ミヒャエル・ハネケ 『白いリボン』 ハネケ映画の“不快さ”とは?

 2009年のカンヌ映画祭パルムドール受賞。

『白いリボン』 マルティンと“純心”の象徴である白いリボン

 『ファニーゲーム』の悪い噂は聞いていた。よせばいいのに怖いもの見たさでDVDを鑑賞したのだが、噂に違わぬ不快さで、せっかくの休日もどんよりとした気分で過ごす破目になった。鑑賞後、その映画の監督が『ピアニスト』のミヒャエル・ハネケだったことを知り、勝手に納得した。観たことを後悔してしまうほどの後味の悪さがハネケという監督の味なんだと。
 「この後味の悪さは何だろうか」と疑問符を抱きはしても、わざわざ不快さを追体験するほどの物好きでもないから疑問もそのままになっている。カンヌ映画祭でパルムドールを受賞した、この『白いリボン』も気にはなっていても後回しに……。

『白いリボン』 村の風景と少女たち

 舞台はドイツの片田舎。かつて村の教師をしていた老人の回想から映画は始まる。
「これから話すことが真実か、あまり自信はない。噂で聞いた部分もある。…(略)…それでもあの出来事こそがおそらく当時の我が国そのものなのだ。」
 まず始まりには医者の落馬事故が生じる。これは何者かの策略で、見えないように針金が張られていたため、医者は折れた鎖骨が首に刺さるほどの重症を負う。その犯人が判明する間もなく別の悲劇が起きる。小作人の妻が作業中に事故死するのだ。村のなかには不穏な雰囲気が広がっていく。
 この映画には教師という語り部もいるが、村の社会そのものが主人公みたいなものだ。登場人物は多い。村人半分の雇用者である大地主の男爵家、家令(男爵家の使用人)の家族、牧師家族、医者家族とその愛人、小作人家族など。村人たちは互いのことをよく知っていて、噂などはすぐに広がる。そんな誰もが互いを見知っている小さな村が舞台となっている。
 「顔が見える範囲の世界を描いた作品には名作が多い」みたいなことを誰かが記していた。これはガルシア=マルケス『百年の孤独』とか大江健三郎『懐かしい年への手紙』みたいな作品を念頭に置いていたと思うが、「顔が見える範囲の世界」を描いた作品は、個人と社会の関係が一番わかりやすい形で見えるという意味だろう。
 引きこもりが題材では社会は描けないし、対象を国家などに広げすぎれば茫洋として取り留めのないものとなるだろう(国家政策なんて村人には降って湧いた押し付けにしか感じられない)。顔が見える範囲の話だから、村のなかで起った不穏な出来事が村人に不穏な空気を醸成していき、新たな事件を引き起こしていく。そんな雰囲気がとてもよく出ている。

 この映画では事件が解決することはない。そして次第に暴力はエスカレートしていく。そんな村の雰囲気を一掃するように、突然、戦争への足音を知らせる事件(オーストリア大公暗殺)が村に伝えられる。村の不穏な雰囲気とドイツという国家の戦争は別なはずだが、映画冒頭で「あの出来事こそがおそらく当時の我が国そのもの」と語られるように、そうした村の雰囲気が後の歴史を生んでいるようにも見える。
 プロテスタントの窮屈な雰囲気が、その後ナチスを生むような何かを育んだ。そう読むこともできるが、ハネケ自身はこの映画をそんなふうに限定しないほうがいいと注意を促しているようだ。

「ある思想がイデオロギーへと変異するときはいつも、そのイデオロギーは生活がうまくいっていない人々によって支持されます。これは、テロリズムに関するすべての形式の基本モデルです。」 (*1)


 窮屈だからといってテロリズムが正当化されることもないが、牧師の子供たちの態度は示唆に富む。
 医者が狙われたのは、彼が近親相姦も厭わぬ畜生だからだ。つまり対象の選別が行われている。牧師の長男マルティンはその後、神様を試すような行為(橋の欄干での綱渡り)をする。自分の行為が神様の意思に沿っているのかを試すのだ。こんなマルティンの考えは、神様に罰されなければ“何でもあり”になる。だからそれだけでも充分に恐ろしいのだが、長女クララが小鳥に手をかけるのは、無理解な父に対する単なる八つ当たりであり、むしろこちらのほうが恐ろしいかもしれない。
 村の不穏な空気はテロリズムに留まらず、様々な鬱屈をも吐き出させるきっかけになってしまう。そうでなければ医者の愛人の障害児までが犠牲になるはずがないのだ。
 テロですらない、何の主義主張もない不気味な暴力まで描いている点で、ドイツの歴史だけではない普遍的なものを感じさせる『白いリボン』はやはり怖い映画だ。けれども過去作に比べれば不快な部分は医者のパーソナリティくらいなもので、モノクロで表現される村の風景(収穫作業や無人の雪景色など)は美しく、カンヌ映画祭での受賞も納得の作品だ。
 
 この文章の冒頭で、ハネケ映画の“不快さ”について記した。『白いリボン』を観て、その“不快さ”が少しわかった気がした。
 『白いリボン』のなかで、牧師が長男マルティンを説教する場面がある。

「神様が聖なる覆いで守っている繊細な神経に害をなす者に出会った。少年は彼の真似をし、止められなくなった。」


 牧師はマルティンの非行の原因をこう説明する(この説教自体は親の無理解を子供に押し付けているだけとしか思えない)。ハネケはさしずめこの“害をなす者”なのだろう。“聖なる覆い”で守られているものを露にしようとするからだ。そしてむきだしの真実は人を不快にさせるのだ。
 『シェルタリング・スカイ』という作品(*2)もあったが、キリスト教の感覚では、神様がわれわれの世界を庇護しているシェルタリングと受けとめられているようだ。その覆いを外すことは、黙示(アポカリプス)と呼ばれる。覆いを外すことで、隠されていた真実が明らかにされるのだ。
 もちろんハネケ映画の“不快さ”の意図は、観客に害をなすのではなくて、観客に真実を明らかにすることだろう。『白いリボン』ではドイツの歴史を描いている側面もあるからか、その覆いは完全に外されたとは言えない。
 教師は真実を明らかにしようと、牧師に対して子供たちに対する疑念を告白する。しかし、牧師はそれを「不快な話」だとして闇に葬ってしまう。牧師によって再び覆いは閉じられてしまい、真実が明らかになることはないのだ。
 当然なのだが、ハネケは“不快さ”ばかりの人ではないようだ。『愛、アムール』(来年、3月公開予定)でも再びカンヌのパルムドールを獲得したらしいし、やはり無視できない存在なのかもしれない。

(*1) http://planeta-cinema.at.webry.info/201004/article_2.html
 上記ブログから引用させていただきました。

(*2) 『シェルタリング・スカイ』はポール・ボウルズの原作で、ベルナルド・ベルトルッチ監督によって映画化されている。「庇護する空」のイメージに関しては、原作のほうがわかりやすい。


ミヒャエル・ハネケの作品
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Date: 2012.11.11 Category: 外国映画 Comments (0) Trackbacks (0)

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