『沈黙 -サイレンス-』 遠藤周作からスコセッシへ
原作は遠藤周作の小説『沈黙』。
日本が舞台の作品だけに、様々な日本人キャストが登場するのも見どころ。以下のレビューでは触れることはできなかったが、浅野忠信はいい味を出しているし、映画監督のSABUとか、某プロレスラーがちょい役で登場したりもする。

江戸時代初期、日本は鎖国政策を採っていてキリスト教は弾圧されている。主人公のロドリゴ神父(アンドリュー・ガーフィールド)が日本へとやってくることになるのは、彼の師であるフェレイラ神父(リーアム・ニーソン)が棄教したという報せを受けたからだった。不屈の信念を持つフェレイラ神父に限ってそんなことはないとロドリゴは否定するものの、彼を助けるために危険な場所である日本へと向かうことになる。
冒頭で描かれるのは白く煙るほどの硫黄が立ち込める雲仙地獄での拷問の様子。煮えたぎる温泉を注がれ肌を赤く爛れさせる隠れキリシタンたち。その傍らには斬られた生首も見える。キリスト教徒にとってはまさに地獄のような場所が当時の日本だった。
そんな場所に密かに潜り込んだロドリゴと同僚のカルペ神父(アダム・ドライヴァー)だが、彼らの存在は誰にも知られてはならない。見た目ですぐに正体がばれてしまう異邦人の彼らは為す術もない。山の奥深くに隠れつつ隠れキリシタンの村人の告解を聞くなどの役目を果たしているものの、そのうちにその存在がバレて捕まってしまう。

◆弱き者の居場所
本作では殉教者として死んでゆく隠れキリシタンの姿が描かれる。最も壮絶だったのは塚本晋也が演じたモキチで、彼は波打ち際に立てられた杭に張り付けにされ波に呑まれるままに衰弱していく。モキチは最後まで信仰心を棄てることなく、杭の上で賛美歌を歌いつつ死んでいく。
そうした強き者がいる一方でそんな苦痛に耐えられない者もいる。その最たる者がキチジロー(窪塚洋介)で、彼は何度も転ぶ(=棄教)ことになる。さらにキチジローはロドリゴ神父を井上筑後守(イッセー尾形)に引き渡す役割まで演じることになる。キチジローはロドリゴを裏切りつつも、日本で最後の神父となったロドリゴの下に戻ってきて赦しを乞う。ロドリゴはそんな弱くて愚かなキチジローを蔑むような目で見る瞬間もある。それでもキチジローの「弱き者の居場所はないのか」という問いにロドリゴは心を動かされることになる。
◆日本におけるキリスト教徒
私自身はキリスト教の信者でもないし、原作者の遠藤周作に関してとりわけ詳しいわけでもないのだけれど、この原作小説にも書き込まれているように、遠藤周作は日本におけるキリスト教の信仰というものに疑問を抱いていたという側面があるようだ。たとえばウィキペディアなんかを見ると、「日本人でありながらキリスト教徒である矛盾」がテーマだとされている。
映画のなかでもフェレイラ神父が語るように、「神のひとり子」が日本では「大日(如来)」として解釈されて受け入れられていた。「Son(息子)」が「Sun(太陽)」になってしまったというよりも、創造主という考え方そのものがないわけで、日本における信仰心のあり方は結局自然を崇拝することにほかならないということだ。キリスト教も日本においては別のものへと姿を変えてしまっているのかもしれない。そうした留保が遠藤周作にはあったのだろう。
◆神の沈黙
イエスの教えという福音をもたらすために日本にやってきたロドリゴだが、それが日本の信徒たちにとって災いとなっている状況をフェレイラによって知らされる。祈りは何の役にも立たず、神は相変わらず沈黙を続けている。最後の最後でロドリゴは転ぶことになるわけだが、そのとき初めて神の沈黙は破られることになる。
「踏むがいい、私はお前たちに踏まれるため、この世に生まれ、お前たちの痛さを分つため十字架を背負ったのだ。」
この言葉を聞いたのはロドリゴだが、これは原作者の遠藤周作がこの小説を書くことで見出したキリスト教に対する理解ということなのだろうと思う。形式的にとはいえ踏絵を踏むことを是とするような慈悲深く母性的とも言える神の言葉は、キチジローの発した「弱き者の居場所」という問いや、日本においてキリスト教徒であることを考え抜いた結果生まれた言葉ということだろう。

◆遠藤周作からスコセッシへ
遠藤周作の小説は出版された当初は反発も大きかったらしい。というのも正統派の教えからすれば異端ということになるからだろう。
同じようにスコセッシが監督した『最後の誘惑』(原作はニコス・カザンザキス)も物議を醸した作品だった。この作品ではイエスは神の存在を身近に感じているのだが、それでも自らの使命について人間的に疑問を抱きつつ十字架に架けられる。さらにイエスがマグダラのマリアとの結婚生活を送るという幻想もあって、いくつものキリスト教の団体から不評を買ったようだ。どちらも正統派の教えとは異なるのかもしれないけれど、弱き者に対する寄り添い方(イエスも人間であり弱さを持つ)という点では相通じるところがあるのだろうと思う。
何かのインタビューでスコセッシが自身の作品のなかで繰り返し観るものは『最後の誘惑』だと語っていた(ように記憶している)。そんな思い入れの強い作品と通じ合うものがあるからこそ、この『沈黙 -サイレンス-』は企画倒れになりそうになりながらも、28年もの年月を経てもこうして映画化することができたということなのだろう。
◆スコセッシのアプローチ
この物語にはドラマチックな葛藤がある。信仰を守るために殉教するか、あるいは生き延びるために踏絵を踏むか。そうした部分を盛り上げようとすれば、劇伴で観客の感情を高ぶらせることは可能なはず。しかし、本作では劇伴がほとんどない。一部に控え目には劇伴が流されるが、ほぼ自然の音だけで成り立っているのだ。
隠れキリシタンたちは神の恩寵など感じることもなく無残に死んでいくことになるわけで、スコセッシはそこに音楽は不要だと考えたということだろう。エンディング・ロールでも虫の鳴き声、風の音、木々のざわめき、雷鳴など自然の音だけが続くのは「神の沈黙」を示してもいるのだろうし、日本における宗教心のあり方(=自然崇拝)をも感じさせるものだった。
2時間半以上の長丁場の作品だけれど、それをあまり感じさせないほど引き込まれる作品だった。重苦しい作品だし、キリスト教徒以外の者には馴染みがないテーマとも言えるのかもしれない。それでも「弱き者の居場所」という問いは、誰もが真摯に受け止めざるを得ないだろう。遠藤周作もキチジローのような弱き者に自らを重ねていたわけで、私自身も含めた多くの人がそうした立場にあるのだろうし、強き者でありたいと願う者もいつまでもそれが続くとは限らないわけだから……。
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