『ビューティフル・デイ』 望んだ自分にはなれなくて
監督は『少年は残酷な弓を射る』などのリン・ラムジー。
原題は「You Were Never Really Here」。
カンヌ国際映画祭で男優賞(ホアキン・フェニックス)と脚本賞を獲得した作品。
前回取り上げた『ファントム・スレッド』と同様に、音楽はジョニー・グリーンウッドが担当している。

売春組織から少女を救い出す仕事を請け負って生計を立てているジョー(ホアキン・フェニックス)。過去のトラウマで自殺願望を抱くジョーは、ビニールを被り呼吸困難に自らを追いやるなど死に囚われた状態にある。それでも仕事をこなしているのは、老いた母(ジュディス・ロバーツ)がいるからで、母の存在だけがジョーをこの世に引き止めている。
断片的な映像からはジョーの過去に何があったのかを詳細に知ることは難しい。父親からの虐待や、軍人だったころの悲惨な光景、そんな場面が度々ジョーを襲っては苦しめている。この作品の原題は「You Were Never Really Here(あなたはここにいなかった)」であり、この言葉の指すものはジョーの置かれた状況ということだろう。ジョーは自殺願望で今そこに居ながらも、あの世を見ているようでもあるからだ。「心ここにあらず」というやつだろう。
そして、ジョーが助けることになるニーナ(エカテリーナ・サムソノフ)という少女も似たような立場にある。ニーナは売春組織に売られ酷い目に遭ったのか、ジョーがそこから救い出してもほとんど茫然自失の状態にあるのだ。

物語は助けたニーナを巡ってさらに血生臭い事態へと展開していくことになるのだが、監督リン・ラムジーが狙っているのは少女を助けるヒロイズムとか暴力描写にあるのではないようだ。
妙に印象に残るシーンがある。一度は助けたニーナはある男たちに奪い返され、ジョーの自宅では彼の母親も殺害されている。ジョーは母親を殺した男を問い詰めてニーナの居場所を吐かせることになるのだが、その場面がちょっと変わっている。
というのも、ジョーが男を残酷な方法で殺し、仇討ちをするわけではないからだ。この場面ではラジオから流れる「I've Never Been to Me」という曲を男が口ずさみつつ、ジョーの手を握りながら死んでいくのだ。
この曲は日本では「愛はかげろうのように」というタイトルで知られているもの。その歌詞は、夢のような生活をしたこともある女性が自らの過去を振り返って、それでも「本当のわたしにはなったことがない」と語るものだ。意訳をすれば、望んだ自分にはなれなかったということになるだろう。この歌詞が死んでいく男の気持ちを代弁しているのは言うまでもない。
死んでいく男は、ニーナを食い物にする大物政治家の依頼で仕事をしたものの、そのために自分が死ぬ羽目になる。少女を自分のものにしたいがためにあらゆる手段を使うおぞましい人間のために、なぜ自分が死ななければならないのか。そんな虚しさが「I've Never Been to Me」の歌詞と通じているわけで、その男がジョーの手を握ったのは、ジョーの置かれた状況(「You Were Never Really Here」)を察したからなのだろう。誰もがままならない人生を歩んでいるという部分で共通しているのだ。
この作品のラストには、一応「一筋の光」のようなものが見出せるのかもしれない。それは前作『少年は残酷な弓を射る』でも同様だった。ただ、ラストの「一筋の光」のほうに重きがあるようには思えないのだ。というのも、『少年は残酷な弓を射る』も『ビューティフル・デイ』も、全体的には圧倒的に嫌な気持ちになる作品だからだ。
この作品の日本版のタイトルは「ビューティフル・デイ」となっていて、これはニーナが外の景色を見てつぶやいた一言だ。それはあまりに唐突と言えば唐突で、逆説的な意味合いとも感じられた。たとえば「死ぬにはいい天気ね」とでも言っているかのように……。最後に「一筋の光」を見せているようでいて、そこまでの真っ暗闇を描きたかったというのがリン・ラムジーの本音なんじゃないだろうか。この暗さがちょっとクセになる。


