『別離』 信仰心と“答えのない問い”
ベルリン国際映画祭金熊賞やアカデミー賞外国語映画賞など多くの賞を獲得したイラン映画。監督・脚本はアスガー・ファルハディ。昨年末にDVDが発売された。
ナデルは妻のシミンと離婚協議中。シミンは実家に戻ってしまったものだから、アルツハイマーの父の介護のため人が雇われることになる。雇われたラジエーはある事情で家を留守にせざるを得なくなり、トラブルが起きる。ナデルが家に帰ると、部屋には手を拘束された父親がベッドから落ちて気を失っている。しばらくして戻ってきたラジエーにナダルは激怒する。そして家から手荒く追い出すのだが、その夜にラジエーが流産したことが判明し、それぞれの家族を巻き込んでの裁判ざたになるが……。
『別離』における裁判の争点としては、ナデルがラジエーの妊娠を知っていたか、なぜラジエーは仕事を放り出して外出したのかなど色々挙げられる。しかしそれらが明らかになったとしても、裁判の行く末がこの映画の主題ではない。
「はじまりは、愛するものを守るための些細な“嘘”だった―。」というのが宣伝文句だ。ナデルは家族のために嘘をつく。ラジエーには語っていない重要な出来事がある。どちらも悪人ではないし、それなりの言い分があることもわかる。結局、物事がきれいに片付くこともないのだ。
脚本が巧みで、あえて途中まで語られない場面は謎となり、最後まで引き込まれる。演出に派手な要素はないが、裁判ざたの双方の状況をバランスよく配分して、“答えのない問い”というものを感じさせる。そして“大人のけんか”に巻き込まれる子供たちの姿には泣かされるだろう。
ここでは二つの家族の比較し、信仰の面から考えてみたい。ラジエーたち家族は敬虔なムスリム(イスラム教徒)である。イスラム教ではコーランが最も重要な法源だが、日常生活など幅広くムスリムに関する決まりを定めたシャリーア(イスラム法)という法体系があるのだという。そうしたシャリーアに精通した人はウラマー(イスラム法学者)と呼ばれ、ムスリムの指導的立場にある。ラジエーは「介護の場面で異性の服を脱がせてもいいか否か」をわざわざ電話で確認している。シャリーアはムスリムにとっての生きていく上での指針になっているのだ。
他方で、ナデル夫婦が提案した妥協を受け入れられないような窮屈さも敬虔なムスリムにはある。流産の原因がナデルの行為にあると「コーランに誓って」ほしいと言われ、ラジエーはどうしても誓うことができない。流産の原因については秘密にしている出来事が関係している可能性が高く、つまりはナデルの行為は直接の原因ではないことになるからだ。この場面で、ラジエーがただ一言「原因はナデルに突き飛ばされたから」と嘘がつければ、結果的に事態は丸く収まっただろう。示談は成立し慰謝料が受け渡され、双方ともに元の生活に戻るのだ。しかしそれは敬虔なムスリムにとって神に背く行為であり、自分や家族の身に災いが降りかかることを恐れてもいるから妥協できない部分なのだ。このようにムスリムにとって信仰は指針にもなるが、同時に足かせにもなっている。(*1)
それに対してナデルの家族はどうか。ナデルたちはラジエーほど信仰心が厚いわけではない。宗教に縛られていない分、進歩的で自由にも見える。ナデルは家族を守るために嘘もつくし、そのことで天罰が下るというような迷信も持っていない。
とは言っても、宗教に縛られないことがいいというわけでもない。例えば、ナデルは妻シミンとの復縁を娘に懇願され、一度は誓いを立てるものの、すぐにそれを反故にしてしまう。単にプライドが許さなかったのだろう。ナデルは宗教には縛られていないが、自分の指針だけに凝り固まった頑固さがあるのだ。
離婚の協議においてもそうだ。ナデルとシミンのふたりは宗教のくびきがない分自由だ。ラジエーのように誰かに助言を乞うこともなく、自ら考え自ら行動する。ナデルは父親の介護のためイランに留まることを選択し、シミンは娘のために国外に移住することを望む。それぞれ自分の勝手な考えに固執している。ふたりが共通に進むべき指針は見当たらないように思える。
