『つやのよる ある愛に関わった、女たちの物語』 行定勲監督の群像劇
自由奔放に生きた艶 という女が死の床にいる。夫の松生は艶を殺そうと病室に赴くが、結局それを実行することはできない。代わりに艶の過去の男たちに連絡をすることで復讐しようとする。その行為は、ほかの男と比べて自分の愛情が一番だったということを確認するためだった。

『つやのよる』では、映画の題名にもなっている艶の顔を拝む機会はない。“不在の人物”について関係者の証言で綴られていく物語というのは珍しくはない。行定勲作品で言えば『ひまわり』(*1)がそうした構成だった。
『ひまわり』では、海難事故で亡くなった朋美の過去の男たちが、自分の知っている朋美の姿を語ることになる。それぞれの男が知るのは朋美のある一面に過ぎず、ほかの男が語る想い出は自分の知らない朋美であり、それは彼女を謎めいた存在にする。
これは行定監督の群像劇『パレード』のキーワードを借りるとよりわかりやすい。『パレード』においては、“ユニバース(Universe)”と“マルチバース(Multiverse)”という言葉が示される。(*2)“ユニバース”とはひとつの世界、“マルチバース”とはいくつもの世界だ。人はさまざまな関係のなかに生きている。A氏との関係のなかにある自分と、Bさんとの関係のなかにある自分は違う世界を生きている。また、誰にも見られていない世界での自分も存在し、他人との関係にある自分とは異なる世界を持っている。だから“マルチバース”という世界観では、完全に把握された人物像なんてものは存在しないのだ。
だから『ひまわり』の朋美は謎めき、完全な形で人物像が把握されることはない。それでもそれぞれの関係(世界)における朋美の姿が積み重なることで、居なくなってしまった朋美のおぼろげな人物像が浮かび上がることになる。
『つやのよる』では、艶は最初から死の床にあり、人工呼吸器につながれていて顔も見えない。この映画は艶についての映画ではない。とは言え、松生( (阿部寛)という艶の夫を巡る話でもない。艶と関係のあった男たちの語る想い出でもない。この映画は、艶の男たちの側( にいる、女についての話なのだ。
『ひまわり』では不在でありながら朋美がその中心を占めていた。そして朋美の男たちはその周りを取り囲んでいた。『つやのよる』では中心には艶がいる。その周囲は男たちが取り囲んでいるが、それぞれのエピソードの主役になるのは、その男たちよりさらも外側にいる女たちなのだ。
つまりそれぞれのエピソードの主役となる女からすれば、艶は直接の関係ではなく、その間にそれぞれの男を介して結びついてくる間接的なものでしかないのだ。女たちはそれぞれの男が艶の危篤という報を受けての反応を見守る。そして艶という女の存在に思いを巡らせることになる。
『つやのよる』の章立てを記せば上記のようになるだろうか。
行定監督は原作の文庫版に解説を寄せ、それぞれの章を次のように要約している。第1章「意地」、第2章「期待」、第3章「失望」、第4章「悲哀」、第5章「寛容」。それぞれの関係もさまざまだから、抱く感情もさまざまでとりとめがない。まとめてしまえば“人生いろいろ、女もいろいろ”みたいな凡庸なものにしかならない。そうなると『つやのよる』は単なるオムニバス映画に過ぎないのかとも思える。
松生の台詞にこんな言葉があった。「そんなところを探しても何も見つからないぞ」。海のそばの水溜りで釣りをする少年に向かって、松生が投げかける言葉だ。この台詞のように、『つやのよる』という映画に何らかの意味を探そうとするのは徒労なのかもしれない。しかしラストの視点の変化で、“人生いろいろ”とは別の意味が浮かび上がってきたように思えた。
小泉今日子や野波麻帆のエピソードは、ほとんど艶とは関係のない遠い場所での出来事だ。風吹ジュンのエピソードでは艶に会いに行く場面が登場し、真木よう子のエピソードでは艶の狂気を目撃する場面もある。映画が進むにつれ、中心にある艶に近づいていく。第5章のエピソードでは松生が当事者になる。艶と駆け落ちをして、妻子を捨てたのは松生なのだ。
大竹しのぶと忽那汐里の親子は艶に会いに、艶と松生が流れ着いた大島まで足を延ばす。松生を奪った女と奪われた元妻との対面の際、元妻(大竹しのぶ)は艶の寝巻きをはだける。その小ぶりな胸にはいくつもの歯形がついている。これは松生の性的嗜好の結果なのかもしれないし、愛していても同時に殺したいほど憎んでもいることが傷として表現されているのかもしれない。しかし、その傷を見て元妻が何を思うのかまではわからない。捨てられた妻子と松生の再会においても情に訴えるようなこともなく、ややコミカルな調子で修羅場は回避されてしまうからだ(元妻は寛容で松生を問い質す気はないようだ)。
