『ライフ・オブ・パイ / トラと漂流した227日』 海と空が織りなす幻想的世界
『ライフ・オブ・パイ / トラと漂流した227日』は、アン・リー監督の最新作だ。
『アバター』の大成功以来、3D映画のご意見番として振舞っているジェームズ・キャメロンのお墨付きをいただいた3D作品。キャメロンに「これ以上の作品はない」と言わしめるほど、3D映画としての表現は圧倒的だ。単に物が飛び出るように見えるという効果を超えて、奥行きが感じられる画面構成は映画館で3Dとして体験しなければ味わえないものだ。

◆3D映画の表現
こうした場面でこそ3Dの奥行きある表現は活きてくる。手前にあるものと画面の奥にあるものを同時に捉え、それを立体的に感じさせるからだ。またプールのなかから青空を捉えた驚きのシーンでは、その水の透明さから、プールを泳ぐ人がまるで青空を飛んでいるようなシュールな画面を見せてくれる。
水のなかの世界を3Dで表現するという発想は成功だったと思う。通常、人は地面に重力で縛り付けられ、皆、同じ地平の上を行き来するわけだ。だが水のなかは違う。水の中では上下の区別があまり意味を持たないからだ。地上での平面上の動きに対して、水の中では立体的な動きが可能になるし、縦横無尽にどこにでも動き回ることができるからだ。だから映画の画面構成も立体的な表現になるだろう。(*1)
この映画では基本的には海の上を漂うパイ少年の姿が追われるのだが、その海が荒れ狂うとき、パイ少年を支えるべき海は静かな平面ではなくなる。海そのものが生き物のように蠢く存在になる。平面だった海は山のように盛り上がり、谷のように沈み、不安定で立体的な世界を構成する。またカメラも自由に動き回り、海の上から海のなかの世界に移行して、漂流するパイ少年だけでなく、魚たちが水のなかを泳ぎまわる姿を捉えていく。アン・リー監督が3Dでの表現を研究した成果は、観客に今まで見たこともない映像世界を見せてくれる。

『ライフ・オブ・パイ』の物語は、パイ少年がトラと漂流するサバイバル生活が中心になるが、サバイバルにも多少の余裕が生まれてくるとファンタジーの趣きが強くなる。プールのシーンによく表現されているように、海も空も渾然一体となった不思議な世界が広がっていく。
海が鏡面のようになるほどの凪の状態があるのかわからないが、ここでは海が空を映して、パイが漂っているのが海なのか空なのかわからなくなるほどだ。(*2)海と空の境界が無化されているのだ。さらに、幻想的な夜の場面では、光り輝くクラゲ(?)が星のようになり、もはや海も空もなく宇宙の暗闇のなかに星が輝くようなシーンになっている。そこではパイが乗る船は宇宙船のようにも見える。そしてパイは海の暗闇のなかに自分の幻想の世界を見ることになるのだ。
◆リチャード・パーカーとは? (以下、ネタばれあり)
パイと漂流することになるトラの名前は“リチャード・パーカー”だ。映画を観終わってから知ったことだが、この名前には特別な意味が込められているようだ。
リチャード・パーカーの名前の元ネタは?
