『The Beguiled/ビガイルド 欲望のめざめ』 ソフィア女子学園の余計なもの
1971年のクリント・イーストウッド主演の『白い肌の異常な夜』(監督ドン・シーゲル)のリメイク。
カンヌ国際映画祭で監督賞を受賞した作品。

南北戦争時代のバージニア州。マーサ・ファーンズワース女子学園に傷を負った北軍兵士マクバニー(コリン・ファレル)がやってくる。敵側の男とはいえ、瀕死の傷を負った兵士を見捨てるわけにもいかず、傷が回復するまで面倒を見ることになる。女だけの学園に闖入した男によって、女だけで保たれていた学園の秩序が乱されていくことに……。
キノコと一緒にマクバニーを森で拾ってきたエイミー(ウーナ・ローレンス)にとっては彼はペットみたいなものだったかもしれないし、ほかの一部の少女にとっては危険な敵(ヤンキー)でしかないかもしれないし、マーサ園長にとっては厄介事だったのかもしれない。しかし、それと同時に戦争に味方の男を取られた時代にあっては、マクバニーの存在は女たちの欲望を駆り立てるきっかけにもなる。マーサ園長(ニコール・キッドマン)も介抱をしながらも男の肉体になまめかしいものを感じているようだし、ませたアリシア(エル・ファニング)は積極的に迫ろうとする。そして男を知らないらしい教員のエドウィナ(キルスティン・ダンスト)も気が気ではない。

この作品は一部でホワイトウォッシングだとして批判されているのだという。というのは『白い肌の異常な夜』には登場していた黒人奴隷の存在が省かれているからだろう。ただ、この作品で省かれているのは黒人奴隷だけではない。上映時間は『白い肌の異常な夜』が105分に対し『ビガイルド』は93分。余計なものをそぎ落とした作品になっているのだ。
『白い肌の異常な夜』から削られたのは多い。園長マーサの過去(兄との近親相姦)もまったく消されているし、マクバニーが絵画のなかのキリストと重ね合わせられる官能的なシーンもない。これらを削ったのは、ソフィア・コッポラが自分の望むように女たちを戯れさせるためには邪魔だったということなのだろう。
ソフィア・コッポラはもともと社会問題とかよりは、『SOMEWHERE』でも描かれたようなミニマルな自分の世界のほうに関心があるのだろうと思う。『マリー・アントワネット』ですらほとんど歴史を感じさせず、きらびやかな女の子の世界だったし……。
白を基調とした衣装を身にまとった女性たちが戯れている様子を見ていると、ソフィア・コッポラがやりたかったのは『ピクニックatハンギング・ロック』なんじゃないだろうかとも思えた(振り返ってみると『ヴァージン・スーサイズ』すらその影響下にあるのかもしれない)。白へのこだわりは徹底的で、彼女たちが最後に編み上げることになるある物すらも、かわいらしい純白に仕上げられることになる(『白い肌の異常な夜』のその色とは対照的に)。
そんな世界では男っぽい男は不要とでもいうのか、普段はもっと男臭いコリン・ファレルもこの作品では好青年といった印象に留まっている。ソフィア・コッポラにとっては女たちの世界こそが重要なのであって、夾雑物を取り除いて彼女好みの統一感を出すことが必要だったのだろう。その分、こじんまりとしてしまった感じは否めないのだけれど……。
ソフィア・コッポラが自分を重ねていると思われるキルスティン・ダンストはこの作品でも重要な位置にいるけれど、役づくりなのか年増感が著しいような。
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