『きみの鳥はうたえる』 輝くクソを眺めること
監督は『Playback』『密使と番人』などの三宅唱。
タイトルはビートルズの曲「And Your Bird Can Sing」の直訳。映画のなかではこの曲が使われることもないけれど、登場人物の心情とその歌詞はよく合っている気もする。

函館郊外の本屋で働く“僕”(柄本佑)と同居する失業中の静雄(染谷将太)。そんなふたりの間に入り込んでくるのが、“僕”の職場の同僚の佐知子(石橋静河)。
たまたま同じ日に公開となった『寝ても覚めても』が10年近くの長い時間の経過を描いたものだとすれば、『きみの鳥はうたえる』のほうは現在進行形の時間を体験させてくれるような作品だと言える。
最初に“僕”と佐知子の関係が描かれ、そこに“僕”の同居人の静雄も加わる。3人が集まり、ただ酒を飲み、タバコを吸い、ビリヤードや卓球に興じ、踊る。特にクラブで佐知子が踊るシーンは即興的に撮られているものと思え、それをカメラは延々と捉えていく(佐知子を演じる石橋静河はコンテンポラリーダンサーでもあったらしい)。

三宅唱監督は『映画芸術』でのインタビューではこんなことを語っていた。とてもうまい言い方だと感じたので引用しておく。
誰にでも朝まで飲まなきゃやってられないような夜ってあると思うのですが、だからなのかはわかりませんけど、夜明け頃の街にいる人たちって、なんというか、輝くクソという感じで、僕はそれを眺めるのが好きですね。(下線は引用者)
作品内でも3人は朝まで飲み歩く。そういう姿は傍目には醜悪なものとも見えるけれど、本人たちにとっては酔いもあってとても楽しそうでもある。延々と続くクラブのシーンなんかは人によっては醜悪なものを感じるのかもしれない。ただ三宅監督はそうした場面を眺めるのが嫌いではないわけで、上記の言葉のあとには「自分もその一部だなあと思える」と語っている。それでもどこか醜悪なものがあることも感じているわけで、だから「輝くクソ」といった表現になるのだろう。
この作品では3人がひたすら楽しく過ごす時間が描かれ、面倒なことは避けられている。“僕”と佐知子が最初に関係するときも、「面倒くさいことはイヤ」ということを互いに念を押している。それから静雄は飲みすぎる母親(渡辺真起子)との会話のなかでボケたり病気になったりして面倒になることを心配してもいる。
「遊んだり飲んだりして何が悪いの?」(*1)という台詞通りに3人は楽しく過ごしていくわけだけれど、どうしても避けがたいことに面倒はやってくることになる。佐知子は“僕”と別れて、静雄と付き合うことを宣言するし、静雄には母親の病気の知らせが届く。
この作品は面倒なことが決定的に始まる前に終わってしまうけれど、ラストを飾るのは佐知子の何とも言えない表情。これまで終始「輝くクソ」を眺めてきた観客としては、この作品に対する評価に関しても微妙なものを感じる瞬間もあったのだけれど(だって輝いていてもクソはクソだし)、最後の佐知子の表情ですべて報われたような気もした。その曖昧な表情からはその後の展開を推測することは難しいけれど、楽しかった時間の終わりを感じさせる絶妙なラストだったのだ。
“僕”は本屋の同僚店員・森口(足立智充)にその不誠実さを責められる。“僕”は面倒くさくてあまり相手にしないのだけれど、森口は他人が楽しくしているのがうらやましくて耐えられないというタイプ。そんな森口も本屋の店長(萩原聖人)に情けをかけられて飲み歩く夜はとても楽しそう。その姿はまさに「輝くクソ」といった感じで、この作品はそんな時間が捉えられているところが素晴らしいのだ。とにかくラストを観るだけでも映画館に行く価値があるんじゃないかと思う。
80年代に書かれた原作を現在に時を移しての映画化で、クラブで使われている音楽はヒップホップなのだけれど、3人のたたずまいは昭和のそれっぽい感じもある。路面電車が走っている函館という街も昔ながらの風情があるのかもしれない。
魅力的に佐知子を演じた石橋静河は、落ち着いたトーンの声といい、すでに貫禄すら感じさせるくらいだったと思う。
(*1) この台詞はどこか「気分が良くて何が悪い?」という村上春樹の本に出てくる言葉を思わせなくもない。原作者の佐藤泰志と村上春樹は同い年だったらしく、その当時の感覚が似たような台詞として登場しているのかもしれない。ちなみに私自身は原作を読んでいないのだけれど、原作ではさらにその続きが描かれているらしい。
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