『ムーンライト』 たまたま同性だった?
監督は本作が長編2作目だというバリー・ジェンキンス。

たとえば『それでも夜は明ける』のように人種差別に喘いでいたりとか、『ストレイト・アウタ・コンプトン』に描かれたヒップホップスターのような黒人のイメージしかない見聞の狭い人間としては、『ムーンライト』に描かれるシャロンの姿は新鮮なものにも感じられた。うつむき加減で内気な黒人がいてもおかしくはないはずで、観る側の勝手なイメージを黒人に押し付けてしまっているわけだが、本作の主人公はよくある型にはまった黒人像とは違っているように思えた。
本作ではシャロンの成長が3つの時代に分けて描かれる。まず気がつくのは白人がほとんど登場しないことだろう。舞台となるマイアミが実際黒人だらけなのかはわからないけれど、シャロンの周囲には白人の姿は見えず人種差別の問題は表立っては出てこない。ただシャロンは少年時代にも高校時代でも“オカマ”と言われていじめの対象になっていて、次第にセクシャリティの問題が前面に出てくることになる。
※ 以下、ネタバレもあり!

ラストから振り返るとすると、シャロンとその友人ケビンの純愛の話のようにも思えるのだが、果たして本作が同性愛の話だったのかは疑問にも感じられた。もしかするとヘテロセクシャルの鈍感さが本作の繊細な部分を感じとれないことによるのかもしれないけれど……。
シャロンの母親(ナオミ・ハリス)は麻薬中毒者であり、シャロンはいつもネグレクト状態にあった。学校でも自宅でも居場所がなく、たまたま逃げ込んだ廃墟で出会ったのがフアン(マハーシャラ・アリ)であり、シャロンは以後フアンのことを父親のように慕うことになる。その後、成人したシャロンの姿はフアンそっくりであり、明らかにフアンになりきろうとしている。
ただ一方ではフアンは麻薬の売人でもあり、シャロンのネグレクトの原因でもある麻薬を母親に売りつけている張本人である。子供時代のシャロンはそんなフアンに疑問を投げかけるのだが、フアンはそれに答えることができない。シャロンにとってフアンは屈折した感情を抱かざるを得ない人物だったはずだ。それでもシャロンはそんなフアンになりきり、同じように売人を生業とすることでしか、その後の人生を生き抜くことができなかったということだ。
シャロンの世界はごく限られたものであり、彼の前に開かれた可能性も大きいものとは言えない。彼の周りにはフアンとその妻を除けば、ケビンくらいしか親身になってくれる人がいないのだ。シャロンの同世代の登場人物がケビン以外には男も女も出てこないのは、シャロンの世界の狭さを示しているようにも思える。そんな意味では、シャロンのケビンに対する想いは、たまたま優しく手を差し伸べてくれた人が同性だっただけとも言えるのではないか。セクシャリティを自分が選択できるのか否かという問題は別としても、シャロンにはケビンしかそうした対象がいなかったのかもしれないのだ。いつまでもそのことを胸に秘めていたというラストの告白は、だからこそ何とも切ないものに響いた。
大人になって筋肉の鎧を身につけたシャロンだが、それは黒人に備わる先天的なものではなく、日々の鍛錬によって獲得したものだったようだ。シャロンは生きるためにそうした肉体によって虚勢を張らなければならなかったということであり、その中身はいつまでもリトルと呼ばれていた時代のままなのだろうと思う。
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