『少女』 因果関係には納得したとしても……
原作は『告白』『贖罪』など様々な作品が映画化されている湊かなえ。
監督は『繕い裁つ人』などの三島有紀子。

冒頭から少女たちがなぜか入水自殺をするイメージが描かれ、誰かの遺書が読み上げられる。この映画の少女たちは“死”というものに魅せられているようだ。彼女たちが「死ねばいいのに」という台詞を易々と他人に投げつけるのは、どこかで自分が“死”に魅せられていることの証左なのかもしれない。
敦子(山本美月)は剣道日本一の称号を手にしていたのだが、一度の敗北によっていじめに遭い自らの死を望んでいる。もうひとりの主人公である由紀(本田翼)は、友達の死体を見たという転校生・紫織(佐藤玲)の出現によって「人の死ぬ瞬間を見たい」と考えるようになる。
※ 以下、ネタバレもあり!

ラストで様々な伏線を回収してカタルシスを与えることを目的としたためか、どうにもそこに行くまでの転がり方がぎごちない。「因果応報」がキーワードとなっているにも関わらず、途中の展開には因果関係というものが感じられなかった。
たとえば、由紀が人の死の瞬間を見たいがために難病の子供ばかりがいる小児科病棟へ行くのはわかるけれど、敦子が老人ホームへボランティアに行くのは体育の単位の代わりという説明になっているだけで積極的な理由はない(原作では敦子も「人の死の瞬間を見たい」という願望を抱くらしい)。何だかよくわからないまま夏休み中にふたりがそれぞれの日々を送る描写が続く。
ふたりは幼いころからの親友だが、夏休みのふたりにはちょっと距離がある。これは転校生・紫織がふたりの間に入ったことがきっかけにも見える。しかし後に明らかになることだが、由紀の書いた小説『ヨルの綱渡り』もふたりの距離感の原因となっている。この小説は由紀が敦子をモデルとして記したもので、それを教師の小倉(児嶋一哉)が盗んで雑誌に発表してしまうというエピソードが最初に登場する。敦子は小説のネタにされたことをあまり快くは感じていなかったようなのだが、映画のなかではそんな敦子の気持ちは感じられない。
後半に、その小説が自殺を願う闇のなかにいる敦子を励ますために書かれたものであることが判明する。それによってふたりのわだかまりも解消することになるのだが、敦子が小説のネタにされたと思い込んでいたということが示されるのはわだかまりが解消される直前でしかない。もしかすると由紀と敦子の関係を悪意に満ちたものとして観客をミスリードするためだったのかもしれないのだが、『ヨルの綱渡り』が敦子に捧げられたものと明らかになる部分を感動的に描くつもりだったとすれば、わだかまりの原因を示さなければその解消が感動として受け止められないのではないだろうか。
ほかの様々な要素もバラバラに並べられているように感じられ、最後にそれらが結びついたとしても因果関係に納得はしたとしてもそれだけに過ぎないだろう。意図的に語り落としている部分があったとしても、それが謎として機能しているというよりは、単に説明不足のように感じられてしまうのだ。
だからか二度繰り返される敦子が由紀の手を取って走っていく場面はこの作品のキモになるはずなのに、ふたりが走り出すときの感情にまったく迫ってくるものがなかったように思う。二度目などはそれなりに重要な役柄である高雄孝夫(稲垣吾郎)が窮地にあるというのに、それを放って走り出してしまうし……。もちろん観客としての私が、日常のあいさつで「ごきげんよう」などと発する女子高生の繊細さを理解できない鈍感な人間という可能性はあるのだけれど……。
山本美月に関しては相変わらずとてもキレイで、それを崩すこともなかったのだけれど、本田翼は目が据わったような表情が印象的。ただ本田翼の役柄には際どい場面もあり得たはずなのにうまくかわされてしまったような気もして、「人が死ぬ瞬間が見たい」などと言っておきながらもほとんど羽目を外すところがなかったのは肩透かしかも。




