『生きてるだけで、愛』 逃げるに逃げられないもの
原作は『腑抜けども、悲しみの愛を見せろ』『乱暴と待機』など原作者でもある本谷有希子の同名小説。
CMディレクターなどで活躍している関根光才の劇場長編映画デビュー作。

同棲生活3年目の寧子(趣里)と津奈木(菅田将暉)。寧子はうつ病のダルさからかいつも寝てばかりいて、仕事はもちろんのこと家事もしていない。ただ、津奈木が買ってきたコンビニ弁当で生き永らえ、姉とだけは連絡を取っているものの、日がな一日引きこもった生活をしている。
寧子はかなりエキセントリックな女性。それは躁うつ病の症状でもあるだろうし、停電すると裸で踊っていたという母親から受け継いだものでもあるのだろう。同棲相手の津奈木に対しての態度もかなり酷い。何から何まで世話になっているにも関わらず、彼を罵倒してほとんど嫌がらせをしているようにしか見えないのだ。それに対して津奈木のほうは、反論することもなく大人しく謝ってやり過ごそうとする。
海外でこの作品が上映されたとき、津奈木は日本男性の代表というか、とても日本人らしいと思われたらしい。「和をもって尊しとなす」ではないけれど、どちらかと言えばケンカを避け「事なかれ主義」で行こうとするあたりが日本らしいと思われたのだろう。
そういえば同じように精神的に病んでいる女性が登場する日本映画『死の棘』の男は、津奈木と同じように無抵抗主義を貫くような態度だった。一方でアメリカ映画の『こわれゆく女』の男は、情緒不安定な妻に対して本気でぶつかっていくためにかえって騒ぎは大きくなっていっていたようにも見える。
寧子のような女性と一緒にいるのは大変だ。寧子は全力で津奈木にぶつかってくるし、津奈木にもそれに全力で対応することを求めている。それにはエネルギーが必要だけれど、下衆なゴシップ雑誌の仕事で精神的にも疲れ切っている津奈木にそんな余裕はない。だからこそすべての感覚を遮断したような無味乾燥したやりとりに終始するほかなくなる。

本作の前半はかなりきつい。というのは、津奈木の立場からすれば、寧子との同棲生活は地獄のようなものだからだ。しかし、本作は途中で転調する。寧子すら呆気に取られるほどのゴリ押しで、ふたりの同棲する部屋に乗り込んでくる安堂(仲里依紗)が登場するからだ。
安堂は津奈木の元カノで、あなたは何もしてないクズなんだから津奈木と別れてと迫る。その言い分も強引さもかなりの非常識だが、安堂のおかげで寧子は社会復帰せざるを得なくなる。
そうすると見えてくるのが、寧子の津奈木に対する態度は、家族同然の同棲相手としての“甘え”であったということだ。さすがの寧子も部外者である他人には遠慮もあって意外と普通に振舞うのだ。姉からも何度も指摘されていたように社会的にはほとんど終わっている寧子は、そのことを不安にも感じていて「生きてるだけで疲れる」のだ。その不安を間違った形で津奈木にぶつけるのは救いを求めてのことだったのだろう。
ラストで寧子は着ているものをすべて脱ぎ捨てる。津奈木とも別れることになるのかもしれない。ただ、裸になり独りになったとしても、寧子自身は寧子から逃げ出すことはできない(これは『ロゼッタ』のラストにも通じる)。誰かが「恋愛は所詮物語に過ぎない」と言っていたけれど、自分という因果な存在から逃げられないという認識は誰にでも当てはまる。寧子はもちろんのこと、津奈木にとっても、安堂にとってもそうだ。厄介な自分から逃げられないからこそ「生きてるだけで疲れる」わけだ。原作者がこの物語のタイトルを『生きてるだけで、愛』としたのは“世間受け”だけのもので、本当は「生きてるだけで疲れる」というのが正直なところだったんじゃないかと個人的には思えた。
本作の見どころは何と言っても趣里の熱演に尽きる。菅田将暉はエネルギーを内に秘めたままの受けの演技に徹しているし、石橋静河の役柄も脇役に収まっている。そんな演技派たちを押しのけ、趣里は観客すらどんよりとした気分になるほどの寧子という主人公を見事に体現していた。同時に、寧子以上にエキセントリックな安堂が登場すると、それに振り回されるかわいらしいところも垣間見させていた。そんな趣里演じる寧子というキャラには目を見張るものがあって、一時たりとも目が離せないほど圧倒された。今後の賞レースに趣里が絡んでくることは確実なんじゃないだろうか。




