『手紙は憶えている』 「忘却は救い」では済まないのだけれど
脚本はベンジャミン・オーガスト。

妻の葬儀が終わって一段落したころ、ゼヴ(クリストファー・プラマー)は友人マックス(マーティン・ランドー)から「約束を憶えているか」と尋ねられる。マックスはもの忘れの激しいゼヴに代わり、ゼヴが果たさなければならない復讐について手紙に記したのだという。ゼヴはその手紙に従って老人ホームを抜け出していくのだが……。
90歳のゼヴは朝起きると妻のルースを探す。しかし、どこにもルースの姿はない。ルースはすでに亡くなっているのだが、ゼヴは認知症による記憶障害でそれを忘れてしまっているのだ。だからゼヴの1日はルースが亡くなったことの確認から始まる。
そんな認知症の老人が復讐のために旅をすることになるわけだが、それには理由がある。ゼヴはユダヤ人だからだ。それは彼の腕に刻まれている囚人番号がはっきりと示している。マックスもアウシュヴィッツで一緒だったユダヤ人で、ゼヴは彼と“ルディ・コランダー”を名乗って生き延びている男を殺すことを約束しているのだ。
※ 以下、ネタバレあり! 結末にも触れているので要注意!!

◆ネタばらし!
ゼヴは新しい記憶を次の日に持ち越すことはできない。そのために外部の記憶媒体に頼るほかない。誰かゼヴのことを知っている人がいればその人が教えてくれるかもしれないし、忘れてはいけないことをノートに記録しておくこともできる。この作品では友人マックスが記した手紙こそが外部の記憶媒体となっている。それがなければゼヴはいつまでも亡き妻の姿を探し求めるしかないのだが、その手紙のおかげでゼヴは毎朝自分の来歴と与えられた使命を確認することができる。
1日しか記憶が保持できないという設定は『リピーテッド』とよく似ている。『リピーテッド』でも主人公の記憶障害に付け入ろうとする輩が登場したように、『手紙は憶えている』でもゼヴに都合のいい記憶を植え付けようという人物がいることは予想がつく。しかも予告編でも「ラスト5分の衝撃」などと煽っているわけで、結末に関しては予想が裏切られることもないだろうと思う。
ここでネタは明らかにしてしまうと、(以下、要反転)ゼヴこそが探していた“ルディ・コランダー”だったということになる。実はゼヴはドイツ人であり、ナチスの親衛隊だったのだ。戦犯として捕らえられることを避けるためにユダヤ人に成り代わって逃亡していたのだ。
このオチにはツッコミどころが多々あるだろう。たとえばアウシュヴィッツのことは憶えているにも関わらず、被害者の立場と加害者の立場を間違えてしまうことあるのかとか諸々。その意味では都合のいい部分もあることは確かなのだけれど、それでもなぜかラストには納得させるものがあったと思う。それにはゼヴがあまりにも耄碌したおじいちゃんで、その足取りの覚束なさに観客としても応援したくなってしまうということもあるかもしれないが、それだけでもなかったような気もする。アトム・エゴヤンは『白い沈黙』『デビルズ・ノット』と、最近はちょっとコケていたので心配していたのだけれど、この作品は持ち直したんじゃないかと思う。
◆忘却は救い?
太宰治は「忘却は、人間の救ひである」(『お伽草紙』)と書いているが、ゼヴにはすべてを忘れてしまったことで安らかに生きている瞬間がある。劇中、道端で転んで入院させられたときには、手紙のことすら忘れてしまい子供と一緒になってアニメを見ながら声を出して笑っている。このときのゼヴは自分がドイツ人だとかユダヤ人だとかはまったく考えていないだろう。そうした属性から自由になったことでアニメに心から夢中になることができるのだ。
属性から切り離されたゼヴは、ユダヤ人でもなければドイツ人でもない。アウシュヴィッツを生き延びてきたという来歴もない。そんなまっさらな人間としてゼヴは存在している。もちろん手紙を読む返すことで再びナチハンターとして目的を注入されることになるわけだけれど、ほかの様々な記憶が失われている分だけゼヴは人を縛り付けている属性からは自由になりニュートラルな立場にいる。
ゼヴはそんな立場にいるからこそ純粋な判断をしている部分もある。劇中でゼヴがピアノを弾く場面があるが、一度目はメンデルスゾーンであり、二度目はワーグナーとなっている。ワーグナーはヒトラーが好んだドイツの作曲家であり、メンデルスゾーンはユダヤ系の作曲家だ。ゼヴにとっては人種のことなど関係なく、音楽としていいものはいいという判断をしているのだ。
一方で3人目の“ルディ・コランダー”の子供として登場するナチ信奉者(ディーン・ノリス)は、ユダヤ人というだけですべてを拒否することになるのだろうし、復讐に執念を燃やすマックスも同様にナチスのことを決して許すことはないのだろうと思う。ゼヴと比べると、過去の記憶に囚われている人々の示す執念や頑なさには恐ろしいものを感じなくもない。
もちろんホロコーストのことを忘れてしまえばいいというわけではない。ラストではゼヴはしっかりと過去を思い出し、自らの過去を悔いることになるだろう。
◆夢想家の立場から
エゴヤンは『アララトの聖母』でも似たような題材を扱っている。(*1)『アララトの聖母』で描かれるのは、トルコによるアルメニア人虐殺だ。この作品は歴史を伝えることの重要性とその難しさも感じさせる。ゴーキーというアルメニア人の画家は、亡くなった母親の姿を絵に残すことで虐殺の被害者を忘却の彼方から救い出したと評されている。しかし、そのゴーキーは虐殺の記憶に苦しんだのか若くして自殺してしまう。「忘れるな、伝えろ」というメッセージを示しつつも、同時に複雑な想いも感じさせるのだ。
過去の出来事とそれを受け取ることになる現在の登場人物とが複雑な構成で絡み合っていく『アララトの聖母』とは違い、『手紙は憶えている』はすべてが現在進行形で語られていく。というのはゼヴには過去が存在しないからだ。
ゼヴはナチハンターとして行動するわけだが、あまり悲壮感はない。自動人形のように目的を遂行していくけれど、ゼヴは実際にはドイツ人なわけで、ナチに複雑な感情はあったとしても復讐心を抱いているわけではない。それでもゼヴがマックスに操られてしまうのは、ナチスが悪であるという常識的な判断は失われてはいなかったからかもしれない。
ゼヴは記憶を失うことでニュートラルな立場にある。私はそんなふうにゼヴを見ていたわけだけれど、実際にはそんな人間はいない。それぞれが民族や国や歴史に縛られて生きているわけで、それを忘れることはできない。二度と不幸な歴史を繰り返さないためにも、悲劇の歴史を伝えていくことはもちろん重要なことだ。
しかし、ジョン・レノンが「イマジン」で歌ったような夢想家ならば、そうした縛りから自由になることを想像するかもしれない。そもそもの始めから誰もがそうしたニュートラルな立場になれたとすれば、戦争にしても虐殺にしても生じなかったのではないか。そんなことをゼヴの姿から感じさせる瞬間があったようにも思う。
(*1) 今回久しぶりに観直したのだが、構成が複雑で到底要約して内容を伝えることは難しい。とりあえず声高にメッセージを訴えるだけの作品ではない。ちなみにクリストファー・プラマーも重要な役柄で出演している。
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