『哭声/コクソン』 信じた者にはそう見えてしまう
よそ者の日本人役を演じる國村隼は、韓国の映画賞・青龍映画賞で外国人俳優として初受賞となる男優助演賞と人気スター賞のダブル受賞を果たしたとのこと。

警察官ジョング(クァク・ドウォン)の住む韓国の平和な村で一家惨殺事件が起きる。ある男が狂ったように自らの家族に手をかけたのだ。犯人には湿疹ができ、目はうつろ、正気を失っているように見える。ジョングは捜査のなかで山に住む日本人のよそ者(國村隼)の噂を耳にするのだが……。
凄惨な事件からスタートしたこの作品だが、主人公のジョングの風貌からかのんびりした雰囲気が漂う。事件の原因としては一応毒キノコが挙げられ、それによって幻覚を見た犯人が凶行に及んだのではないかとも説明される。しかし毒キノコだけでそんな事件を起こすだろうかという疑念もあり、村に住み着いたよそ者の日本人が事件に関わっているのではないという憶測が飛び交うようになる。
殺人事件の捜査から始まる物語は、祈祷師イルグァン(ファン・ジョンミン)と悪霊とされたよそ者との対決の様相を呈するのだが、そこに事件の目撃者ムミョン(チョン・ウヒ)という女も加わって、誰が善で誰が悪なのか二転三転する展開で観客を煙に巻いていく。自分が見ているものが何なのかといった幻惑感は滅多にない感覚だったように思う。
※ 以下、ネタバレもあり!

◆様々な解釈あるいは矛盾
最終的にたどり着いたところから見ていけば、ムミョンは村の守護神のような存在で、祈祷師イルグァンはジョングの娘を苦しめている悪となり、よそ者は祈祷師とグルとなっているといる可能性もある。そうしたなかで警察官のジョングはムミョンとイルグァンの間で揺れ動くものの、自ら悲劇を招いてしまうことになる。
しかし結末を見てもなお、その結末を信じていいのかわからないような気分で、様々な解釈が考えられそうでもある。さらにどんな解釈に立ってもどこかに矛盾が生じるようにも思える。
『哭声/コクソン』の冒頭ではルカによる福音書の第24章の一部が引用されている。これはイエスが復活したのに、そのことに誰も気がつかないというエピソードになっている。イエスの噂話をしている人々は、通りかかったイエスと話をしているにも関わらずイエスとは気がつかないし、もしくは気づいたとしても亡霊だと勘違いする。そこでイエスはこんなふうに語る。「わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしなのだ。さわって見なさい。霊には肉や骨はないが、あなたがたが見るとおり、わたしにはあるのだ」と。
このイエスの言葉は見たままを信じなさいということだ。イエスは一度死んで復活した。そのイエスが目の前に実体としてあるのだから、復活をそのまま信じなさい。イエスがわざわざこんなことを言うのは、信じていないものは見えないからでもある。つまり、一度死んだ人が復活するということを信じられない人は、イエスが目の前に居てもそれに気づくことはないのだ。信じているものが違う人にとっては、世界は別様に現れるということであり、この作品に矛盾があると感じられるとすれは、それは視点となる登場人物の信じるものが異なるからなのかもしれない。
◆それぞれの世界
この作品で最初にジョングがいる世界は、世俗化された社会で殺人事件の原因は科学的に実証できるものとして示される(つまりは毒キノコによる錯乱)。しかし、ジョングは娘の身体にも発疹ができていることを知ることで、それ以外の原因を探り始める。
映画の中盤で祈祷師イルグァンが山を越えてやってくるあたりで、映画のジャンルが変わったような気がするのはそれまでの世俗化された世界から祈祷師たちが活躍する呪術的世界へと移行していくからだろう(雰囲気も陰鬱さを増していく)。イルグァンの登場によって世界は一変し、呪いによって人が支配される世界となる。そして映画のジャンルはオカルトとなり『エクソシスト』的な対決が描かれる。

◆よそ者とは何者か?
この作品のなかで一番謎を秘めているのはよそ者の日本人だろう。というのは、よそ者はそれを見る人によって様々な姿となって現れるからだ(見られる存在であるよそ者は見る人の主観で様々な姿に見えるわけだが、よそ者自身がカメラで村人を撮影するのは、自分が客観的な視点を持っていると示そうとしているのかもしれない)。
日本人を怖いものだと信じ込んでいる村人には、よそ者はシカ肉を生のまま喰らう赤鬼のように見える。そしてキリスト教の見習い神父にとってはサタンのようにも見える。とはいえ、よそ者が実際のところ何をやっているのかははっきりしない。中盤の見どころでもある祈祷対決は、イルグァンが「殺」を送っていたのはジョングの娘であり、よそ者が狙っていたのは別の村人である。それでもその村人を助けようとしていた可能性も残り、よそ者は善か悪か判然としないのだ。
それは最後にキリスト教の見習い神父がよそ者と対峙する場面にもよく表れている。この場面のよそ者の手の平には聖痕がある。この時点では、見習い神父にとってよそ者は多くの人には誤解されているかもしれないけれど、どこかに聖なるものを感じさせていたものと思われる。それでも対話のなかで見習い神父のなかの疑念が増幅されていき、よそ者はサタンの姿へと変貌を遂げてしまう。
先ほどルカによる福音書についての部分では「信じていないものは見えない」と書いたが、これを逆に言えば「信じた者にはそう見えてしまう」ということでもある。見習い神父はよそ者のことを悪だと信じてしまったからこそ、よそ者はサタンへと変わることになる。
同じことは祈祷などの呪術そのものにも言えて、世俗的な社会に生きる人ならば、祈祷の類などは迷信にすぎないと思うだろうが、それを信じている者にとってはその力は実在するものとなる(実際に祈祷によって治癒する病もあるのだろう)。祈祷師が言っていた「餌に喰らいつく」というのは、ジョングの娘が呪術の力を信じてしまったということであり、だからこそジョングの娘は何かに憑依されてしまう(「信じる者は救われる」ではなく「信じる者は呪われる」)。呪術の力を信じてなければその力は発揮されないわけで、村の守護神ムミョンの力が祈祷師には効果てき面なのにジョングには効かないのは、ジョングが呪術の力を疑っているからだろう。
◆矛盾をそのまま提示する
この作品では登場人物の信じるものによって、それぞれの世界は主観的に違ったものとして捉えられる。互いに矛盾した世界の現れが、そのまま作品を構築していくことになるために、すべてにおいて整合性のとれた解釈というものは無理ということになるのだろう。
監督・脚本のナ・ホンジンはキリスト教徒とのことで、新約聖書の4つの福音書においても互いに矛盾した記載があるという事実にも影響を受けているのかもしれない。『福音書=四つの物語』

それはさておき、ジョングのような信念に欠けたのん気な人は、強烈な見方を提示する周囲の人に影響を受けやすい。ジョングは結局どっちつかずのままで悲劇を招いてしまったわけだが、そもそものきっかけはよそ者である日本人に対する偏った見方にあった。それも周囲の風評に流されてのことだったわけだけれど、ごく一般の人はそんなものかもしれないとも思う。私もこの映画を観ながらあっちへこっちへと揺さぶられながら、どれが正しい道なのかなどまったく見当もつかなかったわけだし……。
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