『フラッシュバック・メモリーズ 3D』 松江哲明流3Dの新しい使い方
『あんにょん由美香』などの松江哲明監督のドキュメンタリー作品。ドキュメンタリーには珍しい3D作品となっている。上映も終わりそうなのだけれど、とても良かったので……。

今回の被写体はディジュリドゥ奏者のGOMA。GOMAは2009年11月26日、交通事故によって脳に損傷を負う。それにより記憶に著しい障害を抱えたGOMAは、過去の記憶を失うとともに、新しいことを覚えることも困難な状態に陥る。(*1)『フラッシュバック・メモリーズ 3D』は、そんなGOMAの復活を描いている。
アルペンホルンを思わせる形状の“ディジュリドゥ”という耳慣れない楽器の音を聴いて、私が思い浮かべたのは『クロコダイル・ダンディ2』でミック・ダンディがアボリジニとの連絡に使用した道具だった。この道具は木の板みたいなものを紐で振り回して音を響かせるものだったのだが、ディジュリドゥという楽器もアボリジニが産み出したものなのだそうだ。この映画は、GOMAが演奏するディジュリドゥと、ドラム&パーカッションからなるGOMA & JUNGLE RHYTHM SECTIONの72分間のライヴとしてある。
◆『フラッシュバック・メモリーズ 3D』はなぜ3D映画なのか?
『ライフ・オブ・パイ』のときにも記したが、3D映画は奥行きのある表現が売り文句だ。松江監督は3D映画の特質を、手前と奥の2つのレイヤー(層)として捉えて『フラッシュバック・メモリーズ 3D』を構成している。この映画では、奥の層が過去であり、手前の層が現在である。そして現在は3Dで表現される。GOMAが失ってしまった過去の記憶を2次元の映像としてスクリーンに投影し、その映像をバックにして、復活したGOMAの現在の姿を3Dで観客に体験させるのだ。
過去の記録映像のなかでGOMAは、10年間の音楽活動を振り返って「長い目で見れば様々なことがあって、今の自分がある」みたいなことを語り、観客に感謝の意を述べている。しかし、GOMA自身はそのことを覚えていない。記憶障害により、GOMAにとっては長い目で見るような生き方は難しいのだ。過去とのつながりのなかで、今の姿が存在しているのが普通のあり方だから、GOMAは「自分だけが違う時間軸にいる」ような感じだと語っている。
『フラッシュバック・メモリーズ 3D』は、3Dのライヴ場面と、その奥の層に投影される2Dの過去が、われわれが観ている劇場のスクリーン上で重ね合わせられる。通常、人はこのように過去の記憶の層を前提にして、現在という層を生きている。『フラッシュバック・メモリーズ 3D』では2Dの過去だけが映される部分もあれば、3Dのライヴだけの場面もある。GOMAにとっては、毎日がその現在という3Dの層だけになっているのだ。奥の層が暗転してGOMAの姿だけが3Dで映される場面は、「違う時間軸」にいることを強いられたGOMAの境遇を感じさせる。この構成は監督のアイディアだと言うが、3Dという手法の新しい使い方として非常に斬新だ。(*2)
しかし『フラッシュバック・メモリーズ 3D』は、高次脳機能障害を負った人間を追うドラマというよりは、ミュージシャンとしてのGOMAのライヴが中心になっている。2D部分で描かれる事故や臨死体験ついての描写(アニメーション)、障害との闘い(記録映像)、家族の葛藤(日記)などは、それだけでも映画を制作するのに十分な題材だが、松江哲明はそうしたドラマにはしなかった。それはなによりもGOMAが「病気である以前に圧倒的に音楽の人だなと感じた」からだと言う。GOMA & JUNGLE RHYTHM SECTIONの演奏を聴けばそれがわかると思う。障害と向き合う家族の物語も泣かせるのだけれど、それ以上に、復活したGOMAのライヴをかぶりつきで観ているように楽しめる作品なのだ。
(*1) 新しいことが覚えられないような症状を“前向性健忘”と言うが、映画『メメント』ではそんな男が主人公だった。程度の違いはあれど、GOMAも『メメント』の主人公のような状況にあるということだ。
(*2) 過去の映像を前にしてミュージシャンが演奏するのはライヴでは珍しくないだろうが、それを3Dでやったという意味ではやはりチャレンジングな映画だと思う。
≪追記≫ まったく絵筆など持ったこともなかったGOMAは、事故後、急に絵を描き始めたのだという。それは点描画で、どことなく曼荼羅のよう。ユングの集合的無意識などを思い起こさせる。

GOMA&Jungle Rhythm SectionのCD
松江哲明の作品

今回の被写体はディジュリドゥ奏者のGOMA。GOMAは2009年11月26日、交通事故によって脳に損傷を負う。それにより記憶に著しい障害を抱えたGOMAは、過去の記憶を失うとともに、新しいことを覚えることも困難な状態に陥る。(*1)『フラッシュバック・メモリーズ 3D』は、そんなGOMAの復活を描いている。
アルペンホルンを思わせる形状の“ディジュリドゥ”という耳慣れない楽器の音を聴いて、私が思い浮かべたのは『クロコダイル・ダンディ2』でミック・ダンディがアボリジニとの連絡に使用した道具だった。この道具は木の板みたいなものを紐で振り回して音を響かせるものだったのだが、ディジュリドゥという楽器もアボリジニが産み出したものなのだそうだ。この映画は、GOMAが演奏するディジュリドゥと、ドラム&パーカッションからなるGOMA & JUNGLE RHYTHM SECTIONの72分間のライヴとしてある。
◆『フラッシュバック・メモリーズ 3D』はなぜ3D映画なのか?
『ライフ・オブ・パイ』のときにも記したが、3D映画は奥行きのある表現が売り文句だ。松江監督は3D映画の特質を、手前と奥の2つのレイヤー(層)として捉えて『フラッシュバック・メモリーズ 3D』を構成している。この映画では、奥の層が過去であり、手前の層が現在である。そして現在は3Dで表現される。GOMAが失ってしまった過去の記憶を2次元の映像としてスクリーンに投影し、その映像をバックにして、復活したGOMAの現在の姿を3Dで観客に体験させるのだ。
過去の記録映像のなかでGOMAは、10年間の音楽活動を振り返って「長い目で見れば様々なことがあって、今の自分がある」みたいなことを語り、観客に感謝の意を述べている。しかし、GOMA自身はそのことを覚えていない。記憶障害により、GOMAにとっては長い目で見るような生き方は難しいのだ。過去とのつながりのなかで、今の姿が存在しているのが普通のあり方だから、GOMAは「自分だけが違う時間軸にいる」ような感じだと語っている。
『フラッシュバック・メモリーズ 3D』は、3Dのライヴ場面と、その奥の層に投影される2Dの過去が、われわれが観ている劇場のスクリーン上で重ね合わせられる。通常、人はこのように過去の記憶の層を前提にして、現在という層を生きている。『フラッシュバック・メモリーズ 3D』では2Dの過去だけが映される部分もあれば、3Dのライヴだけの場面もある。GOMAにとっては、毎日がその現在という3Dの層だけになっているのだ。奥の層が暗転してGOMAの姿だけが3Dで映される場面は、「違う時間軸」にいることを強いられたGOMAの境遇を感じさせる。この構成は監督のアイディアだと言うが、3Dという手法の新しい使い方として非常に斬新だ。(*2)
しかし『フラッシュバック・メモリーズ 3D』は、高次脳機能障害を負った人間を追うドラマというよりは、ミュージシャンとしてのGOMAのライヴが中心になっている。2D部分で描かれる事故や臨死体験ついての描写(アニメーション)、障害との闘い(記録映像)、家族の葛藤(日記)などは、それだけでも映画を制作するのに十分な題材だが、松江哲明はそうしたドラマにはしなかった。それはなによりもGOMAが「病気である以前に圧倒的に音楽の人だなと感じた」からだと言う。GOMA & JUNGLE RHYTHM SECTIONの演奏を聴けばそれがわかると思う。障害と向き合う家族の物語も泣かせるのだけれど、それ以上に、復活したGOMAのライヴをかぶりつきで観ているように楽しめる作品なのだ。
(*1) 新しいことが覚えられないような症状を“前向性健忘”と言うが、映画『メメント』ではそんな男が主人公だった。程度の違いはあれど、GOMAも『メメント』の主人公のような状況にあるということだ。
(*2) 過去の映像を前にしてミュージシャンが演奏するのはライヴでは珍しくないだろうが、それを3Dでやったという意味ではやはりチャレンジングな映画だと思う。
≪追記≫ まったく絵筆など持ったこともなかったGOMAは、事故後、急に絵を描き始めたのだという。それは点描画で、どことなく曼荼羅のよう。ユングの集合的無意識などを思い起こさせる。

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