『映画 夜空はいつでも最高密度の青色だ』 青臭くても無様でも……
原作は詩集としては異例のベストセラーになっているという、最果タヒによる詩集『夜空はいつでも最高密度の青色だ』。
監督・脚本は『舟を編む』などの石井裕也。
新人の石橋静河は原田美枝子と石橋凌の娘さんとのこと。

主人公の看護師・美香(石橋静河)は病院で働きながらも、夜にはガールズバーでバイトをしている。もうひとりの主人公慎二(池松壮亮)は建設現場で日雇いとして働いている。そんなふたりが偶然出会って……。
冒頭から東京の街の情景に美香の詩がモノローグでかぶさっていく。たとえばこんな感じ。
美香は幼いころに母親(市川実日子)を亡くしているのだが、それが自殺だったのではないかという疑いを抱いている。だとすれば美香は母親から棄てられた娘ということになるというわけで、その辺が美香の屈託となり詩の言葉を紡ぐ要因ともなっているようだ。
一方の相手役である慎二だが、彼にも抱えているものがあって、慎二は左目がほとんど見えない。慎二の視点へと移行すると、スクリーンの左半分が黒くマスクされ、外界はスクリーンの右半分に開かれた覗き穴から見たような状態となるわけで、こうした視野は慎二が自らの内面に閉じこもっていることを感じさせる。
そんなふたりが何度かの偶然も重なったりしつつ近づいていくことになるのだが、美香は「この星に、恋愛なんてものはない」とも詠っているだけにふたりの関係もすんなりとはいかずに行ったり来たり繰り返すことになる。

舞台は東京で、ふたりは身近に「死」を感じつつ生きている。ちなみにウィキペディアによれば原作者の最果タヒ(さいはて・たひ)の「タヒ」とは、漢字の「死」から採られたらしい。看護師の美香は病院で死んでいく患者たちを目の当たりにするし、慎二は友人である智之(松田龍平)や隣人の突然死に遭遇したり、仕事の過酷さにズボンのチャックも上げられない同僚・岩下(田中哲司)の自殺を心配してみたりもする。そして、美香と慎二の最初の共通点というのが、「嫌な予感がする」という部分でふたりが深く納得したことだった。
おもしろいのはふたりの恋愛(もしくは腐れ縁?)が、いつ成就したのかは描かれないということだ。ふたりの関係がそれなりに確固たるものとなっても、それによって世界がバラ色に変わるわけではないし、「嫌な予感がする」という状態も続いている。ただ、ふたりが一緒にいれば美香の内面の声は減り、慎二の自閉も解消され、自然と対話の場面が多くなる。
元々詩を詠うことも誰かに何かを伝えたいということなのだろうし、隣に誰かがいれば自分の気持ちをその隣の人に伝えることになるのは当然だろう。そして、ときには予想もしないレスポンスが生まれる場合もある。「嫌な予感」はどんな悪いことでも起きる可能性であると同時に、「いいことだって起こるかもしれない」ことでもあるのだ。これは美香ひとりでは到達できなかったところと言えるのかもしれないし、そこには少しだけ希望がある。
しつこいくらい何度も登場する路上歌手(野嵜好美)が最後に成功を勝ち取るのは、まさにそんな奇跡なのかもしれない。「それでもみんなガンバレ」みたいな応援歌を恥ずかしげもなく謳い上げる歌手は、その歌声も容貌も「中の下」(『川の底からこんにちは』の登場人物たちと同様に)で、絶対売れることはないという見方がごく普通だろう。しかし、その予想は外れることになるわけで、ふたりの未来だってもしかすると奇跡的ないいことだって起こり得るかもしれないのだ。
詩から発想された映画ということで、繊細と同時に青臭くも感じられる作品で好みは分かれそう。私自身は青臭いのを自覚しているので、嫌いではない。
池松壮亮の慎二はその微妙なバランスを醸し出している。弱味につけこまれるのを嫌い、読書で何かから自分を防御しているようでいて、カラオケではなぜか「CHE.R.RY」を歌って呆れられるという浅薄さ。だけどスレてないところが美点だろうか。
新人の石橋静河は、最近の『PARKSパークス』にも顔を出していて、今の世代とは異質な昭和の女を演じていても違和感がなかった。まだまだ若い人なのだけれど流行りなどには影響されない人なのかもしれない。この作品でもポケットに手を突っ込んで歩くたたずまいが堂々としていて、新人らしからぬ雰囲気があったと思う。





監督・脚本は『舟を編む』などの石井裕也。
新人の石橋静河は原田美枝子と石橋凌の娘さんとのこと。

主人公の看護師・美香(石橋静河)は病院で働きながらも、夜にはガールズバーでバイトをしている。もうひとりの主人公慎二(池松壮亮)は建設現場で日雇いとして働いている。そんなふたりが偶然出会って……。
冒頭から東京の街の情景に美香の詩がモノローグでかぶさっていく。たとえばこんな感じ。
都会を好きになった瞬間、自殺したようなものだよ。
塗った爪の色を、きみの体の内側に探したって見つかりやしない。
夜空はいつでも最高密度の青色だ。
きみがかわいそうだと思っているきみ自身を、誰も愛さない間、
きみはきっと世界を嫌いでいい。
そしてだからこそ、この星に、恋愛なんてものはない。
美香は幼いころに母親(市川実日子)を亡くしているのだが、それが自殺だったのではないかという疑いを抱いている。だとすれば美香は母親から棄てられた娘ということになるというわけで、その辺が美香の屈託となり詩の言葉を紡ぐ要因ともなっているようだ。
一方の相手役である慎二だが、彼にも抱えているものがあって、慎二は左目がほとんど見えない。慎二の視点へと移行すると、スクリーンの左半分が黒くマスクされ、外界はスクリーンの右半分に開かれた覗き穴から見たような状態となるわけで、こうした視野は慎二が自らの内面に閉じこもっていることを感じさせる。
そんなふたりが何度かの偶然も重なったりしつつ近づいていくことになるのだが、美香は「この星に、恋愛なんてものはない」とも詠っているだけにふたりの関係もすんなりとはいかずに行ったり来たり繰り返すことになる。

舞台は東京で、ふたりは身近に「死」を感じつつ生きている。ちなみにウィキペディアによれば原作者の最果タヒ(さいはて・たひ)の「タヒ」とは、漢字の「死」から採られたらしい。看護師の美香は病院で死んでいく患者たちを目の当たりにするし、慎二は友人である智之(松田龍平)や隣人の突然死に遭遇したり、仕事の過酷さにズボンのチャックも上げられない同僚・岩下(田中哲司)の自殺を心配してみたりもする。そして、美香と慎二の最初の共通点というのが、「嫌な予感がする」という部分でふたりが深く納得したことだった。
おもしろいのはふたりの恋愛(もしくは腐れ縁?)が、いつ成就したのかは描かれないということだ。ふたりの関係がそれなりに確固たるものとなっても、それによって世界がバラ色に変わるわけではないし、「嫌な予感がする」という状態も続いている。ただ、ふたりが一緒にいれば美香の内面の声は減り、慎二の自閉も解消され、自然と対話の場面が多くなる。
元々詩を詠うことも誰かに何かを伝えたいということなのだろうし、隣に誰かがいれば自分の気持ちをその隣の人に伝えることになるのは当然だろう。そして、ときには予想もしないレスポンスが生まれる場合もある。「嫌な予感」はどんな悪いことでも起きる可能性であると同時に、「いいことだって起こるかもしれない」ことでもあるのだ。これは美香ひとりでは到達できなかったところと言えるのかもしれないし、そこには少しだけ希望がある。
しつこいくらい何度も登場する路上歌手(野嵜好美)が最後に成功を勝ち取るのは、まさにそんな奇跡なのかもしれない。「それでもみんなガンバレ」みたいな応援歌を恥ずかしげもなく謳い上げる歌手は、その歌声も容貌も「中の下」(『川の底からこんにちは』の登場人物たちと同様に)で、絶対売れることはないという見方がごく普通だろう。しかし、その予想は外れることになるわけで、ふたりの未来だってもしかすると奇跡的ないいことだって起こり得るかもしれないのだ。
詩から発想された映画ということで、繊細と同時に青臭くも感じられる作品で好みは分かれそう。私自身は青臭いのを自覚しているので、嫌いではない。
池松壮亮の慎二はその微妙なバランスを醸し出している。弱味につけこまれるのを嫌い、読書で何かから自分を防御しているようでいて、カラオケではなぜか「CHE.R.RY」を歌って呆れられるという浅薄さ。だけどスレてないところが美点だろうか。
新人の石橋静河は、最近の『PARKSパークス』にも顔を出していて、今の世代とは異質な昭和の女を演じていても違和感がなかった。まだまだ若い人なのだけれど流行りなどには影響されない人なのかもしれない。この作品でもポケットに手を突っ込んで歩くたたずまいが堂々としていて、新人らしからぬ雰囲気があったと思う。
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