監督・脚本 内田けんじ 『鍵泥棒のメソッド』 “殺し屋”と“役者”の入れ替わり喜劇
『運命じゃない人』で、カンヌ映画祭でも賞を獲得した内田けんじ監督の第4作目。
出演は堺雅人、香川照之、広末涼子など。

内田けんじ監督は自主制作映画の登竜門であるPFF(ぴあフィルムフェスティバル)から出てきた監督だそうだ。(*1)どちらかと言えば自意識過剰な芸術志向が多い自主制作映画出身としてはやや異色とも思えるが、エンターテインメントに徹している。監督自身“メジャー志向”と言っているし、内田けんじの作品は誰もが楽しめる映画だ。
例えば「Yahoo! 映画」を見ると、『鍵泥棒のメソッド』は400人以上がレビューを記し、10月16日現在、評価は平均で4.2点(5点満点)だ。ビリー・ワイルダーの名作『昼下がりの情事』が4.3点だから、その評価の高さがわかる。単純に比較できないのは当然だが、『鍵泥棒のメソッド』はかなりの高評価だし、観客の人気も獲得している。
誰でも言うことだが、内田けんじは“脚本”の人である。時制を自由に操り視点を様々に変える、練りに練った脚本で観客を驚かせる。その意味では『鍵泥棒のメソッド』は、トリックは少なくオーソドックスな構成とも言える。その代わり、より観客に伝わりやすい設定と、観客の目を引く絵(銭湯での空中浮揚?)を見せてくれた。これまでの作品が登場人物たちの会話劇に終始していたのに対し、予告を見れば一気に引き込まれるような(言わばキャッチーな)、歌舞伎の言葉で言えば“見得”のようなシーンを用意しているのだ。演じるのは歌舞伎役者 九代目市川中車こと香川照之。宙に浮いた香川の姿は脚本には表現できないものだろう。
銭湯で滑って記憶を失った“殺し屋”コンドウ(香川照之)と、売れない“役者”桜井(堺雅人)が入れ替わる。それだけの設定でも十分におもしろい。そこに間近に結婚を控えつつも、未だ相手を探している生真面目な“編集者”香苗(広末涼子)が絡んでくる。
『鍵泥棒のメソッド』では、ふたりが入れ替わったことを観客(と桜井)はわかっているが、コンドウと香苗は知らない。これは内田監督の『運命じゃない人』『アフタースクール』とは逆のシチュエーションだ。『運命じゃない人』『アフタースクール』では登場人物は状況を理解していても、観客はほとんどそれを知らなかった(だから騙された)。
そのシチュエーションの違いから、おもしろさの質も変わってくる。3人が会する場面では、記憶喪失のため自身を売れない“役者”桜井だと思い込んだコンドウ(=香川)と、そのコンドウを慕う香苗の間を、全てを把握し自らが仕組んでしまった嘘がばれないように本物の桜井(=堺)が立ち回る。桜井(=堺)の不自然な行動はほかのふたりには理解できないが、観客には明らかだからクスクスとした笑いが生まれる。(*2)
『運命じゃない人』『アフタースクール』では、観客を騙すことに主題があるからか、演出はあくまでニュートラルで、観る人が登場人物に片寄った印象を抱かないように配慮されている。善人でもあやしい部分があり、悪人みたいな風貌だがまっとうな行動をしたりもする(悪人がいかにもあやしいばかりだと観客は騙せない)。出来事も過剰に時間を引き延ばしたりしてデフォルメされることはない。そこにはある種の“平板さ”がある(“退屈”を意味するわけではない)。“平板さ”は観客に状況を勘繰る余裕を与えるのと同時に、騙しのトリックを目立たなくさせる(どの出来事も同様のテンションで描かれるから、決定的な出来事さえもわかりにくい)。
こうした“平板さ”は意図されたものなのだろう。その“平板さ”のなかに、実はこんな意味やあんな感情が込められていたと判明するところがミソなわけだ。無表情の奥で巡らされるあれやこれやの企みだとか、笑顔の裏に潜む隠し事はあとになって解き明かされて観客を驚かせる。それまで信じてきた人物像が崩れていくような瞬間があるが、そこも意外とさらりと描かれている。劇的な演出はないが、劇的な展開が観客を驚かせるのだ。
一方で『鍵泥棒のメソッド』ではどうだろうか。コンドウの記憶が戻るまでは桜井だけがすべてを知っているおもしろさがあったが、記憶が回復して以降は、入れ替わったふたりがどうするのか、あるいはコンドウの仕事の依頼主であるヤクザとの騙し合いなどが物語を牽引する。もちろんコンドウと香苗との恋愛の部分もあるのだが、前2作で効果的だった意図的な“平板さ”が、この映画では単なる“平板さ”に陥っているように思えた。観客を手玉に取るトリックがない分、“平板さ”がそのまま盛り上がりの欠如に感じられてしまうような……。
内田けんじ監督はビリー・ワイルダーが好きだそうだ。同じくワイルダー信奉者の三谷幸喜の映画は、その映画の出来はともかくとしても、監督の悪ふざけみたいな部分が何より楽しい。内田けんじの『鍵泥棒のメソッド』に関して言えば、記憶回復した後半は、もっとけれん味のある演出でもよかったんじゃないかとも思う、贅沢を言うようだけれど。脚本通りにあくまで淡々と進行する印象があって、おもしろいのだけれど何か物足りないのだ。
(*1) 自主制作の『WEEKEND BLUES』がPFFアワードに入選し、『運命じゃない人』はPFFスカラシップ作品として製作された。残念ながら『WEEKEND BLUES』はまだ観ていません。
(*2) ドリフの「志村、後ろ!」みたいのものかもしれない。
内田けんじの作品
出演は堺雅人、香川照之、広末涼子など。

内田けんじ監督は自主制作映画の登竜門であるPFF(ぴあフィルムフェスティバル)から出てきた監督だそうだ。(*1)どちらかと言えば自意識過剰な芸術志向が多い自主制作映画出身としてはやや異色とも思えるが、エンターテインメントに徹している。監督自身“メジャー志向”と言っているし、内田けんじの作品は誰もが楽しめる映画だ。
例えば「Yahoo! 映画」を見ると、『鍵泥棒のメソッド』は400人以上がレビューを記し、10月16日現在、評価は平均で4.2点(5点満点)だ。ビリー・ワイルダーの名作『昼下がりの情事』が4.3点だから、その評価の高さがわかる。単純に比較できないのは当然だが、『鍵泥棒のメソッド』はかなりの高評価だし、観客の人気も獲得している。
誰でも言うことだが、内田けんじは“脚本”の人である。時制を自由に操り視点を様々に変える、練りに練った脚本で観客を驚かせる。その意味では『鍵泥棒のメソッド』は、トリックは少なくオーソドックスな構成とも言える。その代わり、より観客に伝わりやすい設定と、観客の目を引く絵(銭湯での空中浮揚?)を見せてくれた。これまでの作品が登場人物たちの会話劇に終始していたのに対し、予告を見れば一気に引き込まれるような(言わばキャッチーな)、歌舞伎の言葉で言えば“見得”のようなシーンを用意しているのだ。演じるのは歌舞伎役者 九代目市川中車こと香川照之。宙に浮いた香川の姿は脚本には表現できないものだろう。
銭湯で滑って記憶を失った“殺し屋”コンドウ(香川照之)と、売れない“役者”桜井(堺雅人)が入れ替わる。それだけの設定でも十分におもしろい。そこに間近に結婚を控えつつも、未だ相手を探している生真面目な“編集者”香苗(広末涼子)が絡んでくる。
『鍵泥棒のメソッド』では、ふたりが入れ替わったことを観客(と桜井)はわかっているが、コンドウと香苗は知らない。これは内田監督の『運命じゃない人』『アフタースクール』とは逆のシチュエーションだ。『運命じゃない人』『アフタースクール』では登場人物は状況を理解していても、観客はほとんどそれを知らなかった(だから騙された)。
そのシチュエーションの違いから、おもしろさの質も変わってくる。3人が会する場面では、記憶喪失のため自身を売れない“役者”桜井だと思い込んだコンドウ(=香川)と、そのコンドウを慕う香苗の間を、全てを把握し自らが仕組んでしまった嘘がばれないように本物の桜井(=堺)が立ち回る。桜井(=堺)の不自然な行動はほかのふたりには理解できないが、観客には明らかだからクスクスとした笑いが生まれる。(*2)
『運命じゃない人』『アフタースクール』では、観客を騙すことに主題があるからか、演出はあくまでニュートラルで、観る人が登場人物に片寄った印象を抱かないように配慮されている。善人でもあやしい部分があり、悪人みたいな風貌だがまっとうな行動をしたりもする(悪人がいかにもあやしいばかりだと観客は騙せない)。出来事も過剰に時間を引き延ばしたりしてデフォルメされることはない。そこにはある種の“平板さ”がある(“退屈”を意味するわけではない)。“平板さ”は観客に状況を勘繰る余裕を与えるのと同時に、騙しのトリックを目立たなくさせる(どの出来事も同様のテンションで描かれるから、決定的な出来事さえもわかりにくい)。
こうした“平板さ”は意図されたものなのだろう。その“平板さ”のなかに、実はこんな意味やあんな感情が込められていたと判明するところがミソなわけだ。無表情の奥で巡らされるあれやこれやの企みだとか、笑顔の裏に潜む隠し事はあとになって解き明かされて観客を驚かせる。それまで信じてきた人物像が崩れていくような瞬間があるが、そこも意外とさらりと描かれている。劇的な演出はないが、劇的な展開が観客を驚かせるのだ。
一方で『鍵泥棒のメソッド』ではどうだろうか。コンドウの記憶が戻るまでは桜井だけがすべてを知っているおもしろさがあったが、記憶が回復して以降は、入れ替わったふたりがどうするのか、あるいはコンドウの仕事の依頼主であるヤクザとの騙し合いなどが物語を牽引する。もちろんコンドウと香苗との恋愛の部分もあるのだが、前2作で効果的だった意図的な“平板さ”が、この映画では単なる“平板さ”に陥っているように思えた。観客を手玉に取るトリックがない分、“平板さ”がそのまま盛り上がりの欠如に感じられてしまうような……。
内田けんじ監督はビリー・ワイルダーが好きだそうだ。同じくワイルダー信奉者の三谷幸喜の映画は、その映画の出来はともかくとしても、監督の悪ふざけみたいな部分が何より楽しい。内田けんじの『鍵泥棒のメソッド』に関して言えば、記憶回復した後半は、もっとけれん味のある演出でもよかったんじゃないかとも思う、贅沢を言うようだけれど。脚本通りにあくまで淡々と進行する印象があって、おもしろいのだけれど何か物足りないのだ。
(*1) 自主制作の『WEEKEND BLUES』がPFFアワードに入選し、『運命じゃない人』はPFFスカラシップ作品として製作された。残念ながら『WEEKEND BLUES』はまだ観ていません。
(*2) ドリフの「志村、後ろ!」みたいのものかもしれない。
内田けんじの作品

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