『メアリーの総て』 怪物の声は女性たちの声?
原題は「Mary Shelley」。

原題となっているメアリー・シェリーとは、『フランケンシュタイン』の原作者として知られる女性。彼女がどうして『フランケンシュタイン』を書くことになったのかという点に迫るのが本作ということになる。
文庫本の「解説」や「まえがき」などを読むと、詩人として知られていた旦那のパーシー・シェリーの助言があったことなども書かれていて、勝手に年上の旦那が教え導くような形で『フランケンシュタイン』が生まれたのかと思っていたのだが、それはまったく勘違いだったとも言えるかもしれない。
パーシー(ダグラス・ブース)は自由恋愛の信奉者であり、メアリー(エル・ファニング)は駆け落ちまでして彼と一緒に過ごすことを選ぶわけだが、裕福ではあるけれど生活力のないパーシーとの生活は楽しいことばかりは続かない。パーシーはほかの女性とも関係を持つし、娘を亡くすという悲劇もあって、メアリーには不満ばかりが募ることになる。

メアリーが書いた『フランケンシュタイン』という小説では、主人公ヴィクターと彼が生み出した怪物との関係は、神と神が創造したアダムとの関係を類推させるものとなっている。罪を犯したアダムは楽園から追放されることになるわけだが、その後のアダムが創造主の神に対して恨み言を並べたのかどうかは知らないけれど、怪物は創造主であるヴィクターに対して「不当じゃないか」と意義を申し立てることになるのだ。というのも、ヴィクターは自分が創造した怪物をおぞましいものとして放り出してしまうからだ。
そして、この映画『メアリーの総て』の解釈においては、そうした関係がパーシー(男)とメアリー(女)という関係にまで広げられている。メアリーはパーシーとの出会いによって家から出て新たに生まれ変わったとも言えるけれど、浮気性のパーシーはメアリーを捨て去ることになるからだ。怪物のヴィクターに対する恨み言は、つまるところメアリーのパーシーに対する恨み言ということになるのだ。
『フランケンシュタイン』という小説は、人造人間たる怪物が登場する怪奇物として有名となったが、実際に読んでみると捨てられた怪物の告白の部分が読者の琴線に触れるところとなっている。メアリーの異母姉妹であり、バイロン卿(トム・スターリッジ)に捨てられることになるクレア・クレモント(ベル・パウリー)が共感を寄せたのもこの部分だった。男性優位の社会において不当な扱いを受けている女性たちの声として、怪物の声を読むことができるというのがこの映画の解釈ということだろう。
ハイファ・アル=マンスール監督は、デビュー作である前作『少女は自転車にのって』の際にサウジアラビアで唯一の女性監督と話題になった。サウジアラビアはイスラム世界のなかでも女性にとってかなり窮屈なところらしい。『少女は自転車にのって』の主人公の少女はそんな窮屈な世界を天真爛漫さで乗り切っていく。自転車が空を飛ぶ(かのように見える)シーンがさりげないながらも印象的だった。
そんなふうに女性が窮屈な世界と対峙するあたりは本作も同様。エル・ファニングはいつもどこか頼りなげでぼんやりしているようにも見えるけれど、本作では怒りを露わにするところがちょっと珍しいかも。パーシーに対して「周りを見て。どこに希望が?」と詰め寄るあたりは結構切実だった。
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