『バスターのバラード』 6つの死に様?
『ノーカントリー』『ヘイル、シーザー!』などコーエン兄弟の最新作。
Netflixのオリジナル作品。

6本の短編からなるオムニバス作品。各短編との間に特段のつながりはないが、すべてが西部劇となっている。短編とはいえあっと驚くようなオチが用意されているわけではないので、劇場公開は難しかったのかもしれないのだが、Netflixでの配信が決まったことでコーエン兄弟はかなり自由にやっているようにも感じられる。
1本目はタイトルともなっている「バスターのバラード」。歌あり、ガン・ファイトありの娯楽作。能天気で明るく、テンポもよく、導入部には最適な1本といった印象。2本目が「アルゴドネス付近」で、銀行強盗がとち狂った銀行員と対決する。ウエスタンのスタイルも決まっているジェームズ・フランコが渋い。3本目は「食事券」というタイトル。聖書などを読み聞かせる両腕両足がない芸人の男が、計算ができるニワトリに取って代わられる話。タイトルがいい。興行師の男(リーアム・ニーソン)にとって、芸人の男もニワトリも単なる食事券でしかないという……。

次の「金の谷」は、黄金郷があるとすればこんなところかもしれないと思わせるような美しい映像が見どころ。フクロウや鹿たちが住む場所は完全な世界に思えるが、そこに金を探す人間たちが現れ醜い争いを繰り広げる。
5本目の「早とちりの娘」は、恋愛あり、アクションありで、一番盛り上がる1本。幌馬車で大平原を移動する場面だけでも陶然とさせるが、幌馬車が内部からの灯りで暗闇にぼんやりと浮かび上がる美しい場面は、ほかの西部劇では見たことがない(あまり西部劇を知らないだけかもしれないが)。さらに斧を片手に迫ってくる先住民との決闘も短いながらも迫力があった。ゾーイ・カザンの素朴な娘役もとてもよかった。
最後の短編「遺骸」は、馬車のなかで5人が好き勝手に話すだけ。5人が話す内容に脈絡はないが、夕陽に染まっていた空が段々と暮れていき、馬車のなかも不気味な暗さを見せるようになる。そもそもこのオムニバスのここまでの5本の短編は、何らかの形で“死”を描いていた。「遺骸」における顔の見えない御者が止まらないのは自分ではどうにもならない“運命”のようなものかもしれないし、明るい空が暗く翳っていくのは青年から老年への時間の流れなのかもしれない。だとすれば、この短編は人間の“生”そのものを描いているのだろう。だから、馬車が最後にたどり着いた場所はあの世のようにすら見えた。そのあたりの主題も含めベルイマンの『魔術師』の冒頭のエピソードを思わせる雰囲気だった。
Netflixがお薦めの『バード・ボックス』にはそれほど感心しなかった(*1)のだが、コーエン兄弟のこのオムニバスはネット配信だけではもったいないくらいの作品だった。コーエン兄弟には『トゥルー・グリット』という西部劇もあるけれど、『バスターのバラード』のほうがインパクトがあったようにも思えた。
(*1) 「“それ”を見たら自殺してしまう」という設定の作品だから、最後に盲人が生き残るというのはわかるのだけれど、精神病者たちはなぜか“それ”に耐性があり、しかも健常者を襲ってくるというのはどうなんだろうか。ほかにもツッコミどころは多かった。



Netflixのオリジナル作品。

6本の短編からなるオムニバス作品。各短編との間に特段のつながりはないが、すべてが西部劇となっている。短編とはいえあっと驚くようなオチが用意されているわけではないので、劇場公開は難しかったのかもしれないのだが、Netflixでの配信が決まったことでコーエン兄弟はかなり自由にやっているようにも感じられる。
1本目はタイトルともなっている「バスターのバラード」。歌あり、ガン・ファイトありの娯楽作。能天気で明るく、テンポもよく、導入部には最適な1本といった印象。2本目が「アルゴドネス付近」で、銀行強盗がとち狂った銀行員と対決する。ウエスタンのスタイルも決まっているジェームズ・フランコが渋い。3本目は「食事券」というタイトル。聖書などを読み聞かせる両腕両足がない芸人の男が、計算ができるニワトリに取って代わられる話。タイトルがいい。興行師の男(リーアム・ニーソン)にとって、芸人の男もニワトリも単なる食事券でしかないという……。

次の「金の谷」は、黄金郷があるとすればこんなところかもしれないと思わせるような美しい映像が見どころ。フクロウや鹿たちが住む場所は完全な世界に思えるが、そこに金を探す人間たちが現れ醜い争いを繰り広げる。
5本目の「早とちりの娘」は、恋愛あり、アクションありで、一番盛り上がる1本。幌馬車で大平原を移動する場面だけでも陶然とさせるが、幌馬車が内部からの灯りで暗闇にぼんやりと浮かび上がる美しい場面は、ほかの西部劇では見たことがない(あまり西部劇を知らないだけかもしれないが)。さらに斧を片手に迫ってくる先住民との決闘も短いながらも迫力があった。ゾーイ・カザンの素朴な娘役もとてもよかった。
最後の短編「遺骸」は、馬車のなかで5人が好き勝手に話すだけ。5人が話す内容に脈絡はないが、夕陽に染まっていた空が段々と暮れていき、馬車のなかも不気味な暗さを見せるようになる。そもそもこのオムニバスのここまでの5本の短編は、何らかの形で“死”を描いていた。「遺骸」における顔の見えない御者が止まらないのは自分ではどうにもならない“運命”のようなものかもしれないし、明るい空が暗く翳っていくのは青年から老年への時間の流れなのかもしれない。だとすれば、この短編は人間の“生”そのものを描いているのだろう。だから、馬車が最後にたどり着いた場所はあの世のようにすら見えた。そのあたりの主題も含めベルイマンの『魔術師』の冒頭のエピソードを思わせる雰囲気だった。
Netflixがお薦めの『バード・ボックス』にはそれほど感心しなかった(*1)のだが、コーエン兄弟のこのオムニバスはネット配信だけではもったいないくらいの作品だった。コーエン兄弟には『トゥルー・グリット』という西部劇もあるけれど、『バスターのバラード』のほうがインパクトがあったようにも思えた。
(*1) 「“それ”を見たら自殺してしまう」という設定の作品だから、最後に盲人が生き残るというのはわかるのだけれど、精神病者たちはなぜか“それ”に耐性があり、しかも健常者を襲ってくるというのはどうなんだろうか。ほかにもツッコミどころは多かった。
![]() |

![]() |

![]() |

![]() |

- 関連記事
-
- 『クリード 炎の宿敵』 最後はやはり根性か
- 『バスターのバラード』 6つの死に様?
- 『シシリアン・ゴースト・ストーリー』 「現実」vs「幻想」の結果は?
スポンサーサイト
この記事へのコメント: