『光』 映像を言葉にすることの難しさ
映画の“音声ガイド”という珍しい仕事を取り扱った作品。

映画の“音声ガイド”の仕事をしている美佐子(水崎綾女)は、その仕事で弱視のカメラマン・雅哉(永瀬正敏)と出会う。美佐子の仕事に対して遠慮なくズケズケと意見を述べる雅哉に苛立ちつつも、美佐子は雅哉のことが気にかかるようになり……。
映画の音声ガイドとは、視覚障がい者の人に映像を伝える仕事。音声ガイドは登場人物の動作や舞台となる場所の情景を言葉にして伝えていく。『光』では、音声ガイドの仕事ができあがっていく過程を追っていくことになるのだが、普段あまり触れる機会のないこの仕事に注目したところがよかったと思う。
映画作品はまず最初に脚本という言葉で書かれたものがあって、それを元に映像化したものが生み出される(言葉⇒映像)。音声ガイドはその逆に、出来上がった映像を再び言葉に直して再構築することになる(映像⇒言葉)。
そんなわけだからブログで映画の感想をしたためたりしている人にとっては、映像から言葉をつむぐという点では何かしらの共通点を感じるんじゃないかと思う。音声ガイドは映画作品と視覚障がい者をつなぐ役割を果たしているわけだけれど、こうした映画ブログも映画作品をまだ観ていない人とつなぐ役割をしている部分もあるからだ。もちろん映画ブログは宣伝や紹介ばかりではないわけで、好き勝手な解釈を述べ立てるというものもある(このブログはどちらかと言えば後者)。
しかし音声ガイドはそうした主観が交じってしまってはいけないという点が難しいところ。それでは押し付けがましいものになってしまうからだ。見えている音声ガイドが、見えない視覚障がい者に自分の見方を一方的に押付ける。これでは作品の豊かな世界が音声ガイドによって矮小化されてしまうかもしれないのだ。

◆映像と言葉
映像と言葉では情報量が違う。そんな意味のことを村上龍だか誰かがどこかで言っていた。これは比喩でも何でもなく、端的に記録媒体に保存するときの容量の話だ。たとえば一番上に貼り付けたこの作品のポスター映像であるJPEGファイルは約45キロバイトの容量だが、このレビューのすべての文字をテキストファイルにしても約5キロバイトにしかならない。
上の映像を見るのは一瞬でも見た気になれるけれど、この文章をすべて読もうとするとそれなりの時間がかかる。それでも情報量は映像のほうが断然大きいということになる。映像は一瞬でも感じ取れるかもしれないけれど、細かい部分を見ようとすればもっと読み取れるものもあるのだ。
『光』では美佐子の故郷の村の場面があるが、村を遠くから捉えたワンシーンにも様々に読み取れるものがある。人里離れた山奥の村であるとか、木々の季節感とか、山の向こうの空の様子とか、人によって見るところは様々だ。しかもこのシーンではよく目を凝らすと張り出した木の枝にはセミの抜け殻がぶら下がっていたりもする。たった2、3秒のシーンでもそうした様々な情報が読み取れるわけで、音声ガイドはそのどこかを取捨選択していかなければならない。
◆人の表情
それから人の表情を言葉で説明することも難しい。美佐子はある架空の作品にたずさわっているのだが、その劇中劇は主人公の男(藤竜也)と介護されている認知症らしき女の物語だ。美佐子は主人公の表情を「希望に満ちた」という主観的な表現をして雅哉(永瀬正敏)に批判されることになる。
実際に主人公がそんな表情をしていたのかはわからない。ただ美佐子の選んだ言葉では、受け取った側はほかにどんな解釈の仕様もないわけで、音声ガイドとしては問題ありということになる。この失敗は美佐子がまだ初心者ということが原因でもあるのだが、それ以上に美佐子のプライベートな部分とも関わっている。美佐子は自分が認知症の母親を抱えているという現実もあって、劇中劇の主人公にも希望を見出そうとしてしまうのだ。
このブログはごく個人的な感想なり解釈なりを書き散らしているものだけに、様々なバイアスがかかっていることも前提となっているし、見方に偏りがあることも当然なわけだけれど、音声ガイドはそうした主観的なものを排除してできるだけ客観的な言葉を選んでいかなければならないのだ。
『光』という作品は、そうした映画の見方の色々を考えさせる内容となっているところが魅力だろうと思う。たとえば劇中劇では主人公が寄り添っている女にスカーフをかけてやる場面がある。ここでは寒さを気遣う主人公のやさしさが描かれてもいるのだけれど、それと同時にそのスカーフは女の首を絞めるようにも見える。認知症ですべてを忘れてしまっている女を殺して楽にしてやろうという葛藤が見え隠れしているわけだけれど、それを言葉にしようとするとどうしてももたついてしまう(ブログを書いていても日々実感すること)。映像に合わせてそれを的確な言葉に置き換えていくという音声ガイドの仕事は、とてつもなく難しい仕事のようにも思えた。

◆ふたりのラブ・ストーリー?
『光』は極端なクローズアップで美佐子と雅哉のことを映し出していく。これは弱視という設定の雅哉の視点に影響されているということなのだろう。弱視の人は対象に近づかなければそれが見えないし、逆に見られる側の美佐子としても相手の目があまり見えていないという意識があるから接近することにも抵抗感が少なくなるからだ。
そんなふたりが結びつくという展開に必然性がないといった意見もあるようだけれど、それまで極端なアップでふたりを見ていただけに、後半にふたりが急に近づいていってもそれほど違和感はなかった。近くにいれば親近感は湧くわけだから……。ただ「一番大切なものを捨てなければならないなんてつらすぎる」とつぶやいてしまうあたりの過剰な丁寧さと比べると、追いつけないものを追いかけてしまうというふたりの共通点なんかはわかりづらいのかもしれない。映像として描かれていることと、それを言葉に直して理解していくことの乖離が、こんなところにも表れているのかもしれないとも思う。
美佐子のキャラはどことなく河瀨直美監督自身を思わせる。父親が失踪してしまったというエピソードは河瀨監督の体験そのものだからだ。そんな美佐子を演じる水崎綾女だが、クローズアップで映される表情はとても勝ち気な印象で、ひよっ子のくせに言い負かされたくないという美佐子の造形には水崎綾女自身のキャラも交じっているのかもしれない。
さらに今回の作品では永瀬正敏のエピソードでも、永瀬自身のエピソードを混ぜ込んでいるようだ。『キネマ旬報』によれば、永瀬は実際にカメラマンとしても活動しているのだとか。それから大事なカメラを盗まれるというエピソードはカメラマンをやっていた永瀬の祖父の体験から来ているようだ。それだけに永瀬が演じる雅哉の姿は悲痛なものなっていたように思う。
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