『裁き』 不条理を感じる人は誰?
監督・脚本はチャイタニヤ・タームハネー。
アカデミー賞外国語映画部門のインド代表となった作品。原題は「COURT」。

ある日、年老いた民謡歌手カンブレ(ビーラー・サーティダル)が舞台で歌を披露していると、突然闖入してきた警察官に逮捕される。容疑は彼の歌が自殺を煽ったというもの。「下水清掃人は下水道で窒息死しろ」という内容の歌が、ある下水清掃人を自殺へと追いやったのだという……。
裁判映画ということで、法廷内での喧々諤々の激論を予想していたのだが、この作品はそんなふうには展開しない。一応の悲劇の主人公となるカンブレだが、逮捕されて以降はほとんど姿を現さず、法曹関係者たちの姿が追われていくことになる。
この作品の法廷劇は観客の情感に訴えるということもなく平坦に進んでいく。事務的に作業を進めようとする検察官(ギーターンジャリ・クルカルニー)は文書を朗々と読み上げるだけだし、人権派らしい弁護士(ビベーク・ゴーンバル)も派手な見せ場があるわけではない。
さらにこの作品を独特なものにしているは、法廷劇の合間に弁護士・検察官・裁判官のごく普通の生活が描かれていくところだろう。しかも法曹関係者の日常描写は法廷劇に何らかの影響を与えるわけでもない。たとえば弁護士は紀ノ国屋的な高級スーパーでチーズやワインなどを買い漁るのだが、こうした描写は弁護士がそれなりに裕福な生活をしているというだけのものであって、物語の中心であると思われたカンブレの裁判とは何の関わりもないのだ。

この作品の感想を見ると「不条理」という言葉があちこちに見られる。たた登場人物たちはそうした「不条理」をまるで当然のものとして受け入れているようにも見える。何の罪もない人間が冤罪によって不当に逮捕されているにも関わらず、法曹関係者たちはそれを当たり前の事態として日常を過ごし、自らの仕事に対する矜持といったものを感じさせるわけでもなければ、インド社会の状況に苦悶するわけでもない。
そして、何より冤罪の当事者であるカンブレ自身も怒りや苦しみを訴えようとするわけでもないのだ。カンブレは歌っているときは威勢がいいのだが、逮捕されるときは従順な様子で抵抗をすることもない。カンブレの態度は不可触民として差別されてきたことによる深い絶望なのか、あるいはそれをごく自然のものとして受け入れているのかは判断がつきかねた。後者だとすれば不気味なものすら感じるのだけれど、それはこの作品を日本の映画館で観ている観客だから言えることなのかもしれないわけで、かの国の人々はどんな話として受け取るのだろうか。
法廷劇を見に行ったつもりがインドの何気ない日常風景を見る羽目になるという事態は「不条理」な状況だったと言えるかもしれない。とりあえずユーロスペースにネット予約システムが導入されたのを確認できた点では収穫があったかと思う(以前の『FAKE』のときは文句を垂れていたので)。
アカデミー賞外国語映画部門のインド代表となった作品。原題は「COURT」。

ある日、年老いた民謡歌手カンブレ(ビーラー・サーティダル)が舞台で歌を披露していると、突然闖入してきた警察官に逮捕される。容疑は彼の歌が自殺を煽ったというもの。「下水清掃人は下水道で窒息死しろ」という内容の歌が、ある下水清掃人を自殺へと追いやったのだという……。
裁判映画ということで、法廷内での喧々諤々の激論を予想していたのだが、この作品はそんなふうには展開しない。一応の悲劇の主人公となるカンブレだが、逮捕されて以降はほとんど姿を現さず、法曹関係者たちの姿が追われていくことになる。
この作品の法廷劇は観客の情感に訴えるということもなく平坦に進んでいく。事務的に作業を進めようとする検察官(ギーターンジャリ・クルカルニー)は文書を朗々と読み上げるだけだし、人権派らしい弁護士(ビベーク・ゴーンバル)も派手な見せ場があるわけではない。
さらにこの作品を独特なものにしているは、法廷劇の合間に弁護士・検察官・裁判官のごく普通の生活が描かれていくところだろう。しかも法曹関係者の日常描写は法廷劇に何らかの影響を与えるわけでもない。たとえば弁護士は紀ノ国屋的な高級スーパーでチーズやワインなどを買い漁るのだが、こうした描写は弁護士がそれなりに裕福な生活をしているというだけのものであって、物語の中心であると思われたカンブレの裁判とは何の関わりもないのだ。

この作品の感想を見ると「不条理」という言葉があちこちに見られる。たた登場人物たちはそうした「不条理」をまるで当然のものとして受け入れているようにも見える。何の罪もない人間が冤罪によって不当に逮捕されているにも関わらず、法曹関係者たちはそれを当たり前の事態として日常を過ごし、自らの仕事に対する矜持といったものを感じさせるわけでもなければ、インド社会の状況に苦悶するわけでもない。
そして、何より冤罪の当事者であるカンブレ自身も怒りや苦しみを訴えようとするわけでもないのだ。カンブレは歌っているときは威勢がいいのだが、逮捕されるときは従順な様子で抵抗をすることもない。カンブレの態度は不可触民として差別されてきたことによる深い絶望なのか、あるいはそれをごく自然のものとして受け入れているのかは判断がつきかねた。後者だとすれば不気味なものすら感じるのだけれど、それはこの作品を日本の映画館で観ている観客だから言えることなのかもしれないわけで、かの国の人々はどんな話として受け取るのだろうか。
法廷劇を見に行ったつもりがインドの何気ない日常風景を見る羽目になるという事態は「不条理」な状況だったと言えるかもしれない。とりあえずユーロスペースにネット予約システムが導入されたのを確認できた点では収穫があったかと思う(以前の『FAKE』のときは文句を垂れていたので)。
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