『20センチュリー・ウーマン』 “ジャズの時代”と“パンクの時代”のすき間
『人生はビギナーズ』『サムサッカー』のマイク・ミルズ監督の最新作。
原題は「20th Century Women」。

マイク・ミルズの前作『人生はビギナーズ』は父親のことがモデルで、今回の『20センチュリー・ウーマン』では母親のことをモデルにしている。一応の主人公はジェイミー(ルーカス・ジェイド・ズマン)という15歳の少年なのだが、タイトルにもあるように“20世紀の女性たち”の姿が描かれていくことになる。
そのひとりはジェイミーの母親ドロシー(アネット・ベニング)で、もうひとりは間借り人のアビー(グレタ・ガーウィグ)で、加えて近くに住むジェイミーの幼なじみジュリー(エル・ファニング)もいる。舞台は1979年のサンタバーバラで、ジェイミーは3人の女たちに様々なことを学んでいくことになる。
母親のドロシーは60年代半ばに40歳でジェイミーを産んだ。その年齢差はきっちり40年であり、音楽の流行りから言うと“ジャズの時代”と“パンクの時代”ほどの差があることになる。パンク世代の若者にはジャズがかったるく感じられ、ジャズ世代のくたびれた大人にはパンクはうるさくてヘタなだけにしか感じられない。その差は結構大きいのだ。だからドロシーはジェイミーのことを理解できないかもしれないと心配し、ジェイミーの人生の指南役にアビーとジュリーを指名することになるのだが……。
※ 以下、ちょっとネタバレもあり!

前作の『人生はビギナーズ』にしても、本作にしても起承転結のはっきりとした物語があるわけではない。マイク・ミルズは語るべきテーマから物語を構築していくスタイルではなく、近しい人をモデルとしたキャラクターの造形のほうが優先されるようだ。
ドロシーはマイク・ミルズの母親がモデルとなっているし、アビーとジュリーのキャラはふたりの姉がモデルとなっているようだ。エル・ファニングの演じたかわいらしい等身大の女の子ジュリーも、グレタ・ガーウィグが演じたがんを恐れるパンキッシュな赤い髪の女アビーも、どの人物も類型的なキャラに収まっていないように思えた。
そうして生まれたキャラクターが、それと分かちがたい時代背景と一緒になって作品を構築していく。『人生はビギナーズ』では年老いた父親がゲイであるとカミング・アウトするという設定のため同性愛界隈の動きが背景になってもいたし、『20センチュリー・ウーマン』では主人公を取り巻くのが女たちということもあってフェミニズムの動きなんかも背景となってくる。
そんなドロシーの試みは結局のところ失敗に終わることになる。というのは、ジュリーは夜な夜なジェイミーのベットにもぐり込むほど親しいのだけれど、それ以上は“おあずけ”という拷問でジェイミー翻弄するばかりだし、アビーのフェミニズムの教えはあまりに急進的すぎてドロシーを戸惑わせることになるからだ。人生は一度きりで、誰にとってもビギナーであることに変わりはないという点では前作と同じだ。子育てだってわからないながらも自分なりに試しながらやっていくほかないということなのだろう。
とりたててカタルシスがあるわけでも、ほろっとさせるというわけでもないのだけれど、そのセンスのよさで見せてしまうといった印象。劇中でもパンクはパンクでもハード・コアなブラック・フラッグとかではなく、トーキング・ヘッズのような「いけすかないアート野郎(Art Fag)」のほうを擁護していたが、それがマイク・ミルズのセンスなのだろう。トーキング・ヘッズほどクセのある感じはしないけれどとてもシャレている。





↑ 先ごろ亡くなったジョナサン・デミ監督のトーキング・ヘッズのライヴ作品。
原題は「20th Century Women」。

マイク・ミルズの前作『人生はビギナーズ』は父親のことがモデルで、今回の『20センチュリー・ウーマン』では母親のことをモデルにしている。一応の主人公はジェイミー(ルーカス・ジェイド・ズマン)という15歳の少年なのだが、タイトルにもあるように“20世紀の女性たち”の姿が描かれていくことになる。
そのひとりはジェイミーの母親ドロシー(アネット・ベニング)で、もうひとりは間借り人のアビー(グレタ・ガーウィグ)で、加えて近くに住むジェイミーの幼なじみジュリー(エル・ファニング)もいる。舞台は1979年のサンタバーバラで、ジェイミーは3人の女たちに様々なことを学んでいくことになる。
母親のドロシーは60年代半ばに40歳でジェイミーを産んだ。その年齢差はきっちり40年であり、音楽の流行りから言うと“ジャズの時代”と“パンクの時代”ほどの差があることになる。パンク世代の若者にはジャズがかったるく感じられ、ジャズ世代のくたびれた大人にはパンクはうるさくてヘタなだけにしか感じられない。その差は結構大きいのだ。だからドロシーはジェイミーのことを理解できないかもしれないと心配し、ジェイミーの人生の指南役にアビーとジュリーを指名することになるのだが……。
※ 以下、ちょっとネタバレもあり!

前作の『人生はビギナーズ』にしても、本作にしても起承転結のはっきりとした物語があるわけではない。マイク・ミルズは語るべきテーマから物語を構築していくスタイルではなく、近しい人をモデルとしたキャラクターの造形のほうが優先されるようだ。
ドロシーはマイク・ミルズの母親がモデルとなっているし、アビーとジュリーのキャラはふたりの姉がモデルとなっているようだ。エル・ファニングの演じたかわいらしい等身大の女の子ジュリーも、グレタ・ガーウィグが演じたがんを恐れるパンキッシュな赤い髪の女アビーも、どの人物も類型的なキャラに収まっていないように思えた。
そうして生まれたキャラクターが、それと分かちがたい時代背景と一緒になって作品を構築していく。『人生はビギナーズ』では年老いた父親がゲイであるとカミング・アウトするという設定のため同性愛界隈の動きが背景になってもいたし、『20センチュリー・ウーマン』では主人公を取り巻くのが女たちということもあってフェミニズムの動きなんかも背景となってくる。
そんなドロシーの試みは結局のところ失敗に終わることになる。というのは、ジュリーは夜な夜なジェイミーのベットにもぐり込むほど親しいのだけれど、それ以上は“おあずけ”という拷問でジェイミー翻弄するばかりだし、アビーのフェミニズムの教えはあまりに急進的すぎてドロシーを戸惑わせることになるからだ。人生は一度きりで、誰にとってもビギナーであることに変わりはないという点では前作と同じだ。子育てだってわからないながらも自分なりに試しながらやっていくほかないということなのだろう。
とりたててカタルシスがあるわけでも、ほろっとさせるというわけでもないのだけれど、そのセンスのよさで見せてしまうといった印象。劇中でもパンクはパンクでもハード・コアなブラック・フラッグとかではなく、トーキング・ヘッズのような「いけすかないアート野郎(Art Fag)」のほうを擁護していたが、それがマイク・ミルズのセンスなのだろう。トーキング・ヘッズほどクセのある感じはしないけれどとてもシャレている。
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↑ 先ごろ亡くなったジョナサン・デミ監督のトーキング・ヘッズのライヴ作品。
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