『ディストピア パンドラの少女』 新機軸のゾンビものだけれど……
原作はM・R・ケアリーの小説『パンドラの少女』。
監督はテレビドラマなどを手がけていたというコーム・マッカーシー。

冒頭では子供たちが車椅子に座らせられ勉学に励んでいる。何のための車椅子なのかと疑問に思っていると、実はそれが子供たちを拘束するためのものであると判明する。その子供たちは人間のような姿をしているけれど、人間など生き物の匂いを嗅ぐと獣のように喰らいつく危険な存在だ。
銃を持って子供たちを警戒している軍人たちは、地下施設で彼らを研究対象にしているらしい。実はこの作品は一種のゾンビものであり、すでに地上の世界のほとんどは“ハングリーズ”と呼ばれるゾンビによって覆いつくされている。冒頭に登場してくる子供たちはその第二世代なのだ。『ディストピア パンドラの少女』がほかのゾンビものと違っているのは、この部分だろう。
第二世代は菌に感染してハングリーズとなった母親から生まれてきた子供たちで、ゾンビ菌と人間の共生状態にある。彼らは胎児のときに母親から感染したという設定で、生まれるときには母親の腹を喰い破って誕生したと語られるのだ(『エイリアン』のあのシーンみたいに)。
※ 以下、ネタバレもあり! ラストにも触れているので要注意!!

第二世代は見た目も普通だし思考能力もある。主人公であるメラニー(セニア・ナニュア)のように教育によって成長している子供もいる。ただ、腹が空いても我慢するといった自制心は皆無で、エサがあれば人間でもかじりついてしまう。そんな危険な第二世代を人間たちが手元に置くのは、第二世代からハングリーズに対抗するワクチンを生成するためだ。コールドウェル博士(グレン・クローズ)はメラニーに人類のために犠牲となることを懇願する。
メラニーは人間たちからは実験材料として扱われている。それでも大好きな先生であるヘレン(ジェマ・アータートン)の教育もあり、ギリシャ神話を学ぶほどの能力もあるし、人間たちに愛想を振りまくほど社会性もある。メラニーにとっては自分が人間とは違うことは意識しながらも、それでもなぜ自分たちが人類のために犠牲にならなければならないのかと考える。
ラストはひねりが効いている。それでも人間の観客としては、人類が滅んでしまう結末が複雑なのは確か。藤子・F・不二雄『流血鬼』の結末のように、実際にゾンビの側になってみなければわからないのかもしれないのだけれど……。
人類のネクスト・ステージが描かれた作品『AUTOMATA オートマタ』では、人類の次を担うのは人工知能だった。人工知能に取って代わられるのは仕方ない気もするけれど、ゾンビに取って代わられるのは複雑というのは変なのかもしれない。一応、第二世代は人間とゾンビ菌の共生によって進化している部分もあるのだから、人類が形を変えても存続するのは喜ばしいのかもしれないのだけれど、どうにも第二世代の子供たちはお行儀の悪い獣たちのようで希望が感じられない気もした。





監督はテレビドラマなどを手がけていたというコーム・マッカーシー。

冒頭では子供たちが車椅子に座らせられ勉学に励んでいる。何のための車椅子なのかと疑問に思っていると、実はそれが子供たちを拘束するためのものであると判明する。その子供たちは人間のような姿をしているけれど、人間など生き物の匂いを嗅ぐと獣のように喰らいつく危険な存在だ。
銃を持って子供たちを警戒している軍人たちは、地下施設で彼らを研究対象にしているらしい。実はこの作品は一種のゾンビものであり、すでに地上の世界のほとんどは“ハングリーズ”と呼ばれるゾンビによって覆いつくされている。冒頭に登場してくる子供たちはその第二世代なのだ。『ディストピア パンドラの少女』がほかのゾンビものと違っているのは、この部分だろう。
第二世代は菌に感染してハングリーズとなった母親から生まれてきた子供たちで、ゾンビ菌と人間の共生状態にある。彼らは胎児のときに母親から感染したという設定で、生まれるときには母親の腹を喰い破って誕生したと語られるのだ(『エイリアン』のあのシーンみたいに)。
※ 以下、ネタバレもあり! ラストにも触れているので要注意!!

第二世代は見た目も普通だし思考能力もある。主人公であるメラニー(セニア・ナニュア)のように教育によって成長している子供もいる。ただ、腹が空いても我慢するといった自制心は皆無で、エサがあれば人間でもかじりついてしまう。そんな危険な第二世代を人間たちが手元に置くのは、第二世代からハングリーズに対抗するワクチンを生成するためだ。コールドウェル博士(グレン・クローズ)はメラニーに人類のために犠牲となることを懇願する。
メラニーは人間たちからは実験材料として扱われている。それでも大好きな先生であるヘレン(ジェマ・アータートン)の教育もあり、ギリシャ神話を学ぶほどの能力もあるし、人間たちに愛想を振りまくほど社会性もある。メラニーにとっては自分が人間とは違うことは意識しながらも、それでもなぜ自分たちが人類のために犠牲にならなければならないのかと考える。
ラストはひねりが効いている。それでも人間の観客としては、人類が滅んでしまう結末が複雑なのは確か。藤子・F・不二雄『流血鬼』の結末のように、実際にゾンビの側になってみなければわからないのかもしれないのだけれど……。
人類のネクスト・ステージが描かれた作品『AUTOMATA オートマタ』では、人類の次を担うのは人工知能だった。人工知能に取って代わられるのは仕方ない気もするけれど、ゾンビに取って代わられるのは複雑というのは変なのかもしれない。一応、第二世代は人間とゾンビ菌の共生によって進化している部分もあるのだから、人類が形を変えても存続するのは喜ばしいのかもしれないのだけれど、どうにも第二世代の子供たちはお行儀の悪い獣たちのようで希望が感じられない気もした。


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