『魂のゆくえ』 奇跡か? 妄想か?
『ドッグ・イート・ドッグ』などのポール・シュレイダーの監督作。
原題は「First Reformed」。これは主人公トラーが牧師を務める教会のこと。

ニューヨーク州北部にある小さな教会のトラー牧師(イーサン・ホーク)は、信者のメアリー(アマンダ・セイフライド)から相談を受ける。夫のマイケル(フィリップ・エッティンガー)が彼女の妊娠を快く思っていないというのだ。マイケルは地球の環境汚染を憂いており、そんな世の中に自分の子供を送り出すことを心配しているのだ。
トラー牧師は全身全霊を込めてマイケルと向き合う。というのも、トラー自身もイラク戦争で息子を亡くし、それが原因で離婚するという苦難な状況を生き抜いてきたからだ。しかし、トラーの説得も虚しく、後日マイケルは銃で自らの頭を吹き飛ばして死んでしまう。そして、マイケルがエコテロリストとして使うつもりだった爆弾がトラー牧師に残されることになる。
マイケルの死後、トラーは彼の遺志を受け継いだかのように環境問題にのめりこんでいく。トラーの教会の上部組織は環境汚染の当事者である企業から献金を受けていることもあり、トラーは「地球のために為すべきこと」と「教会を守るためには目をつぶらなければならないこと」との間で葛藤することになる。
◆トラーとトラヴィス
胃を痛めているトラー牧師が日記を書きつつ、それに自身の声が重ねられるあたりは『田舎司祭の日記』にそっくりだし、彼に悩みを打ち明けた男が自殺してしまうという展開は『冬の光』をなぞっている。しかし、その後の展開を追っていくと、本作はポール・シュレイダーが脚本を書いた『タクシードライバー』の主題と似通っていると気がつくことになるだろう。
『タクシードライバー』の主人公トラヴィスは、汚れた世の中を浄化する雨はいつ降るのかと考え、その偏った正義感を肥大させ実際に行動を起こすことになる。それに対して『魂のゆくえ』のトラー牧師は、地球が破滅に向かうのを防ごうとする側にいるのだが、後半に彼がマイケルの残した爆弾を使用することを決意するあたりでは、トラヴィスと同様の極端な行動に走っている。
『タクシードライバー』の「汚れた世の中を浄化する雨」というのは、ノアの箱舟のエピソードを思わせるが、『魂のゆくえ』にもそれを匂わせる台詞がある。環境破壊を放っておけないトラーに対し、上部組織のジェファーズ牧師(セドリック・カイルズ)はこの環境汚染そのものが神の御心かもしれないと反論する。聖書では神は一度この世を滅ぼしているからだ(「40日間の苦難」みたいな台詞があったはず)。
結論から言えば、トラーはトラヴィスになることに失敗することになる。ポール・シュレイダーは本作の構想を50年前から抱いていたというのだが、ここにどんな意味合いを込めたのだろうか。
『タクシードライバー』では、トラヴィスはアイリスという少女を救うためにヒモの男たちを皆殺しにする。これはもちろん行き過ぎた行為なのだが、メディアはトラヴィスをヒーローとして扱う。ここまでは映画の話だが、それに影響された観客のひとりがレーガン大統領暗殺未遂という事件を起こしたことでも有名だ。そうした勘違いを煽らないために、『魂のゆくえ』のトラー牧師は最後に失敗したということなのだろうか。

◆希望と絶望
トラー牧師は地球の未来に対して絶望的な気持ちを抱いているマイケルに対し、こんな言葉を投げかけていた。「矛盾した二つの真理が同時に存在している、希望と絶望のように」と。トラーも息子を亡くし絶望的なときもあったはずだが、それと同時に希望もある。そんな言葉でマイケルを説得しようとする。
この言葉は、「生きていれば世の中にはいいことも悪いこともあるよね」といった気休めにも聞こえるのだが、本当にそうなのだろうか。カトリックの神父が探偵として活躍する『ブラウン神父』シリーズの作者としても知られるG・K・チェスタトンは、キリスト教擁護論の古典とみなされている『正統とは何か』でこんなことを書いている。
これは希望と絶望が同時に成り立つというトラー牧師の考えそのものだろう。というのも、キリスト教の教義にはそうした矛盾があちこちに見られる。たとえばキリストは神であり、同時に人間でもあるという。キリストは半分神で、半分人間なのではなく、同時にどちらでもあるというのだから、普通の人にはわかりかねるのだが、キリスト教においてはその矛盾がそのまま根本的な教義となっているのだ。
この矛盾とは何か。これは単に矛盾を肯定するというだけではないのだ。チェスタトンは、「キリスト教の教義に何かしら妙なところが見つかる時は、事実のほうでも何かしら妙なところが見つかる時だということである」とも論じている。つまり聖書に奇跡が書かれていて、それが妙なことだと思うとしても、実は現実にもそういうことが起こり得るのだということにもつながっていくのだ。
また、チェスタトンは同じ本のなかでこんなことも書いている。「狂人とは理性を失った人ではない。狂人とは、理性以外のあるゆる物を失った人である」。つまりは理性的でありすぎるからこそ狂人になってしまうのであり、理性的でありすぎると希望も絶望も同時に存在するというような矛盾を生きることができないことになるのだ。
トラー牧師はマイケルとの話し合いのなかでは矛盾をそのまま受け入れることの重要性を説いていたのに、マイケルの死後にはそうした矛盾が許せなくなっていく。付け加えておけば、『タクシードライバー』のトラヴィスもベッツィーに「歩く矛盾」などと言われていたのだが、ベッツィーと別れた後に狂気に向かっていったように見える。ポール・シュレイダーが脚本を書いたこの2つの作品でどちらも“矛盾”というキーワードが登場するのは偶然とは思えない。

◆奇跡か? 妄想か?
実はポール・シュレイダー自身も、本作のトラー牧師と同じように牧師の息子なのだそうだ。ちなみに『冬の光』の監督イングマール・ベルイマンも牧師の息子である。『冬の光』は“神の沈黙”三部作の一つでもあり、神が人間に働きかけることなど一切ないのだが、『魂のゆくえ』ではラストで奇跡のような出来事が起きる。「奇跡のような出来事」と曖昧な言い方になるのは、本作のラストは奇跡のようにも感じられるし、トラーの妄想のようにも感じられるからだ。
トラーは神の使いのようなメアリーに導かれ、ふたりで空中浮揚しながら上空から地球の様子を見せられる。それをきっかけに爆弾テロを決意したトラーは、自身の教会の記念式典においてテロを決行しようとする。しかし、その式典のなかにメアリーを発見したトラーは混乱のなかで自殺しようとするのだが、鍵のかかっていたはずの家のなかにメアリーが現れ、ふたりは歓喜のなかでキスをしつつ唐突に映画は終わることになる。
このラストは自殺を図ったトラーが抱いた妄想と考えるのが妥当かもしれない。最後の唐突な暗転は、トラーの意識が失われたことを示していると考えられるからだ。その一方で何だかよくわからないが奇跡的な出来事が起きて、トラーの魂に救いが与えられたかのようにも見えなくもない。
シュレイダーは意図的にどちらにでも解釈できるように演出しているということなのだろう。そして、この「奇跡か、(死を前にした)妄想か」というラストは、トラー牧師が説いた「希望と絶望が同時に存在する」という教えのようにも感じられるのだ。先に説明したようにそうした矛盾はキリスト教において正統な立場とも言える。そして、その立場からすれば、奇跡は起こり得るのだ。
牧師の息子であるベルイマンが懐疑的な立場で『冬の光』をつくり、それに対して同じく牧師の息子のシュレイダーはキリスト教の正統的な立場から『魂のゆくえ』を撮ったということなのかもしれない。だから本作のトラー牧師がトラヴィスになることに失敗したということも、何かに配慮してというわけではないわけではないのだろう。シュレイダーは映画評論家として活動していた時期もあるようで、手に入りにくそうな『聖なる映画―小津/ブレッソン/ドライヤー』という自身の本において、『奇跡』などを撮ったカール・テオドール・ドライヤーなどを論じているのだとか。そうした長きに渡る研究の成果が本作には詰まっているように思えた。
本作は観る人によっては退屈極まりない作品なのかもしれず、トラー牧師とメアリーが体を重ね合って宙に浮かぶ、ふたりの呼吸が聞こえてくるような静かな場面では、観客の寝息のほうが響いてくるという状況でもあった。ただ、トラー牧師とマイケルとの息詰まる対峙の場面に引き込まれた人もいるはずで、私はそちら側だった。呆気にとられるラストだが、深い意味が込められているように感じ、あれこれ考えつつ書いたのが上記の文章ということになる。理性的にロジカルに書こうとしてかえって妄言めいたものになっているようにも思えるが、言いたいことはベルイマン作品とかが好きな人には刺さるものがあるということだ。








原題は「First Reformed」。これは主人公トラーが牧師を務める教会のこと。

ニューヨーク州北部にある小さな教会のトラー牧師(イーサン・ホーク)は、信者のメアリー(アマンダ・セイフライド)から相談を受ける。夫のマイケル(フィリップ・エッティンガー)が彼女の妊娠を快く思っていないというのだ。マイケルは地球の環境汚染を憂いており、そんな世の中に自分の子供を送り出すことを心配しているのだ。
トラー牧師は全身全霊を込めてマイケルと向き合う。というのも、トラー自身もイラク戦争で息子を亡くし、それが原因で離婚するという苦難な状況を生き抜いてきたからだ。しかし、トラーの説得も虚しく、後日マイケルは銃で自らの頭を吹き飛ばして死んでしまう。そして、マイケルがエコテロリストとして使うつもりだった爆弾がトラー牧師に残されることになる。
マイケルの死後、トラーは彼の遺志を受け継いだかのように環境問題にのめりこんでいく。トラーの教会の上部組織は環境汚染の当事者である企業から献金を受けていることもあり、トラーは「地球のために為すべきこと」と「教会を守るためには目をつぶらなければならないこと」との間で葛藤することになる。
◆トラーとトラヴィス
胃を痛めているトラー牧師が日記を書きつつ、それに自身の声が重ねられるあたりは『田舎司祭の日記』にそっくりだし、彼に悩みを打ち明けた男が自殺してしまうという展開は『冬の光』をなぞっている。しかし、その後の展開を追っていくと、本作はポール・シュレイダーが脚本を書いた『タクシードライバー』の主題と似通っていると気がつくことになるだろう。
『タクシードライバー』の主人公トラヴィスは、汚れた世の中を浄化する雨はいつ降るのかと考え、その偏った正義感を肥大させ実際に行動を起こすことになる。それに対して『魂のゆくえ』のトラー牧師は、地球が破滅に向かうのを防ごうとする側にいるのだが、後半に彼がマイケルの残した爆弾を使用することを決意するあたりでは、トラヴィスと同様の極端な行動に走っている。
