『砂漠でサーモン・フィッシング』 フェイスとフィッシングはよく似ている
ラッセ・ハルストレム監督、ユアン・マクレガー主演作品。原作はイギリスではベスト・セラーになったという『イエメンで鮭釣りを』。

伊坂幸太郎『砂漠』では「その気になればね、砂漠に雪を降らすことだって、余裕でできるんですよ」なんて言うが、これはレトリックに過ぎなかった。「その気になれば」何だって可能だということの誇張された表現だ。実際に砂漠に雪が降ったりはしない。しかし『砂漠でサーモン・フィッシング』においては、この題名はレトリックじゃない。本当に砂漠でサーモンを釣ってしまおうとするのだ。
まず水産学者ジョーンズ博士(ユアン・マクレガー)にメールが届く。イエメンの大富豪の代理人ハリエット(エミリー・ブラント)からだった。大富豪が砂漠で鮭が釣りたいと考えている、ついては是非とも博士の協力を仰ぎたい。そんな内容だ。ジョーンズ博士は相手にしない。あまりに荒唐無稽な計画だからだ。
そこに横槍が入る。イギリスとイエメンの悪化した政治状況を改善するために、首相広報官(クリスティン・スコット・トーマス)がその計画に目を付けたのだ。両国友好のイメージ戦略として、“砂漠でサーモン・フィッシング”は国家プロジェクトとなり、一度は断ったはずのジョーンズ博士は無理やり駆り出されるはめになる。

ジョーンズ博士は代理人ハリエットと会って計画の青写真を描いてみせる(上の写真)。「まずイギリスの鮭を1万匹ほど用意します。それを生きたままイエメンに輸送します。鮭には冷たい水が必要です。ダムを作りましょう。そして川を作って鮭を放流すれば鮭釣りができますよ。費用は5000万ポンド(60億円)くらいかな」と適当にその場限りのことを言う。もちろん全部ジョークのつもりだったのだ(ジョーンズ博士はジョークがヘタ!)。無理難題を突きつければ諦めるだろうというジョーンズ博士の目論見は外れ、計画は博士の適当な青写真通りに進んでいくのだ。
やる気のなかったジョーンズ博士だが、そもそもの依頼人である大富豪シャイフと会うと、その人柄に惹かれていく。シャイフも博士と同様に釣り好きなのだが、“砂漠でサーモン・フィッシング”に興じることだけが目的ではなかったのだ。荒涼とした砂漠に水を引き、緑を育て、農業を興す。子々孫々まで受け継がれる遺産を生み出すのが、シャイフの真の目的だった。そしてシャイフにはそれを現実化するための力(=金)があるのだ。シャイフは単なる大富豪ではなく、人を惹きつける魅力を兼ね備えた人物なのだ。
シャイフは敬虔なイスラム教徒だが、教会にも行かないジョーンズ博士に対し、こんなふうに諭す。
「なぜ釣りをするのか? それは成果の問題ではない。1匹の鮭を釣り上げるのに、何時間も粘って待つことができるのは、必ず釣れると信じているからだ。信心(faith)と釣り(fishing)はよく似ている。」
シャイフの存在が、この映画の魅力と言ってもいいだろう(演じたアマール・ワケドはなかなかの男前)。ジョーンズ博士は自分の示した青写真を「理論的には可能であるが夢みたいなもの」だと考えた。シャイフはそれを「理論的な可能であれば必ず実行できる」と信じるのだ。シャイフは夢想家だけれど、壮大な計画を現実化する力に加え、それを強力に推進する精神を有している。理想の姿を思い描くことができれば、それを必ず叶えることができるという信心があるから、どんなに夢みたいな話だとしても待ち続けることができるし、それに向かって行動することもできるのだ。
ハルストレム監督も「ジャンルをクロスオーバーする映画」だと指摘するように、『砂漠でサーモン・フィッシング』には様々な要素が詰め込まれている。“砂漠でサーモン・フィッシング”計画だけでなく、政治を皮肉ってみたり、シャイフを狙うテロが起きたり、ジョーンズ博士と代理人ハリエットのロマンスまで盛り込んだものだから、全体的には中途半端な印象になってしまったようだ。途中から焦点が計画そのものからロマンスのほうへと移行していくのだが、ロマンスの部分はシャイフが体現する思想ほど魅力的なものではないのだ。
鮭が川を遡るのはDNAに刻み込まれた習性だったことが最後に判明するが、ジョーンズ博士が通勤途中に人の波を逆流してハリエットのもとに向かうのは、社会に反する言わば不自然なものだ。その行動はシャイフの言葉に促されてのものであり、ここでの不自然さとは理想を追い求めることだ。自分の思い描く理想の姿を実現するために、人の波を掻き分けても逆流しようとするのだ。
だがシャイフの理想像には肯くことができても、ジョーンズ博士とハリエットにとって互いの関係が理想の姿となるのは、今ひとつ腑に落ちない。ジョーンズ博士は既婚者でハリエットとは不倫になるわけだし、ハリエットにも軍人の彼氏がいるからだ。ジョーンズ博士の妻はいささか冷たくはあるけれど、即座に三行半を突きつけるほどではないし、ハリエットの彼氏は彼女を思って戦場から生還したなんて言うほどなのに、それぞれの相手を振り切ってまで、不自然に理想の関係を求めるのには説得力が足りないように感じられてしまうのだ。
『やかまし村の子どもたち』『マイライフ・アズ・ア・ドッグ』のような“ほのぼの”した作品や、『ギルバート・グレイプ』『サイダーハウス・ルール』『ショコラ』みたいな人間ドラマでは、手堅い仕事をしていたハルストレム監督。今回はジャンルを横断する内容に加え、イギリス流のシニカルなコメディの部分もあり、ちょっとチャレンジングな作品だったのかもしれない。
ラッセ・ハルストレムの作品