そして、ふたりは自らが理性的に決めたことは正しいはずという思い込みから、娘にも自ら判断することを求める。また絶対的な正しさはないという考え方からか、自分の意見を押し付けたりする強引さもないのだ。自由な分まったく方向性が定まっておらず、娘テルメーには残酷な問いが投げかけられることになる。

『別離』では、テルメーが決断を迫られる問いが何度か登場する。まず「住みたい場所に住め」と父母のどちらかを選択させるのだが、この段階では母が家に戻る可能性を秘めていたために、テルメーは祖父もいる父の家で待つことができた。また「僕の過失だと思うならママを呼べ」という父の問いかけも、「父の過失ではない」と信じていることを示すために「ママを呼ばない」という選択肢があった。だが離婚が決定したラストでの問いにそうした逃げ道はありそうにない。
結局、ナデルとシミンは離婚を決める。テルメーは「どちらと暮らすか」と判事に問いかけられる。(*2)ラストシーンは、廊下に出て娘の答えを待つ父と母の姿で終わる。ふたりは距離を取って、目も合わせようとしない。ただ答えが出るのを待っている。余韻が残り考えさせられる素晴らしいラストだ。
それにしてもテルメーにその答えが出せるのだろうか。冒頭の離婚協議にしても、映画の中心にある裁判ざたもそうだが、こうした問題には正しい答えなどありそうにない。ウラマー(イスラム法学者)の知恵を頼れば、様々な法源を繙いて答えを出してくれるだろうが、それはあくまで現実的な対処の仕方に過ぎないのは言うまでもない。本当に正しい答えなんて“神のみぞ知る”というやつだろう。
(*1) 「コーランに誓って」という宣誓は、敬虔なムスリムには最終的な結論となり、それ以上追求することはできない決定的なものであるようだ。少々短気なホッジャット(ラジエーの夫)も「コーランに誓って」宣誓されたことに疑義を言い出すことはなく、それ以上追求はしない。また「コーランに誓って」と言いながらも、ナデルを守るために嘘をつくことになってしまった教師は、その後ナデルに会ってくれなくなってしまう。信仰者としての後悔がそうさせているのだろう。
(*2) これとは逆の立場だが、親がどちらかの子供を選ぶという決断を迫られる『ソフィーの選択』においては、その決断は一生の傷として残るものになった。どちらかを選ぶなんてできそうにない。これもやはり“答えのない問い”だ。
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『別離』における裁判の争点としては、ナデルがラジエーの妊娠を知っていたか、なぜラジエーは仕事を放り出して外出したのかなど色々挙げられる。しかしそれらが明らかになったとしても、裁判の行く末がこの映画の主題ではない。
「はじまりは、愛するものを守るための些細な“嘘”だった―。」というのが宣伝文句だ。ナデルは家族のために嘘をつく。ラジエーには語っていない重要な出来事がある。どちらも悪人ではないし、それなりの言い分があることもわかる。結局、物事がきれいに片付くこともないのだ。
脚本が巧みで、あえて途中まで語られない場面は謎となり、最後まで引き込まれる。演出に派手な要素はないが、裁判ざたの双方の状況をバランスよく配分して、“答えのない問い”というものを感じさせる。そして“大人のけんか”に巻き込まれる子供たちの姿には泣かされるだろう。
ここでは二つの家族の比較し、信仰の面から考えてみたい。ラジエーたち家族は敬虔なムスリム(イスラム教徒)である。イスラム教ではコーランが最も重要な法源だが、日常生活など幅広くムスリムに関する決まりを定めたシャリーア(イスラム法)という法体系があるのだという。そうしたシャリーアに精通した人はウラマー(イスラム法学者)と呼ばれ、ムスリムの指導的立場にある。ラジエーは「介護の場面で異性の服を脱がせてもいいか否か」をわざわざ電話で確認している。シャリーアはムスリムにとっての生きていく上での指針になっているのだ。
