『セールスマン』 もやもや感がクセになる?
アカデミー賞では『別離』に続いて二度目の外国語映画賞を受賞した。

夫婦が新しく引っ越した家で、ある事件が起きる。妻のラナ(タラネ・アリドゥスティ)は夫のエマッドが帰宅したと勘違いをし、玄関の鍵を開けてしまうのだが、実は訪ねてきていたのは別の男で、ラナは頭部にケガを負うことになる。
その事件によって夫婦の関係もぎくしゃくしてくる。夫のエマッド(シャハブ・ホセイニ)は事件を警察に届け出ることを望むが、ラナはそれを承知しない。警察が入れば事件について詳細を語らなければならないことになるし、イラン社会では女性が性犯罪に巻き込まれると被害者である女性自身にも落ち度があったとされる傾向があるからだ。事件後のラナはひとりでいることを怖がるようになり、襲われた浴室を使うことも拒否するようになる。エマッドはそんなラナの姿を見て独自に犯人を捜すことになる。
※ 以下、ネタバレもあり! 結末についても触れているので要注意!!

上記では“性犯罪”としているのだけれど、作品内ではその部分の描写はないために詳細は不明だ。実際に作品内で語られているのは、ラナがシャワーを浴びている最中に侵入してきた男によってケガを負わされたということだけだ。映画評論家の文章なんかにもこの事件を“レイプ”とまで書いているものもあるのでちょっと驚いたのだけれど、私にはそうとは思えなかった。
というのは、事件の犯人である男は病気持ちの老人だからだ。しかもエマッドが犯人と相対したときにこだわっていたのは、「浴室に入ったのか否か」という部分だ。エマッドが気にしているのは「妻の裸を犯人の男が見ていたか否か」ということなのではないか(ケガを負わされたという恨みもあるが)。エマッドがレイプすら疑っていたのだとしたら、「浴室に入ったか否か」など問題にならないことだからだ。
イランのようなイスラム社会では、女性は顔と手以外を隠すことになっている。そんな社会では裸に対する禁忌の念も大きいのではないだろうか。かといってイスラム社会の人たちだって性的欲求はあるわけで、実際に犯人の男が売春婦との長年の付き合いがあったことが伏線ともなっている。
イスラム社会の禁忌には日本とか欧米諸国からすると厳格すぎるようにも感じられるところもある。作品内で同時進行する演劇『セールスマンの死』では、裸の女性を実際に裸では登場させることができない滑稽さが描かれている。イスラム社会でそんなことをすれば、舞台自体が上映できなくなってしまうのだろう。そのためにその裸役の女性はなぜか真っ赤なトレンチコートを着ることになる。
『セールスマンの死』はアメリカ演劇の代表的な傑作とされている作品だ。当然イランにおいてもそうした評判は届いているけれど、イランでそれをやろうとすると様々な制約があるということになるだろう。
ちなみに『セールスマンの死』では、かつては父親ウイリーを慕っていたビフがある出来事がきっかけとなり、父親のことをインチキ呼ばわりすることになる。その出来事というのが、ウイリーが出張先のホテルで女と会っていたところへビフが訪ねて行ってしまったという場面。映画『セールスマン』のなかで真っ赤なトレンチコートの女が登場してくる場面だ。ビフはそれまで崇めていた父親ウイリーに幻滅することになるのだ。
このウイリーの姿と重なってくるのは舞台でそれを演じるエマッドでもあるけれど、同時に事件の犯人である老人でもある。老人は娘の結婚を間近に控えた家庭人であり、35年も妻と仲睦まじく暮らしてきた男だ。しかしそれは表の顔であり、こっそり売春婦とも会っていたという隠された一面もあるわけだ。
ウイリーがビフに浮気を知られ父子の関係がぎくしゃくしてしまったように、犯人の老人もそんなことがバレたら身の破滅であることは間違いない。エマッドは老人のすべてを家族に晒そうとするが、ラナは老人の不憫な姿を見てそんなことはさせられないと思うのだが……。
アスガー・ファルハディの作品は謎によって観客の興味を惹きつける。この作品でも一応は犯人捜しによって物語を引っ張っていくわけだけれど、犯人が見つかったからといってすっきりと物事が解決するわけでもない。
この作品で浮き彫りとなってくるのはイラン社会の矛盾のようなものなのだろうと思う。エマッドたちは欧米の演劇作品に取り組みながらも、表現の自由があるとは言えない状況がある。それでいて『セールスマンの死』の舞台がイランでも受け入れられるというのは、ウイリーのような男のことがイランの人たちにも理解できるからだろう。誰もが清廉潔白であるわけではないからだ。しかしイスラム社会では『別離』でも描かれたように、シャリーアという法体系が道徳的規範ともなっている。その厳しい規範においては「誰もが清廉潔白であれ」と求められているのかもしれないのだけれど、現実にはそうもいかないのが当然なわけで……。何とも説明が難しいのだけれど、あれかこれかという葛藤へと登場人物を導く脚本がいつもながらうまいし、やはり見応えがある作品となっていたと思う。
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