監督は『繕い裁つ人』などの三島有紀子。

冒頭から少女たちがなぜか入水自殺をするイメージが描かれ、誰かの遺書が読み上げられる。この映画の少女たちは“死”というものに魅せられているようだ。彼女たちが「死ねばいいのに」という台詞を易々と他人に投げつけるのは、どこかで自分が“死”に魅せられていることの証左なのかもしれない。
敦子(山本美月)は剣道日本一の称号を手にしていたのだが、一度の敗北によっていじめに遭い自らの死を望んでいる。もうひとりの主人公である由紀(本田翼)は、友達の死体を見たという転校生・紫織(佐藤玲)の出現によって「人の死ぬ瞬間を見たい」と考えるようになる。
※ 以下、ネタバレもあり!

ラストで様々な伏線を回収してカタルシスを与えることを目的としたためか、どうにもそこに行くまでの転がり方がぎごちない。「因果応報」がキーワードとなっているにも関わらず、途中の展開には因果関係というものが感じられなかった。
たとえば、由紀が人の死の瞬間を見たいがために難病の子供ばかりがいる小児科病棟へ行くのはわかるけれど、敦子が老人ホームへボランティアに行くのは体育の単位の代わりという説明になっているだけで積極的な理由はない(原作では敦子も「人の死の瞬間を見たい」という願望を抱くらしい)。何だかよくわからないまま夏休み中にふたりがそれぞれの日々を送る描写が続く。
ふたりは幼いころからの親友だが、夏休みのふたりにはちょっと距離がある。これは転校生・紫織がふたりの間に入ったことがきっかけにも見える。しかし後に明らかになることだが、由紀の書いた小説『ヨルの綱渡り』もふたりの距離感の原因となっている。この小説は由紀が敦子をモデルとして記したもので、それを教師の小倉(児嶋一哉)が盗んで雑誌に発表してしまうというエピソードが最初に登場する。敦子は小説のネタにされたことをあまり快くは感じていなかったようなのだが、映画のなかではそんな敦子の気持ちは感じられない。
後半に、その小説が自殺を願う闇のなかにいる敦子を励ますために書かれたものであることが判明する。それによってふたりのわだかまりも解消することになるのだが、敦子が小説のネタにされたと思い込んでいたということが示されるのはわだかまりが解消される直前でしかない。もしかすると由紀と敦子の関係を悪意に満ちたものとして観客をミスリードするためだったのかもしれないのだが、『ヨルの綱渡り』が敦子に捧げられたものと明らかになる部分を感動的に描くつもりだったとすれば、わだかまりの原因を示さなければその解消が感動として受け止められないのではないだろうか。
ほかの様々な要素もバラバラに並べられているように感じられ、最後にそれらが結びついたとしても因果関係に納得はしたとしてもそれだけに過ぎないだろう。意図的に語り落としている部分があったとしても、それが謎として機能しているというよりは、単に説明不足のように感じられてしまうのだ。
だからか二度繰り返される敦子が由紀の手を取って走っていく場面はこの作品のキモになるはずなのに、ふたりが走り出すときの感情にまったく迫ってくるものがなかったように思う。二度目などはそれなりに重要な役柄である高雄孝夫(稲垣吾郎)が窮地にあるというのに、それを放って走り出してしまうし……。もちろん観客としての私が、日常のあいさつで「ごきげんよう」などと発する女子高生の繊細さを理解できない鈍感な人間という可能性はあるのだけれど……。
山本美月に関しては相変わらずとてもキレイで、それを崩すこともなかったのだけれど、本田翼は目が据わったような表情が印象的。ただ本田翼の役柄には際どい場面もあり得たはずなのにうまくかわされてしまったような気もして、「人が死ぬ瞬間が見たい」などと言っておきながらもほとんど羽目を外すところがなかったのは肩透かしかも。
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