上記の公式ホームページを見ればわかるように、海を漂流し続け最後には食べられることになってしまう、ふたりのリチャード・パーカー少年が重ねあわされているのだ。一人はエドガー・アラン・ポーの小説のなかの登場人物であり、もう一人は現実に起きた事件の被害者だ。
なぜこの少年の名前が選ばれたかと言えば、当然、パイ少年が体験したことがリチャード・パーカー少年の体験したことと似ていたからだろう。パイ少年が生き残れたのは、リチャード・パーカー少年とは異なり食べた側になるわけだ。トラがほかの乗組員(オラウータン、シマウマ、ハイエナなど)を食べたように、パイも同じことをせざるを得なかった。というよりもトラは、パイが生きるために自分のなかに見出した動物的な本能の象徴なのだろう。だから文明社会に戻る前にトラと別れなければならなかったのだ。
そうなると、映画の最後になって語られる“もうひとつの物語”こそが、パイの経験した事実ということになる。人喰い島のエピソードの奇妙さも、そうだとすれば納得できる。人の形をした島が人を喰らうというのは、もちろん人が人を喰う“カニバリズム”のことだからだ。そういう耐え難い経験をパイ少年なりに受け入れるために、あのような奇妙なファンタジーが産み出されなければならなかったわけだ。
ただそうした解釈が退屈になるほど、“トラと漂流する物語”は映像体験として圧倒的だった。やや冗長な前半部や“もうひとつの物語”を描く結末部を削ってしまったとしても、90分のファンタジー映画として成立するとも思える。
パイが訊ねる「どちらの物語が好き?」という質問には、やはり誰もが“トラと漂流する物語”を選ぶだろう。それは“もうひとつの物語”が凄惨な話だからではなく、“もうひとつの物語”が単に言葉で綴られるお話でしかないからだ。3Dであの幻想的な世界を体験したあとだけに、人の顔を見て話を聞くという行為が退屈なものに感じられるのだ。もちろんその構成が悪いわけではないのだ。“もうひとつの物語”は言わばどんでん返しなわけだけれど、それがどうでもいいものに思えるほど“トラと漂流する物語”が素晴らしかったということだ。
(*1) 人が空を飛べるならば、地面という平面(2D)を超えて、縦横無尽に移動できる立体的(3D)な空間表現が可能かもしれない。しかし、普通の人間は空を飛ぶことができない。『アバター』では空飛ぶ獣(?)の力を借りた空中戦が心地よかった。
(*2) ここでは逆に奥行きがなくなっているとも言える。平らな水面に空が映り込むだけだからだ。しかしプールのシーンにあったように、水のなかから青空の様子を捉えるシーンがあったからこそ、海と空がひとつになる幻想的世界が発見され、こうしたシーンが誕生したように感じられた。
アン・リー監督の作品
『アバター』の大成功以来、3D映画のご意見番として振舞っているジェームズ・キャメロンのお墨付きをいただいた3D作品。キャメロンに「これ以上の作品はない」と言わしめるほど、3D映画としての表現は圧倒的だ。単に物が飛び出るように見えるという効果を超えて、奥行きが感じられる画面構成は映画館で3Dとして体験しなければ味わえないものだ。

◆3D映画の表現
・トラが唸りながら近づいてくる手前には頑丈な鉄柵がガードしている
・荒れ狂う海を向こうに、激しい雨が降りかかってくる
・海に沈んだ少年の視線の向こう側を難破した船が沈んでいく
こうした場面でこそ3Dの奥行きある表現は活きてくる。手前にあるものと画面の奥にあるものを同時に捉え、それを立体的に感じさせるからだ。またプールのなかから青空を捉えた驚きのシーンでは、その水の透明さから、プールを泳ぐ人がまるで青空を飛んでいるようなシュールな画面を見せてくれる。
水のなかの世界を3Dで表現するという発想は成功だったと思う。通常、人は地面に重力で縛り付けられ、皆、同じ地平の上を行き来するわけだ。だが水のなかは違う。水の中では上下の区別があまり意味を持たないからだ。地上での平面上の動きに対して、水の中では立体的な動きが可能になるし、縦横無尽にどこにでも動き回ることができるからだ。だから映画の画面構成も立体的な表現になるだろう。(*1)