他方で、ナデル夫婦が提案した妥協を受け入れられないような窮屈さも敬虔なムスリムにはある。流産の原因がナデルの行為にあると「コーランに誓って」ほしいと言われ、ラジエーはどうしても誓うことができない。流産の原因については秘密にしている出来事が関係している可能性が高く、つまりはナデルの行為は直接の原因ではないことになるからだ。この場面で、ラジエーがただ一言「原因はナデルに突き飛ばされたから」と嘘がつければ、結果的に事態は丸く収まっただろう。示談は成立し慰謝料が受け渡され、双方ともに元の生活に戻るのだ。しかしそれは敬虔なムスリムにとって神に背く行為であり、自分や家族の身に災いが降りかかることを恐れてもいるから妥協できない部分なのだ。このようにムスリムにとって信仰は指針にもなるが、同時に足かせにもなっている。(*1)
それに対してナデルの家族はどうか。ナデルたちはラジエーほど信仰心が厚いわけではない。宗教に縛られていない分、進歩的で自由にも見える。ナデルは家族を守るために嘘もつくし、そのことで天罰が下るというような迷信も持っていない。
とは言っても、宗教に縛られないことがいいというわけでもない。例えば、ナデルは妻シミンとの復縁を娘に懇願され、一度は誓いを立てるものの、すぐにそれを反故にしてしまう。単にプライドが許さなかったのだろう。ナデルは宗教には縛られていないが、自分の指針だけに凝り固まった頑固さがあるのだ。
離婚の協議においてもそうだ。ナデルとシミンのふたりは宗教のくびきがない分自由だ。ラジエーのように誰かに助言を乞うこともなく、自ら考え自ら行動する。ナデルは父親の介護のためイランに留まることを選択し、シミンは娘のために国外に移住することを望む。それぞれ自分の勝手な考えに固執している。ふたりが共通に進むべき指針は見当たらないように思える。
そして、ふたりは自らが理性的に決めたことは正しいはずという思い込みから、娘にも自ら判断することを求める。また絶対的な正しさはないという考え方からか、自分の意見を押し付けたりする強引さもないのだ。自由な分まったく方向性が定まっておらず、娘テルメーには残酷な問いが投げかけられることになる。

『別離』では、テルメーが決断を迫られる問いが何度か登場する。まず「住みたい場所に住め」と父母のどちらかを選択させるのだが、この段階では母が家に戻る可能性を秘めていたために、テルメーは祖父もいる父の家で待つことができた。また「僕の過失だと思うならママを呼べ」という父の問いかけも、「父の過失ではない」と信じていることを示すために「ママを呼ばない」という選択肢があった。だが離婚が決定したラストでの問いにそうした逃げ道はありそうにない。
結局、ナデルとシミンは離婚を決める。テルメーは「どちらと暮らすか」と判事に問いかけられる。(*2)ラストシーンは、廊下に出て娘の答えを待つ父と母の姿で終わる。ふたりは距離を取って、目も合わせようとしない。ただ答えが出るのを待っている。余韻が残り考えさせられる素晴らしいラストだ。
それにしてもテルメーにその答えが出せるのだろうか。冒頭の離婚協議にしても、映画の中心にある裁判ざたもそうだが、こうした問題には正しい答えなどありそうにない。ウラマー(イスラム法学者)の知恵を頼れば、様々な法源を繙いて答えを出してくれるだろうが、それはあくまで現実的な対処の仕方に過ぎないのは言うまでもない。本当に正しい答えなんて“神のみぞ知る”というやつだろう。
(*1) 「コーランに誓って」という宣誓は、敬虔なムスリムには最終的な結論となり、それ以上追求することはできない決定的なものであるようだ。少々短気なホッジャット(ラジエーの夫)も「コーランに誓って」宣誓されたことに疑義を言い出すことはなく、それ以上追求はしない。また「コーランに誓って」と言いながらも、ナデルを守るために嘘をつくことになってしまった教師は、その後ナデルに会ってくれなくなってしまう。信仰者としての後悔がそうさせているのだろう。
(*2) これとは逆の立場だが、親がどちらかの子供を選ぶという決断を迫られる『ソフィーの選択』においては、その決断は一生の傷として残るものになった。どちらかを選ぶなんてできそうにない。これもやはり“答えのない問い”だ。
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