『判決、ふたつの希望』 外面は地味だが中身はエンタメ?
監督・脚本はジアド・ドゥエイリ。この人はタランティーノ監督作品のアシスタントとして参加していたこともあるとのことで、この作品は長編第4作。
原題は「The Insult」で、「侮辱」という意味。

ささいな口論が裁判に発展し、周囲の人々を巻き込みつつ、宗教や民族間の対立まで煽るような事態となっていくという法廷劇。舞台となるのはレバノンの首都ベイルートで、そこに住むトニー(アデル・カラム)はアパートの改修工事にやってきたパレスチナ人のヤーセル(カメル・エル・バシャ)に対してひどい態度を示し、それがヤーセルの暴言を引き出すことに……。
整理しておくと、トニーはレバノン人でキリスト教徒。しかも愛国的な政党を支持する右寄りの男。そして暴言を吐いてしまったパレスチナ人のヤーセルはイスラム教徒で、レバノンでは難民として不法就労している。
トラブルを迅速に収めようという上司の申し出で、ヤーセルはトニーに対して謝罪に出向くのだけれど、ヤーセルはトニーの発したある言葉に怒り出し、謝罪に来たのも忘れてトニーを殴ってケガを負わせてしまう。
その言葉は「シャロンに抹殺されてればな」というもの。中東の政治状況について不案内な私のような観客にとってはわかりにくいのだけれど、シャロンというのはレバノンの隣国イスラエルの首相だった人。パレスチナ難民にとってシャロンは、自分たちが難民となる原因をつくった憎き相手ということになる。だからトニーの言葉は、「お前らなんか、あの時、殺されてればよかったのに」という願望であって、すべてを失って難民となって隣国レバノンへと逃げなければならなかったパレスチナ人にとっては傷口に塩を塗られるようなもので、侮辱以外の何ものでもないということになる。

裁判が始まると事はどんどん大きくなっていく。控訴審となり互いに弁護人がつくようになると、もはやトニーとヤーセルだけの話ではなくなっていく。互いの弁護士はなぜか親子で、その親子対立まで持ち込んでいるし、周囲はふたりの裁判を民族や宗教の対立の表れとして見ることになる。そうなるとメディアも動き出し、政治的な問題も絡んできて、もともとのふたりのいざこざはほとんど蚊帳の外のような状態にもなってくる。きっかけはトニーがヤーセルから謝罪を求めただけだったのに……。
最初の印象ではトニーの態度は不遜なものにも感じられる。ヤーセルは仕事としてトニーの家を修繕しようとしただけだからだ。確かに謝罪するのを嫌がるヤーセルも頑固ではあるけれど、トニーの態度がそもそもの原因だったんじゃないか。そんな気持ちにもなるのだけれど、裁判の過程で明らかになるのはトニーのほうにも言い分があるということなのだ。
レバノンは1975年から1990年まで内戦が続いていたとのことで、トニーは1976年の「ダムールの虐殺」により故郷を追われてベイルートに移り住んできたのだ。そうした内戦のきっかけとなっているのがパレスチナ難民だという意識からか、トニーは難民に対してはじめから快く思ってなかったのだ。だからこそヤーセルが改修工事でトニーの家に現れたとき、ヤーセルに対してつっかかるような態度をしてしまうことになったわけだ。
ジアド・ドゥエイリ監督は、レバノンで今も弁護士をしている母親の影響もあってこの作品の脚本を書いたとのこと。そして「正義(ジャスティス)というのは人それぞれにあるが、公正(フェア)は揺るがし難い。不公平を正したいというのが弁護士としての母の信念だった」とインタビューで語っている(こちらのサイトを参照)。
トニーにとっての正義もあるし、ヤーセルにとっての正義もある。というか、どちらも悪い人間ではない。劇中、ふたりが外部の人のいない場所で顔を合わせる場面がある。ここではヤーセルの車の調子が悪くなったのを見て、自動車修理業を営むトニーが手を貸してやる。個々の人間同士では対立することもないのだ。ただ、レバノンという国の歴史には個人を飲み込む様々な対立が存在し、それから自由になることも難しい個々人も対立してしまう場合もあるということだろう。
ヤーセルもまた正義漢であるのは、トニー殴打のきっかけとなった言葉に関しては第一審では語ろうとしなかったことでも明らかだし、最後の彼の謝罪の仕方にも表れている。ヤーセルは自分がトニーを殴ってしまったことは悪いことだと認めている。単に謝罪するだけでは、トニーの殴られ損ということになってしまう。それを見越して、悪態を吐いてトニーに自分を殴らせてから謝罪するという念の入ったやり方も、ヤーセルなりの落とし前のつけ方で、ここには彼なりのフェアというものが表れているのだろう。
判決は一応最後に出ることになるけれど、すでにふたりのなかでの決着はついている。ただ、その過程で忘れ去っていたことが明らかになり、互いにそれぞれの抱える傷を多少なりとも理解したということはケガの功名というものだろう。
役者たちの演技は抑制されているけれど、裁判の矢継ぎ早の展開とか劇伴の盛り上げ方なんかはハリウッド的なエンターテインメントのようにすら思える。最後のトニーとヤーセルの表情にも希望を感じさせるものがあり、カタルシスすら感じさせる作品となっていたと思う。
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