『タクシードライバー』の「汚れた世の中を浄化する雨」というのは、ノアの箱舟のエピソードを思わせるが、『魂のゆくえ』にもそれを匂わせる台詞がある。環境破壊を放っておけないトラーに対し、上部組織のジェファーズ牧師(セドリック・カイルズ)はこの環境汚染そのものが神の御心かもしれないと反論する。聖書では神は一度この世を滅ぼしているからだ(「40日間の苦難」みたいな台詞があったはず)。
結論から言えば、トラーはトラヴィスになることに失敗することになる。ポール・シュレイダーは本作の構想を50年前から抱いていたというのだが、ここにどんな意味合いを込めたのだろうか。
『タクシードライバー』では、トラヴィスはアイリスという少女を救うためにヒモの男たちを皆殺しにする。これはもちろん行き過ぎた行為なのだが、メディアはトラヴィスをヒーローとして扱う。ここまでは映画の話だが、それに影響された観客のひとりがレーガン大統領暗殺未遂という事件を起こしたことでも有名だ。そうした勘違いを煽らないために、『魂のゆくえ』のトラー牧師は最後に失敗したということなのだろうか。

◆希望と絶望
トラー牧師は地球の未来に対して絶望的な気持ちを抱いているマイケルに対し、こんな言葉を投げかけていた。「矛盾した二つの真理が同時に存在している、希望と絶望のように」と。トラーも息子を亡くし絶望的なときもあったはずだが、それと同時に希望もある。そんな言葉でマイケルを説得しようとする。
この言葉は、「生きていれば世の中にはいいことも悪いこともあるよね」といった気休めにも聞こえるのだが、本当にそうなのだろうか。カトリックの神父が探偵として活躍する『ブラウン神父』シリーズの作者としても知られるG・K・チェスタトンは、キリスト教擁護論の古典とみなされている『正統とは何か』でこんなことを書いている。
キリスト教は激越に対立する二つのものを一つにまとめるという難事をやってのけたのだ。しかもその方法は、ここでもまた、二つのものを二つながらまったく生かして、二つながら激越なるがままに包みこむという方法だった。
これは希望と絶望が同時に成り立つというトラー牧師の考えそのものだろう。というのも、キリスト教の教義にはそうした矛盾があちこちに見られる。たとえばキリストは神であり、同時に人間でもあるという。キリストは半分神で、半分人間なのではなく、同時にどちらでもあるというのだから、普通の人にはわかりかねるのだが、キリスト教においてはその矛盾がそのまま根本的な教義となっているのだ。
この矛盾とは何か。これは単に矛盾を肯定するというだけではないのだ。チェスタトンは、「キリスト教の教義に何かしら妙なところが見つかる時は、事実のほうでも何かしら妙なところが見つかる時だということである」とも論じている。つまり聖書に奇跡が書かれていて、それが妙なことだと思うとしても、実は現実にもそういうことが起こり得るのだということにもつながっていくのだ。
また、チェスタトンは同じ本のなかでこんなことも書いている。「狂人とは理性を失った人ではない。狂人とは、理性以外のあるゆる物を失った人である」。つまりは理性的でありすぎるからこそ狂人になってしまうのであり、理性的でありすぎると希望も絶望も同時に存在するというような矛盾を生きることができないことになるのだ。
トラー牧師はマイケルとの話し合いのなかでは矛盾をそのまま受け入れることの重要性を説いていたのに、マイケルの死後にはそうした矛盾が許せなくなっていく。付け加えておけば、『タクシードライバー』のトラヴィスもベッツィーに「歩く矛盾」などと言われていたのだが、ベッツィーと別れた後に狂気に向かっていったように見える。ポール・シュレイダーが脚本を書いたこの2つの作品でどちらも“矛盾”というキーワードが登場するのは偶然とは思えない。

◆奇跡か? 妄想か?