艶の存在は、男を介してそれぞれの女の感情の発露のきっかけとはなるが、艶自身についてはほとんど何もわからないまま。『ひまわり』では想い出が朋美の姿を再構築するが、艶については空白なのだ。
そしてラストシーンだ。それは艶の視点から撮られている。それまで見守る対象であり、思いを巡らす対象であり、やっかい事の発生源であり嫌悪の対象でもあった艶の側に視点が移行するのだ。死者となり横たわる艶からは、棺桶の覗き窓を通して天井が見えている。その覗き窓から松生たちが様子を窺うように、おずおずといった雰囲気で視線を向けてくるのだ。
関係というのは、例えば艶と松生との間に( 生じるものだ。映画の表現においては、(松生の視点であるカメラが)艶を見つめ続けるだけでは関係は描けない。艶を見つめる松生が、艶によって見つめ返されるとき、そこに関係が描かれたと言えるだろう。
観客は、中心にいるが顔の見えない艶のことを探している。結局、それは見つからない。しかしラストで探していたもの(艶)に視点が転換することで、探している側にいる松生たちの視線を見つめてしまうのだ。ここに艶と松生の関係性が描かれている。さらにはそれぞれのエピソードの見えない中心であった艶を巡る、関係の網の目みたいなものを感じさせるのだ。『つやのよる』では、そうした人と人との関係性そのものが描かれているのではないだろうか。
ただ個々のエピソードについては物足りない部分があるのも否めない。小泉今日子と荻野目慶子の激しいやり合いとか、野波麻帆のお尻とか、得体の知れない岸谷五朗の雰囲気とか、中心にある艶とはほど遠い場所でのエピソードが印象に残ってしまうのはちょっと残念な気もする。
(*1) 過剰にノスタルジックで幾分かファンタジックな『ひまわり』は大好きな映画だ。白いワイシャツが光輝くような場面など、光をふんだんに取り入れた撮影は素晴らしいし、何より朋美を演じる麻生久美子が美しく撮られている。
一方、『つやのよる』では、艶の顔はまったく見ることができないのだが、それ演じているのは『朱花の月』の大島葉子とのこと。
(*2) ちなみにこのキーワードは吉田修一の原作小説には登場しない。行定監督の群像劇映画の成果から導き出されてきたものと思われる。
行定勲の作品

『つやのよる』では、映画の題名にもなっている艶の顔を拝む機会はない。“不在の人物”について関係者の証言で綴られていく物語というのは珍しくはない。行定勲作品で言えば『ひまわり』(*1)がそうした構成だった。
『ひまわり』では、海難事故で亡くなった朋美の過去の男たちが、自分の知っている朋美の姿を語ることになる。それぞれの男が知るのは朋美のある一面に過ぎず、ほかの男が語る想い出は自分の知らない朋美であり、それは彼女を謎めいた存在にする。
これは行定監督の群像劇『パレード』のキーワードを借りるとよりわかりやすい。『パレード』においては、“ユニバース(Universe)”と“マルチバース(Multiverse)”という言葉が示される。(*2)“ユニバース”とはひとつの世界、“マルチバース”とはいくつもの世界だ。人はさまざまな関係のなかに生きている。A氏との関係のなかにある自分と、Bさんとの関係のなかにある自分は違う世界を生きている。また、誰にも見られていない世界での自分も存在し、他人との関係にある自分とは異なる世界を持っている。だから“マルチバース”という世界観では、完全に把握された人物像なんてものは存在しないのだ。
だから『ひまわり』の朋美は謎めき、完全な形で人物像が把握されることはない。それでもそれぞれの関係(世界)における朋美の姿が積み重なることで、居なくなってしまった朋美のおぼろげな人物像が浮かび上がることになる。
『つやのよる』では、艶は最初から死の床にあり、人工呼吸器につながれていて顔も見えない。この映画は艶についての映画ではない。とは言え、
『ひまわり』では不在でありながら朋美がその中心を占めていた。そして朋美の男たちはその周りを取り囲んでいた。『つやのよる』では中心には艶がいる。その周囲は男たちが取り囲んでいるが、それぞれのエピソードの主役になるのは、その男たちよりさらも外側にいる女たちなのだ。
つまりそれぞれのエピソードの主役となる女からすれば、艶は直接の関係ではなく、その間にそれぞれの男を介して結びついてくる間接的なものでしかないのだ。女たちはそれぞれの男が艶の危篤という報を受けての反応を見守る。そして艶という女の存在に思いを巡らせることになる。