伊坂幸太郎『砂漠』では「その気になればね、砂漠に雪を降らすことだって、余裕でできるんですよ」なんて言うが、これはレトリックに過ぎなかった。「その気になれば」何だって可能だということの誇張された表現だ。実際に砂漠に雪が降ったりはしない。しかし『砂漠でサーモン・フィッシング』においては、この題名はレトリックじゃない。本当に砂漠でサーモンを釣ってしまおうとするのだ。
まず水産学者ジョーンズ博士(ユアン・マクレガー)にメールが届く。イエメンの大富豪の代理人ハリエット(エミリー・ブラント)からだった。大富豪が砂漠で鮭が釣りたいと考えている、ついては是非とも博士の協力を仰ぎたい。そんな内容だ。ジョーンズ博士は相手にしない。あまりに荒唐無稽な計画だからだ。
そこに横槍が入る。イギリスとイエメンの悪化した政治状況を改善するために、首相広報官(クリスティン・スコット・トーマス)がその計画に目を付けたのだ。両国友好のイメージ戦略として、“砂漠でサーモン・フィッシング”は国家プロジェクトとなり、一度は断ったはずのジョーンズ博士は無理やり駆り出されるはめになる。

ジョーンズ博士は代理人ハリエットと会って計画の青写真を描いてみせる(上の写真)。「まずイギリスの鮭を1万匹ほど用意します。それを生きたままイエメンに輸送します。鮭には冷たい水が必要です。ダムを作りましょう。そして川を作って鮭を放流すれば鮭釣りができますよ。費用は5000万ポンド(60億円)くらいかな」と適当にその場限りのことを言う。もちろん全部ジョークのつもりだったのだ(ジョーンズ博士はジョークがヘタ!)。無理難題を突きつければ諦めるだろうというジョーンズ博士の目論見は外れ、計画は博士の適当な青写真通りに進んでいくのだ。
やる気のなかったジョーンズ博士だが、そもそもの依頼人である大富豪シャイフと会うと、その人柄に惹かれていく。シャイフも博士と同様に釣り好きなのだが、“砂漠でサーモン・フィッシング”に興じることだけが目的ではなかったのだ。荒涼とした砂漠に水を引き、緑を育て、農業を興す。子々孫々まで受け継がれる遺産を生み出すのが、シャイフの真の目的だった。そしてシャイフにはそれを現実化するための力(=金)があるのだ。シャイフは単なる大富豪ではなく、人を惹きつける魅力を兼ね備えた人物なのだ。
シャイフは敬虔なイスラム教徒だが、教会にも行かないジョーンズ博士に対し、こんなふうに諭す。
「なぜ釣りをするのか? それは成果の問題ではない。1匹の鮭を釣り上げるのに、何時間も粘って待つことができるのは、必ず釣れると信じているからだ。信心(faith)と釣り(fishing)はよく似ている。」
シャイフの存在が、この映画の魅力と言ってもいいだろう(演じたアマール・ワケドはなかなかの男前)。ジョーンズ博士は自分の示した青写真を「理論的には可能であるが夢みたいなもの」だと考えた。シャイフはそれを「理論的な可能であれば必ず実行できる」と信じるのだ。シャイフは夢想家だけれど、壮大な計画を現実化する力に加え、それを強力に推進する精神を有している。理想の姿を思い描くことができれば、それを必ず叶えることができるという信心があるから、どんなに夢みたいな話だとしても待ち続けることができるし、それに向かって行動することもできるのだ。
ハルストレム監督も「ジャンルをクロスオーバーする映画」だと指摘するように、『砂漠でサーモン・フィッシング』には様々な要素が詰め込まれている。“砂漠でサーモン・フィッシング”計画だけでなく、政治を皮肉ってみたり、シャイフを狙うテロが起きたり、ジョーンズ博士と代理人ハリエットのロマンスまで盛り込んだものだから、全体的には中途半端な印象になってしまったようだ。途中から焦点が計画そのものからロマンスのほうへと移行していくのだが、ロマンスの部分はシャイフが体現する思想ほど魅力的なものではないのだ。
鮭が川を遡るのはDNAに刻み込まれた習性だったことが最後に判明するが、ジョーンズ博士が通勤途中に人の波を逆流してハリエットのもとに向かうのは、社会に反する言わば不自然なものだ。その行動はシャイフの言葉に促されてのものであり、ここでの不自然さとは理想を追い求めることだ。自分の思い描く理想の姿を実現するために、人の波を掻き分けても逆流しようとするのだ。
だがシャイフの理想像には肯くことができても、ジョーンズ博士とハリエットにとって互いの関係が理想の姿となるのは、今ひとつ腑に落ちない。ジョーンズ博士は既婚者でハリエットとは不倫になるわけだし、ハリエットにも軍人の彼氏がいるからだ。ジョーンズ博士の妻はいささか冷たくはあるけれど、即座に三行半を突きつけるほどではないし、ハリエットの彼氏は彼女を思って戦場から生還したなんて言うほどなのに、それぞれの相手を振り切ってまで、不自然に理想の関係を求めるのには説得力が足りないように感じられてしまうのだ。
『やかまし村の子どもたち』『マイライフ・アズ・ア・ドッグ』のような“ほのぼの”した作品や、『ギルバート・グレイプ』『サイダーハウス・ルール』『ショコラ』みたいな人間ドラマでは、手堅い仕事をしていたハルストレム監督。今回はジャンルを横断する内容に加え、イギリス流のシニカルなコメディの部分もあり、ちょっとチャレンジングな作品だったのかもしれない。
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