実はポール・シュレイダー自身も、本作のトラー牧師と同じように牧師の息子なのだそうだ。ちなみに『冬の光』の監督イングマール・ベルイマンも牧師の息子である。『冬の光』は“神の沈黙”三部作の一つでもあり、神が人間に働きかけることなど一切ないのだが、『魂のゆくえ』ではラストで奇跡のような出来事が起きる。「奇跡のような出来事」と曖昧な言い方になるのは、本作のラストは奇跡のようにも感じられるし、トラーの妄想のようにも感じられるからだ。
トラーは神の使いのようなメアリーに導かれ、ふたりで空中浮揚しながら上空から地球の様子を見せられる。それをきっかけに爆弾テロを決意したトラーは、自身の教会の記念式典においてテロを決行しようとする。しかし、その式典のなかにメアリーを発見したトラーは混乱のなかで自殺しようとするのだが、鍵のかかっていたはずの家のなかにメアリーが現れ、ふたりは歓喜のなかでキスをしつつ唐突に映画は終わることになる。
このラストは自殺を図ったトラーが抱いた妄想と考えるのが妥当かもしれない。最後の唐突な暗転は、トラーの意識が失われたことを示していると考えられるからだ。その一方で何だかよくわからないが奇跡的な出来事が起きて、トラーの魂に救いが与えられたかのようにも見えなくもない。
シュレイダーは意図的にどちらにでも解釈できるように演出しているということなのだろう。そして、この「奇跡か、(死を前にした)妄想か」というラストは、トラー牧師が説いた「希望と絶望が同時に存在する」という教えのようにも感じられるのだ。先に説明したようにそうした矛盾はキリスト教において正統な立場とも言える。そして、その立場からすれば、奇跡は起こり得るのだ。
牧師の息子であるベルイマンが懐疑的な立場で『冬の光』をつくり、それに対して同じく牧師の息子のシュレイダーはキリスト教の正統的な立場から『魂のゆくえ』を撮ったということなのかもしれない。だから本作のトラー牧師がトラヴィスになることに失敗したということも、何かに配慮してというわけではないわけではないのだろう。シュレイダーは映画評論家として活動していた時期もあるようで、手に入りにくそうな『聖なる映画―小津/ブレッソン/ドライヤー』という自身の本において、『奇跡』などを撮ったカール・テオドール・ドライヤーなどを論じているのだとか。そうした長きに渡る研究の成果が本作には詰まっているように思えた。
本作は観る人によっては退屈極まりない作品なのかもしれず、トラー牧師とメアリーが体を重ね合って宙に浮かぶ、ふたりの呼吸が聞こえてくるような静かな場面では、観客の寝息のほうが響いてくるという状況でもあった。ただ、トラー牧師とマイケルとの息詰まる対峙の場面に引き込まれた人もいるはずで、私はそちら側だった。呆気にとられるラストだが、深い意味が込められているように感じ、あれこれ考えつつ書いたのが上記の文章ということになる。理性的にロジカルに書こうとしてかえって妄言めいたものになっているようにも思えるが、言いたいことはベルイマン作品とかが好きな人には刺さるものがあるということだ。
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この記事へのコメント:
まれ
Date2019.04.30 (火) 08:43:04
Nick
Date2019.05.06 (月) 17:08:08
映画のなかでも教会の関係者たちが先頭に立って矯正施設を運営しているようにすら見えました。
国教ともなると為政者にもいい顔しないといけないんでしょうかね。
まれ
Date2019.05.11 (土) 11:29:16
食や音楽などを含め、人の好みの原点は遺伝ではないかと思っていて、そうなると、同性愛も異性愛も遺伝子レベルの違いなら、世の中を上手く回す(=不幸な人を減らす)にはマイノリティを認めなければいけないのでは?と思いますし、世間もそういう流れになってますよね。
”人の手”が世の繁栄に必要不可欠だった時代は誰もがキリスト教の「産めよ、増やせよ」に賛同していましたが、人の手より頭脳が国を支えるなら、子宝に固執しなくても良いと考えるようになったのかもしれないですね。といいますか、この数年で、才能のある人や上に立つ優秀な人に同性愛者が増え、そこから流れが変わってきている気がします。
為政者へいい顔をする必要があるなら、キリスト教も、いつか教義の一部を改定せざるを得ない日が来るかもしれないと考えると、衝撃的ですが、巨大な組織がどうなるのか見てみたいものです!