第1章 「艶の最初の男の妻」 小泉今日子
第2章 「艶の最初の夫の恋人」 野波麻帆
第3章 「艶の浮気相手の妻」 風吹ジュン
第4章 「艶にストーカーされていた男の恋人」 真木よう子
第5章 「艶と駆け落ちした男の妻子」 大竹しのぶ/忽那汐里
『つやのよる』の章立てを記せば上記のようになるだろうか。
行定監督は原作の文庫版に解説を寄せ、それぞれの章を次のように要約している。第1章「意地」、第2章「期待」、第3章「失望」、第4章「悲哀」、第5章「寛容」。それぞれの関係もさまざまだから、抱く感情もさまざまでとりとめがない。まとめてしまえば“人生いろいろ、女もいろいろ”みたいな凡庸なものにしかならない。そうなると『つやのよる』は単なるオムニバス映画に過ぎないのかとも思える。
松生の台詞にこんな言葉があった。「そんなところを探しても何も見つからないぞ」。海のそばの水溜りで釣りをする少年に向かって、松生が投げかける言葉だ。この台詞のように、『つやのよる』という映画に何らかの意味を探そうとするのは徒労なのかもしれない。しかしラストの視点の変化で、“人生いろいろ”とは別の意味が浮かび上がってきたように思えた。
小泉今日子や野波麻帆のエピソードは、ほとんど艶とは関係のない遠い場所での出来事だ。風吹ジュンのエピソードでは艶に会いに行く場面が登場し、真木よう子のエピソードでは艶の狂気を目撃する場面もある。映画が進むにつれ、中心にある艶に近づいていく。第5章のエピソードでは松生が当事者になる。艶と駆け落ちをして、妻子を捨てたのは松生なのだ。
大竹しのぶと忽那汐里の親子は艶に会いに、艶と松生が流れ着いた大島まで足を延ばす。松生を奪った女と奪われた元妻との対面の際、元妻(大竹しのぶ)は艶の寝巻きをはだける。その小ぶりな胸にはいくつもの歯形がついている。これは松生の性的嗜好の結果なのかもしれないし、愛していても同時に殺したいほど憎んでもいることが傷として表現されているのかもしれない。しかし、その傷を見て元妻が何を思うのかまではわからない。捨てられた妻子と松生の再会においても情に訴えるようなこともなく、ややコミカルな調子で修羅場は回避されてしまうからだ(元妻は寛容で松生を問い質す気はないようだ)。
艶の存在は、男を介してそれぞれの女の感情の発露のきっかけとはなるが、艶自身についてはほとんど何もわからないまま。『ひまわり』では想い出が朋美の姿を再構築するが、艶については空白なのだ。
そしてラストシーンだ。それは艶の視点から撮られている。それまで見守る対象であり、思いを巡らす対象であり、やっかい事の発生源であり嫌悪の対象でもあった艶の側に視点が移行するのだ。死者となり横たわる艶からは、棺桶の覗き窓を通して天井が見えている。その覗き窓から松生たちが様子を窺うように、おずおずといった雰囲気で視線を向けてくるのだ。
関係というのは、例えば艶と松生
観客は、中心にいるが顔の見えない艶のことを探している。結局、それは見つからない。しかしラストで探していたもの(艶)に視点が転換することで、探している側にいる松生たちの視線を見つめてしまうのだ。ここに艶と松生の関係性が描かれている。さらにはそれぞれのエピソードの見えない中心であった艶を巡る、関係の網の目みたいなものを感じさせるのだ。『つやのよる』では、そうした人と人との関係性そのものが描かれているのではないだろうか。
ただ個々のエピソードについては物足りない部分があるのも否めない。小泉今日子と荻野目慶子の激しいやり合いとか、野波麻帆のお尻とか、得体の知れない岸谷五朗の雰囲気とか、中心にある艶とはほど遠い場所でのエピソードが印象に残ってしまうのはちょっと残念な気もする。
(*1) 過剰にノスタルジックで幾分かファンタジックな『ひまわり』は大好きな映画だ。白いワイシャツが光輝くような場面など、光をふんだんに取り入れた撮影は素晴らしいし、何より朋美を演じる麻生久美子が美しく撮られている。
一方、『つやのよる』では、艶の顔はまったく見ることができないのだが、それ演じているのは『朱花の月』の大島葉子とのこと。
(*2) ちなみにこのキーワードは吉田修一の原作小説には登場しない。行定監督の群像劇映画の成果から導き出されてきたものと思われる。
![]() |


- 関連記事
-
- 映画『横道世之介』 “普通の人”と“『YES』って言ってるような人”
- 『つやのよる ある愛に関わった、女たちの物語』 行定勲監督の群像劇
- 『青いソラ白い雲』 「そのうちなんとかなるだろう」という希望のあり方
スポンサーサイト
この記事へのコメント: