんど変わらずにライブ会場を回っていく。そんな設定のドキュメンタリーのように見えるところもある。塩田監督はライブシーンではないロードムービーの部分にこそ「映画が音楽になる」瞬間を狙っていたのかもしれない。
冒頭、シマがハルのアパートから荷物を運び出し、その後、ハルがギターを抱えてゆっくりとしたリズムで歩いていく。その先の車のなかにはレオが居て、三人のギクシャクした雰囲気が生まれる。そうしたシークエンスがとても心地よくて「映画が音楽になる」瞬間があったようにも感じられた。





劇中の楽曲は秦基博、あいみょんの提供したもの。

インディーズで売り出し中のデュオ「ハルレオ」は全国7カ所を巡るツアーに旅立つところ。しかしハルレオはそのツアーで解散することが決まっていた。
高架下に停めた車にハルレオのふたりとローディーのシマ(成田凌)が勢ぞろいしたところから険悪な雰囲気。ハル(門脇麦)はレオのことをバカ女呼ばわりし、レオ(小松菜奈)もハルの存在を無視している。シマは改めて解散の意思について確認するものの、それは変わらないらしく、そのまま車はスタートすることに……。
音楽映画というだけで映画ファンの評価の点数は甘くなるところがあるんじゃないかと常々思っているのだが、それはなぜかと言えばやはり音楽というものが魅力的だからということになる。『ボヘミアン・ラプソディ』があれだけの評判を獲得したのも、クイーンの楽曲の良さにあったことは間違いないだろう。
この作品も秦基博、あいみょんの提供した楽曲によって魅力度を増している。そして、ハルを演じる門脇麦とレオを演じる小松菜奈は、実際にギターを弾きながら歌っている。ふたりの歌声のハーモニーが思った以上に素晴らしく、映画を観た人の多くがハルレオのCDが欲しくなるんじゃないだろうか。
特に門脇麦の声は際立っていて、また芸達者な部分を見せてくれたように思う。相方の小松菜奈はマッシュルームカットが涼しげな目とぴったりマッチしていて、カリスマ的な人気を誇るレオにふさわしいビジュアルだった。そんなハルレオのライブを体験できただけでもう十分満足という作品だったと思う。
映画の感想としてはすでに尽きているとも思うのだが、塩田明彦監督の『映画術 その演出はなぜ心をつかむのか』には本作を理解する上で役に立つかもしれないことが記されていたようにも思えたので、以下その点について書きたいと思う。
『映画術』では音楽について書かれた章がある。塩田はここで黒沢清監督の言葉として「ただひとつ、映画が嫉妬するジャンルがあって、それが音楽なんだ」というものを挙げている。塩田はその言葉からスタートして「映画が音楽になる」ということはどういうことかという独自の論を展開していく。
黒沢清がどんな意図でもって映画が音楽に嫉妬していると語ったのかについては塩田は触れていないのだが、ある程度推測することはできる。というのは黒沢清の言葉はウォルター・ペイターの「あらゆる芸術は音楽の状態にあこがれる」というものが元ネタだと推測できるからだ。
私がこの言葉を知ったのはホルヘ・ルイス・ボルヘスの本(『詩という仕事について』)の引用で、ボルヘスはこの言葉にさらに解説を加えていて、なぜ「あらゆる芸術は音楽の状態にあこがれる」のかを論じている。
ウォルター・ペイターが書いています。あらゆる芸術は音楽の状態にあこがれる、と。(もちろん、門外漢としての意見ですけれども)理由は明らかです。それは、音楽においては形式と内容が分けられないということでしょう。メロディー、あるいは何らかの音楽的要素は、音と休止から成り立っていて、時間のなかで展開する構造です。私の意見では、分割不可能な一個の構造です。メロディーは構造であり、同時に、それが生まれてきた感情と、それ自身が目覚めさせる感情であります。
つまりこういうことだろう。何らかの感情なりテーマを表現しようとしたとき、音楽ならメロディーでそれを直接に表現できる。ベートーヴェンが交響曲第5番を作曲したとき、最初にあったのはメロディーであって、それで事足りているはずだ。
ウィキペディアにあるエピソードによれば、交響曲第5番が「運命」と呼ばれたりするのは、「冒頭の4つの音は何を示すのか」という質問に対し「このように運命は扉をたたく」と答えたことに由来しているとか。ベートーヴェンは問われたからそう答えただけで、そうした説明は蛇足であるとも言えるだろう。
また、そうしたテーマを言葉で表現するとすれば、物語という形式で伝えることはできるかもしれない。ただ、伝えようとする内容と、表現のための形式は分けられている。何らかの形式を媒介として内容を伝えるということになる。
映画だって同様だろう。映画は映像メディアであるから映像を使って何かを表現することになるわけだが、伝えようとする内容と表現の形式は常に別個に考えられているんじゃないだろうか。しかしながら音楽だけは何の媒介もなしに表現することができる。だから映画は音楽に嫉妬している、そんなふうに黒沢清は語っているのだと思う。
塩田が言う「映画が音楽になる」というのもそうした議論があってのこと。塩田が『映画術』のなかで挙げている例としては『曽根崎心中』『緋牡丹博徒 花札勝負』などの台詞回しがある。これらの作品では独特の台詞回しが音楽を感じさせるものとなっているのだ。
今回の『さよならくちびる』について言えば、ハルレオのギター演奏とふたりの歌声はもちろん一番の見どころなのは間違いないのだが、ほかの部分でも「映画が音楽になる」瞬間があったような気もする。
この作品は音楽映画と言いつつも使われている楽曲はそれほど多くはないし、よくある音楽映画のような高揚感には欠けるかもしれない。ハルレオのふたりとシマという男の奇妙な三角関係(というか三すくみ状態?)があって、それはほとんど変わらずにライブ会場を回っていく。そんな設定のドキュメンタリーのように見えるところもある。塩田監督はライブシーンではないロードムービーの部分にこそ「映画が音楽になる」瞬間を狙っていたのかもしれない。
冒頭、シマがハルのアパートから荷物を運び出し、その後、ハルがギターを抱えてゆっくりとしたリズムで歩いていく。その先の車のなかにはレオが居て、三人のギクシャクした雰囲気が生まれる。そうしたシークエンスがとても心地よくて「映画が音楽になる」瞬間があったようにも感じられた。
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