Nick
Date2019.05.15 (水) 23:59:46
多様性云々なんて議論は今では当然のことになってますが、
少し前にはあまり聞かなかった気がしますし。
為政者が偏った人だったりすると、
かえって変な方向に変わったりしそうな気もしますがどうでしょうね。
まれ
Date2019.05.29 (水) 10:46:45
歴史を振り返ると、教皇や法王も「権力」をもつ者がなっていた時代が長く、それに比べると、今は国民や信者が情報を得やすく、賢くなっているので、勝手におかしな方向に変えることはできないような気がしますし、そうであって欲しいです‼
仏教に比べ、キリスト教の高僧は特に厳しい修行や解脱のようなシステムはないようなので、何をもって高位につくのでしょうか?これだけ信者がいるので、救いの多い宗教なのだと思いますが、ヴァチカンや教会の豪華絢爛さを観ると、やはり、何か釈然としないものを感じます。しかも、生まれた時から罪人って言われるのも、入信せずにはいられない気持ち、わかります・笑 もちろん、清貧な聖職者も多くいらっしゃいますが、それでも権力を手にすると変わってしまうのが恐ろしいところですね。
Nick
Date2019.06.09 (日) 21:53:41
確かに謎な気がしますね。
カトリックのトップを決めるのはコンクラーヴェというのが有名ですが、
あれは非公開ですが選挙のようなものらしいですから、
周囲の仲間に認められなければならないということでしょうかね。
そうなると、とても世俗的なものにも感じられます。
まれ
Date2019.07.07 (日) 08:01:41
話は変わりますが、先日「ガタカ」を観ました。様々なところで名前が上がっている作品なので、いつか観たいと思っていました。ジュード・ローが出演してたんですね。ユマ・サーマンとの美男美女ぶりがあの世界観にピッタリでした。SFとはいえ、こんな映画だったのかと思っていたら、主演のイーサン・ホークスは「魂の行方」の主人公だったのを思い出しました。息の長い役者さんだと思う反面、童顔のせいか、年齢と共に加わる重厚さが見えずらい俳優さんなのではないかと、今の姿を見て思いました。実際、演技力はあるのかもしれませんが・・・
映画の「ガタカ」。当時より、今の方が現実味があるような気もしますが、今のところ、生命保険の保険料が安くなる程度で、人間の能力の幅は遺伝子だけでは決められないだろうとも思いました。DVDのおまけに尿検査を担当していた職員が、カットが掛かった後に、その尿を飲んでいて笑えました。
Nick
Date2019.07.13 (土) 11:14:39
漫画にまでなってるんですね。
コンクラーヴェについてまで書かれているとは、いろんな漫画があるものですね。
>当時の覇権を争う王族みたいな存在
そういうことなんでしょうね。
たしかカノッサの屈辱ではローマ皇帝のほうが教皇に頭を下げたんでしたね。
名家では権力のひとつとしてキリスト教も利用していたということでしょうか。
それにしても「ヴァチカン建国90周年」とは意外でした。
独立国として認められたのが90年前ということなんですね。
「ガタカ」はよかったですね。
主役のイーサン・ホークは確かに童顔で、
「魂のゆくえ」でもあまり老けた感じはありませんでした。
「ガタカ」が1997年で「魂のゆくえ」が2017年の製作だから、20年も経っているのに……。
でも、かえって損をしている部分もあるのかもしれませんね。
>その尿を飲んでいて
スタッフが変態なのかと一瞬勘違いしました。
イーサン・ホークが検査用に服の中に忍ばせていた尿のことですね。
あれが飲めるものでできていたとは……。
まれ
Date2019.07.24 (水) 09:21:57
「ガタカ」、20年前の作品でしたか・・。今、観ると一周回って的にお洒落な感じがしました。おまけ部分の説明が分かりづらく失礼しましたm(__)m 多くの社員の尿が蓋付き透明カップに入れられ検査待ちというシーンでカットがかかり、検査員がその1つを飲むというもので、尿は身体に害のない色水と認識していたから、カット後に飲んだようです。スタッフの笑い声も聴こえました。生真面目な役柄の俳優のお茶目な部分を見せてくれた感じです。そんな生真面目な彼の配慮というか願いもあり、主人公は宇宙へ旅立てたんですよね。
Nick
Date2019.07.29 (月) 20:59:32
機会を見つけて読んでみたいと思います。