CMディレクターなどで活躍している関根光才の劇場長編映画デビュー作。

同棲生活3年目の寧子(趣里)と津奈木(菅田将暉)。寧子はうつ病のダルさからかいつも寝てばかりいて、仕事はもちろんのこと家事もしていない。ただ、津奈木が買ってきたコンビニ弁当で生き永らえ、姉とだけは連絡を取っているものの、日がな一日引きこもった生活をしている。
寧子はかなりエキセントリックな女性。それは躁うつ病の症状でもあるだろうし、停電すると裸で踊っていたという母親から受け継いだものでもあるのだろう。同棲相手の津奈木に対しての態度もかなり酷い。何から何まで世話になっているにも関わらず、彼を罵倒してほとんど嫌がらせをしているようにしか見えないのだ。それに対して津奈木のほうは、反論することもなく大人しく謝ってやり過ごそうとする。
海外でこの作品が上映されたとき、津奈木は日本男性の代表というか、とても日本人らしいと思われたらしい。「和をもって尊しとなす」ではないけれど、どちらかと言えばケンカを避け「事なかれ主義」で行こうとするあたりが日本らしいと思われたのだろう。
そういえば同じように精神的に病んでいる女性が登場する日本映画『死の棘』の男は、津奈木と同じように無抵抗主義を貫くような態度だった。一方でアメリカ映画の『こわれゆく女』の男は、情緒不安定な妻に対して本気でぶつかっていくためにかえって騒ぎは大きくなっていっていたようにも見える。
寧子のような女性と一緒にいるのは大変だ。寧子は全力で津奈木にぶつかってくるし、津奈木にもそれに全力で対応することを求めている。それにはエネルギーが必要だけれど、下衆なゴシップ雑誌の仕事で精神的にも疲れ切っている津奈木にそんな余裕はない。だからこそすべての感覚を遮断したような無味乾燥したやりとりに終始するほかなくなる。

本作の前半はかなりきつい。というのは、津奈木の立場からすれば、寧子との同棲生活は地獄のようなものだからだ。しかし、本作は途中で転調する。寧子すら呆気に取られるほどのゴリ押しで、ふたりの同棲する部屋に乗り込んでくる安堂(仲里依紗)が登場するからだ。
安堂は津奈木の元カノで、あなたは何もしてないクズなんだから津奈木と別れてと迫る。その言い分も強引さもかなりの非常識だが、安堂のおかげで寧子は社会復帰せざるを得なくなる。
そうすると見えてくるのが、寧子の津奈木に対する態度は、家族同然の同棲相手としての“甘え”であったということだ。さすがの寧子も部外者である他人には遠慮もあって意外と普通に振舞うのだ。姉からも何度も指摘されていたように社会的にはほとんど終わっている寧子は、そのことを不安にも感じていて「生きてるだけで疲れる」のだ。その不安を間違った形で津奈木にぶつけるのは救いを求めてのことだったのだろう。
ラストで寧子は着ているものをすべて脱ぎ捨てる。津奈木とも別れることになるのかもしれない。ただ、裸になり独りになったとしても、寧子自身は寧子から逃げ出すことはできない(これは『ロゼッタ』のラストにも通じる)。誰かが「恋愛は所詮物語に過ぎない」と言っていたけれど、自分という因果な存在から逃げられないという認識は誰にでも当てはまる。寧子はもちろんのこと、津奈木にとっても、安堂にとってもそうだ。厄介な自分から逃げられないからこそ「生きてるだけで疲れる」わけだ。原作者がこの物語のタイトルを『生きてるだけで、愛』としたのは“世間受け”だけのもので、本当は「生きてるだけで疲れる」というのが正直なところだったんじゃないかと個人的には思えた。
本作の見どころは何と言っても趣里の熱演に尽きる。菅田将暉はエネルギーを内に秘めたままの受けの演技に徹しているし、石橋静河の役柄も脇役に収まっている。そんな演技派たちを押しのけ、趣里は観客すらどんよりとした気分になるほどの寧子という主人公を見事に体現していた。同時に、寧子以上にエキセントリックな安堂が登場すると、それに振り回されるかわいらしいところも垣間見させていた。そんな趣里演じる寧子というキャラには目を見張るものがあって、一時たりとも目が離せないほど圧倒された。今後の賞レースに趣里が絡んでくることは確実なんじゃないだろうか。
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