この映画では基本的には海の上を漂うパイ少年の姿が追われるのだが、その海が荒れ狂うとき、パイ少年を支えるべき海は静かな平面ではなくなる。海そのものが生き物のように蠢く存在になる。平面だった海は山のように盛り上がり、谷のように沈み、不安定で立体的な世界を構成する。またカメラも自由に動き回り、海の上から海のなかの世界に移行して、漂流するパイ少年だけでなく、魚たちが水のなかを泳ぎまわる姿を捉えていく。アン・リー監督が3Dでの表現を研究した成果は、観客に今まで見たこともない映像世界を見せてくれる。

『ライフ・オブ・パイ』の物語は、パイ少年がトラと漂流するサバイバル生活が中心になるが、サバイバルにも多少の余裕が生まれてくるとファンタジーの趣きが強くなる。プールのシーンによく表現されているように、海も空も渾然一体となった不思議な世界が広がっていく。
海が鏡面のようになるほどの凪の状態があるのかわからないが、ここでは海が空を映して、パイが漂っているのが海なのか空なのかわからなくなるほどだ。(*2)海と空の境界が無化されているのだ。さらに、幻想的な夜の場面では、光り輝くクラゲ(?)が星のようになり、もはや海も空もなく宇宙の暗闇のなかに星が輝くようなシーンになっている。そこではパイが乗る船は宇宙船のようにも見える。そしてパイは海の暗闇のなかに自分の幻想の世界を見ることになるのだ。
◆リチャード・パーカーとは? (以下、ネタばれあり)
パイと漂流することになるトラの名前は“リチャード・パーカー”だ。映画を観終わってから知ったことだが、この名前には特別な意味が込められているようだ。
リチャード・パーカーの名前の元ネタは?
上記の公式ホームページを見ればわかるように、海を漂流し続け最後には食べられることになってしまう、ふたりのリチャード・パーカー少年が重ねあわされているのだ。一人はエドガー・アラン・ポーの小説のなかの登場人物であり、もう一人は現実に起きた事件の被害者だ。
なぜこの少年の名前が選ばれたかと言えば、当然、パイ少年が体験したことがリチャード・パーカー少年の体験したことと似ていたからだろう。パイ少年が生き残れたのは、リチャード・パーカー少年とは異なり食べた側になるわけだ。トラがほかの乗組員(オラウータン、シマウマ、ハイエナなど)を食べたように、パイも同じことをせざるを得なかった。というよりもトラは、パイが生きるために自分のなかに見出した動物的な本能の象徴なのだろう。だから文明社会に戻る前にトラと別れなければならなかったのだ。
そうなると、映画の最後になって語られる“もうひとつの物語”こそが、パイの経験した事実ということになる。人喰い島のエピソードの奇妙さも、そうだとすれば納得できる。人の形をした島が人を喰らうというのは、もちろん人が人を喰う“カニバリズム”のことだからだ。そういう耐え難い経験をパイ少年なりに受け入れるために、あのような奇妙なファンタジーが産み出されなければならなかったわけだ。
ただそうした解釈が退屈になるほど、“トラと漂流する物語”は映像体験として圧倒的だった。やや冗長な前半部や“もうひとつの物語”を描く結末部を削ってしまったとしても、90分のファンタジー映画として成立するとも思える。
パイが訊ねる「どちらの物語が好き?」という質問には、やはり誰もが“トラと漂流する物語”を選ぶだろう。それは“もうひとつの物語”が凄惨な話だからではなく、“もうひとつの物語”が単に言葉で綴られるお話でしかないからだ。3Dであの幻想的な世界を体験したあとだけに、人の顔を見て話を聞くという行為が退屈なものに感じられるのだ。もちろんその構成が悪いわけではないのだ。“もうひとつの物語”は言わばどんでん返しなわけだけれど、それがどうでもいいものに思えるほど“トラと漂流する物語”が素晴らしかったということだ。
(*1) 人が空を飛べるならば、地面という平面(2D)を超えて、縦横無尽に移動できる立体的(3D)な空間表現が可能かもしれない。しかし、普通の人間は空を飛ぶことができない。『アバター』では空飛ぶ獣(?)の力を借りた空中戦が心地よかった。
(*2) ここでは逆に奥行きがなくなっているとも言える。平らな水面に空が映り込むだけだからだ。しかしプールのシーンにあったように、水のなかから青空の様子を捉えるシーンがあったからこそ、海と空がひとつになる幻想的世界が発見され、こうしたシーンが誕生したように感じられた。
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