原題は「You Were Never Really Here」。
カンヌ国際映画祭で男優賞(ホアキン・フェニックス)と脚本賞を獲得した作品。
前回取り上げた『ファントム・スレッド』と同様に、音楽はジョニー・グリーンウッドが担当している。

売春組織から少女を救い出す仕事を請け負って生計を立てているジョー(ホアキン・フェニックス)。過去のトラウマで自殺願望を抱くジョーは、ビニールを被り呼吸困難に自らを追いやるなど死に囚われた状態にある。それでも仕事をこなしているのは、老いた母(ジュディス・ロバーツ)がいるからで、母の存在だけがジョーをこの世に引き止めている。
断片的な映像からはジョーの過去に何があったのかを詳細に知ることは難しい。父親からの虐待や、軍人だったころの悲惨な光景、そんな場面が度々ジョーを襲っては苦しめている。この作品の原題は「You Were Never Really Here(あなたはここにいなかった)」であり、この言葉の指すものはジョーの置かれた状況ということだろう。ジョーは自殺願望で今そこに居ながらも、あの世を見ているようでもあるからだ。「心ここにあらず」というやつだろう。
そして、ジョーが助けることになるニーナ(エカテリーナ・サムソノフ)という少女も似たような立場にある。ニーナは売春組織に売られ酷い目に遭ったのか、ジョーがそこから救い出してもほとんど茫然自失の状態にあるのだ。

物語は助けたニーナを巡ってさらに血生臭い事態へと展開していくことになるのだが、監督リン・ラムジーが狙っているのは少女を助けるヒロイズムとか暴力描写にあるのではないようだ。
妙に印象に残るシーンがある。一度は助けたニーナはある男たちに奪い返され、ジョーの自宅では彼の母親も殺害されている。ジョーは母親を殺した男を問い詰めてニーナの居場所を吐かせることになるのだが、その場面がちょっと変わっている。
というのも、ジョーが男を残酷な方法で殺し、仇討ちをするわけではないからだ。この場面ではラジオから流れる「I've Never Been to Me」という曲を男が口ずさみつつ、ジョーの手を握りながら死んでいくのだ。
この曲は日本では「愛はかげろうのように」というタイトルで知られているもの。その歌詞は、夢のような生活をしたこともある女性が自らの過去を振り返って、それでも「本当のわたしにはなったことがない」と語るものだ。意訳をすれば、望んだ自分にはなれなかったということになるだろう。この歌詞が死んでいく男の気持ちを代弁しているのは言うまでもない。
死んでいく男は、ニーナを食い物にする大物政治家の依頼で仕事をしたものの、そのために自分が死ぬ羽目になる。少女を自分のものにしたいがためにあらゆる手段を使うおぞましい人間のために、なぜ自分が死ななければならないのか。そんな虚しさが「I've Never Been to Me」の歌詞と通じているわけで、その男がジョーの手を握ったのは、ジョーの置かれた状況(「You Were Never Really Here」)を察したからなのだろう。誰もがままならない人生を歩んでいるという部分で共通しているのだ。
この作品のラストには、一応「一筋の光」のようなものが見出せるのかもしれない。それは前作『少年は残酷な弓を射る』でも同様だった。ただ、ラストの「一筋の光」のほうに重きがあるようには思えないのだ。というのも、『少年は残酷な弓を射る』も『ビューティフル・デイ』も、全体的には圧倒的に嫌な気持ちになる作品だからだ。
この作品の日本版のタイトルは「ビューティフル・デイ」となっていて、これはニーナが外の景色を見てつぶやいた一言だ。それはあまりに唐突と言えば唐突で、逆説的な意味合いとも感じられた。たとえば「死ぬにはいい天気ね」とでも言っているかのように……。最後に「一筋の光」を見せているようでいて、そこまでの真っ暗闇を描きたかったというのがリン・ラムジーの本音なんじゃないだろうか。この暗さがちょっとクセになる。
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