『リバーズ・エッジ』 ラストの解放感?
監督は『GO』『世界の中心で、愛をさけぶ』『円卓』などの行定勲。
原作は岡崎京子の代表作とされる作品とのこと。一応、私自身もどこかで読んだ記憶はあるのだけれど、リアルタイムではなかったし、内容に関してはほぼ忘れていた。映画の最後にウィリアム・ギブソンの名前が出てきたときになって、ようやく“平坦な戦場”という言葉を急に思い出したけれど……。

女子高生の若草ハルナ(二階堂ふみ)は恋人・観音崎にいじめられている山田一郎(吉沢亮)を助けたことから、山田が大切にしている宝物を見せてもらうことになる。それは河原の藪のなかで見つけた死体だった。
◆“平坦な戦場”のキツさ
この作品が舞台としている90年代がどんな時代だったのか。そんなことはわからないけれど、“平坦な戦場”という感覚は、多くの若者が持ち合わせていたものだったのかもしれないとも思う。
原作が連載されたのが1993年~94年。その後の95年には、地下鉄サリン事件が起きている。それを論じた本のなかで、社会学者の宮台真司は“終わりなき日常”というキーワードを使ったのだけれど、これは“平坦な戦場”とも通じ合う言葉だろう。大雑把にまとめれば、オウム信者たちが“終わりなき日常”に耐え切れなくなったことが事件へとつながるひとつの要因となっているということになるだろう。なぜ耐え切れないかと言えば、“終わりなき日常”はキツいからだ。
『リバーズ・エッジ』では、普通の高校生ではあり得ないような出来事が次々と起きる。到底“平坦”とは言えない“過酷”な戦場とも思える。山田一郎はいじめられているし、いじめる側の観音崎(上杉柊平)も家庭環境に問題を抱えている。山田と一緒に死体を宝物としているこずえ(SUMIRE)は摂食障害であり、小山ルミ(土居志央梨)は妊娠してしまう。
そんななかで周囲のトラブルに巻き込まれることになるハルナだけは取り立てて問題がないようにも見える。ただ、ハルナはほとんど感情的になるところがない。子猫が殺されたときには号泣するけれど、あとはタバコを吸いながら醒めた目で周りを見ている。観音崎と浮気相手のルミのセックスが濃厚なものだったのに比べ、観音崎とハルナのセックスの味苦なさにもよく表れているように、ハルナがその大きな目で見つめているのは日々の“ダルさ”なのだ。“平坦な戦場”のキツさは、この“ダルさ”にこそあるんじゃないだろうか。
山田やこずえが死体を宝物としているのは、どのみちすべてがご破算になるという事実から勇気をもらったり、キレイぶった世の中に対してザマアミロと感じさせてくれるからでもある。そしてまた“平坦”な日常に一瞬でも風穴を開ける何かを求めていたからでもあるのだろう。山田がもうひとつの死体に出会ったときの歓喜の表情にはそんな気持ちが表れていた。しかし現実には死体はその辺に転がっているわけではないし、戦場とも言える“平坦”な日々が続いていくことになる。

◆ラストの解放感?
この映画で原作漫画にはなく、映画独自に付け加えられているのがインタビュー・シーンだ。インタビュアーの質問に答えているのは登場人物でもあり、それを演じる役者そのものでもある。役者は登場人物になりきって答えているはずなのだけれど、インタビュアーは自由な質問を投げかけ、それに対する答えが用意されているわけでもない。だから田島カンナを演じた森川葵のように言葉に詰まってしまうような場合もある。行定監督には原作が描いた90年代と現在とを、それを演じる若者の言葉によってつなげる意図があったようだ。
個人的にはこのインタビュー・シーンには、インタビュアーである大人と答える側にいる若者との隔たりのようなものを感じた。インタビュアーはスクリーンの外にいるために見えることはないけれど、その声は行定監督のものなのだという(そのツッコミが『A』などの森達也のように思えたのだけれど)。
インタビュアーの質問はやや抽象的でもあり、的外れとは言わないまでも、若者たちの気持ちを掬い取るには至っていない。というよりも若者にとってインタビュアーのような大人は、自分たちと同じ戦場を生き抜いた先達とは見えていないのかもしれない。
この映画のなかでは学校が舞台となっているにも関わらず、先生の姿は授業中にちょっとだけ見られるくらいで、みんなが授業をサボり、屋上でタバコをふかしていても一切注意されることもない。大人の気配がほとんどないのだ。自分たちとは違う世界に住む大人に、若者が感じている何かをうまく説明できるはずもないのかもしれない。
そして不思議だったのがラストで、ここではすべての事件が終わった後、ハルナと山田とが川に架かる橋の上で語り合う。山田とハルナの間には死体を通じた奇妙なつながりが芽生えているけれど、だからと言ってハルナが安堵のような涙を見せる理由が私にはいまひとつ掴めなかった。私自身が若者の心を理解しないような大人になってしまったということなのかもしれないのだけれど、それだけではなくハルナ自身にもうまく説明できないような感情だったのかもしれないとも思う。
ラストシーンではそれまで狭苦しいスタンダードサイズだったスクリーンが、ビスタサイズになっていたのだという(雑誌『映画芸術』の監督インタビューによる)。カットが切り替わる瞬間にサイズが変わるために、多くの観客は気がつかないようだ(私もまったく気がつかなかった)。けれどもスクリーンサイズの変更によって、ラストに妙な開放感があったことは確か。それによってハルナはちょっとだけ“ダルさ”からも解放されたようにも感じられ、その後に続く小沢健二が希望を込めて書き上げた曲もそれを後押ししていた。
大人側にいる行定監督としては、若者の気持ちの機微はうまくわからなくとも、映画のテクニックでそれを伝えようとしたということなのかもしれない。もっとも、簡単に伝わるようなことならば岡崎京子は漫画を描かなかっただろうし、行定勲もそれを映画にしようともしないだろうとも思う。
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