『ここは退屈迎えに来て』 ゆるい失望ばかり
原作は『アズミ・ハルコは行方不明』の原作者でもある山内マリコの同名小説。
監督は『さよなら歌舞伎町』などの廣木隆一。

この群像劇のそれぞれのエピソードは無関係に進んでいくのだが、共通しているのは椎名(成田凌)という男。橋本愛が演じる“私”にとってはかつての憧れの人であり、門脇麦が演じる“あたし”にとっては元カレとなる。禿げたオヤジの皆川(マキタスポーツ)と援助交際するなっちゃん(片山友希)が醒めた目で分析するには、高校時代の椎名は彼を中心とする「太陽系」を構成するほど輝いている存在だったのだ。
“私”は10年間東京で過ごした出戻り組で、「何者かになりたい」という漠然とした夢だけでやってきたものの、それをあきらめて田舎に戻ってきたところ。一方の“あたし”は、椎名が田舎を出て行ったあとは、遠藤(亀田侑樹)という男と体だけの関係を続けている。というのも“あたし”は運転免許すら持っていないから、移動手段の確保のために男が必要なのだ。


「ここは退屈」というのは端的に言えば、田舎が退屈だということ。本作の舞台は富山市らしいのだが、“私”が友達のサツキ(柳ゆり菜)と一緒に久しぶりの椎名に会いに行く街道は、いかにも画一的なロードサイドの風景を見せてくれる(例外は「ますの寿司」の看板か)。
田舎に留まったサツキは東京への憧れを語るけれど、一度は東京で過ごした“私”や須賀(村上淳)からすれば過剰な思い込みのように聞こえるだろう。どこでもさほど変わらないと判断したからこそ、“私”も須賀も戻ってきたのだろうし……。だから退屈なのは田舎でもそうだし、東京だって同じだろう。
ただ、かつて輝いていた頃はあったのかもしれない。須賀が高円寺に思い馳せたり、“私”や“あたし”やサツキが高校時代を懐かしがったりするのは、今はともかくとして“あの頃”だけはよかったと感じているからだ。実際に“私”や新保(渡辺大知)やなっちゃんがプールで無邪気に戯れる場面にはそんな感覚も抱く。
それでも、本作で“私”が最後に椎名から投げかけられた言葉や、“あたし”が遠藤とのやり取りのなかで悟ってしまったことからすれば、輝いていたと思っていたはずの“あの頃”も実は単なる勘違いだったかもしれないのだ。
とすれば「ここは退屈」だし、それに劣らず東京だって退屈だし、今はもちろん退屈だし、“あの頃”は輝いていたというノスタルジーに逃げ込むこともできないということなのだろう。多分、退屈だと嘆いてみても迎えに来てくれる王子様なんていないし、かつての王子様もすでに「退屈な男」(岸井ゆきのが演じる南の評によれば)に成り下がっているわけで、どこにも行き場はなさそうなのだ。スカイツリーを目の前にして御満悦の椎名の妹・朝子(木崎絹子)の気持ちも長くは続かないのだろう。
かと言って、登場人物が絶望的な気分になっているというわけではなさそう。ゆるい失望ばかりが支配しつつも、それを解消する方法すらよくわからないようでもある。「何者かになりたい」という点では本作の“私”と同じでも、性急に答えを求めてしまった『止められるか、俺たちを』は、今とは時代が異なるからだろうか。
車中で“私”とサツキの他愛のない会話が延々と続くだけでまったく緊張感のないゆるい長回しも、この作品のテーマには合っているような気もする。ただ、空間ばかりか時間まで越えてみんなが同じ歌を口ずさむのはちょっとやりすぎにも思えた。



監督は『さよなら歌舞伎町』などの廣木隆一。

この群像劇のそれぞれのエピソードは無関係に進んでいくのだが、共通しているのは椎名(成田凌)という男。橋本愛が演じる“私”にとってはかつての憧れの人であり、門脇麦が演じる“あたし”にとっては元カレとなる。禿げたオヤジの皆川(マキタスポーツ)と援助交際するなっちゃん(片山友希)が醒めた目で分析するには、高校時代の椎名は彼を中心とする「太陽系」を構成するほど輝いている存在だったのだ。
“私”は10年間東京で過ごした出戻り組で、「何者かになりたい」という漠然とした夢だけでやってきたものの、それをあきらめて田舎に戻ってきたところ。一方の“あたし”は、椎名が田舎を出て行ったあとは、遠藤(亀田侑樹)という男と体だけの関係を続けている。というのも“あたし”は運転免許すら持っていないから、移動手段の確保のために男が必要なのだ。


「ここは退屈」というのは端的に言えば、田舎が退屈だということ。本作の舞台は富山市らしいのだが、“私”が友達のサツキ(柳ゆり菜)と一緒に久しぶりの椎名に会いに行く街道は、いかにも画一的なロードサイドの風景を見せてくれる(例外は「ますの寿司」の看板か)。
田舎に留まったサツキは東京への憧れを語るけれど、一度は東京で過ごした“私”や須賀(村上淳)からすれば過剰な思い込みのように聞こえるだろう。どこでもさほど変わらないと判断したからこそ、“私”も須賀も戻ってきたのだろうし……。だから退屈なのは田舎でもそうだし、東京だって同じだろう。
ただ、かつて輝いていた頃はあったのかもしれない。須賀が高円寺に思い馳せたり、“私”や“あたし”やサツキが高校時代を懐かしがったりするのは、今はともかくとして“あの頃”だけはよかったと感じているからだ。実際に“私”や新保(渡辺大知)やなっちゃんがプールで無邪気に戯れる場面にはそんな感覚も抱く。
それでも、本作で“私”が最後に椎名から投げかけられた言葉や、“あたし”が遠藤とのやり取りのなかで悟ってしまったことからすれば、輝いていたと思っていたはずの“あの頃”も実は単なる勘違いだったかもしれないのだ。
とすれば「ここは退屈」だし、それに劣らず東京だって退屈だし、今はもちろん退屈だし、“あの頃”は輝いていたというノスタルジーに逃げ込むこともできないということなのだろう。多分、退屈だと嘆いてみても迎えに来てくれる王子様なんていないし、かつての王子様もすでに「退屈な男」(岸井ゆきのが演じる南の評によれば)に成り下がっているわけで、どこにも行き場はなさそうなのだ。スカイツリーを目の前にして御満悦の椎名の妹・朝子(木崎絹子)の気持ちも長くは続かないのだろう。
かと言って、登場人物が絶望的な気分になっているというわけではなさそう。ゆるい失望ばかりが支配しつつも、それを解消する方法すらよくわからないようでもある。「何者かになりたい」という点では本作の“私”と同じでも、性急に答えを求めてしまった『止められるか、俺たちを』は、今とは時代が異なるからだろうか。
車中で“私”とサツキの他愛のない会話が延々と続くだけでまったく緊張感のないゆるい長回しも、この作品のテーマには合っているような気もする。ただ、空間ばかりか時間まで越えてみんなが同じ歌を口ずさむのはちょっとやりすぎにも思えた。
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