『怒り』 闘うには相手が悪い
原作は『悪人』の吉田修一で、6年ぶりの李監督とのタッグとなる。
音楽は坂本龍一。

八王子で夫婦が惨殺される事件が発生する。その事件の現場には被害者の血で書かれた「怒り」という文字が……。犯人の山神のことはすぐに特定されるものの、山神は捜査網を掻い潜って逃げてしまう。
その1年後、物語は3つの場所を舞台に進行する。
【千葉篇】では、漁港に現れた田代(松山ケンイチ)という男が漁協組合の槙(渡辺謙)のもとでバイトをすることになり、田代は槙の娘・愛子(宮﨑あおい)と親しくなる。
【東京篇】では、優馬(妻夫木聡)はゲイたちが集う発展場で直人(綾野剛)と出会う。
【沖縄篇】では、友人と無人島散策に来た泉(広瀬すず)が廃墟で暮らしているバックパッカーの田中(森山未來)と知り合う。
それぞれの場所に現れた男(田代、直人、田中)は素性が明らかにされていない。もしかするとそのなかの一人は山神なのではないか。観客にそんな疑念を抱かせるように作られている。これは原作から引き継がれた一種のトリックで、観客は素性の知れない3人を殺人犯なのかという疑いの目で追っていくことになる。
原作小説は当然ながら山神の顔そのものを提示することはできない。手配写真が出たとしても、読者にはそれが誰を示すのかはわからない。しかし映画版『怒り』では手配写真そのもの登場する。すぐに誰が犯人かわかりそうなものだが、3人のうちの誰にでも見えるような処理がされている(最初の写真は整形前のもので田代に似ているとは言えるかもしれない)。しかも過去の山神を演じているのは実際の犯人役の役者だけではなかったのではないだろうか。疑いのかかる3人を演じる役者が、顔を見せずにいくつかの場面を演じ分けていたように見えた。だから観客としては余計に誰が山神なのかと疑心暗鬼に駆られることになる。
※ 以下、ネタバレもあり!


しかしこの作品は犯人探しのミステリーというわけではない。タイトルが示すように「怒り」がテーマになっている。
【沖縄篇】が一番わかりやすい。というのも泉は米兵にレイプされてしまうからだ。泉を「死ぬほど嫌な気持ち」にさせたこの出来事に怒りを覚えない人はいないだろう。【東京篇】ではゲイに対する理解のなさに、直人は「理解しようとしない人にわからせるのは難しい」といったことを諦めと共に語る。【千葉篇】の愛子は東京で風俗嬢として働いていた。田舎ではそうした噂はすぐに広まるわけで、父親の槙は世間がそんなことを許さないと語る。付け加えれば愛子には知的障害もあり、狭い漁港の町でそういう女性が幸せに生きていくことができるのだろうかと槙は心配に駆られている。
何かしら「怒り」は感じてはいても、それと闘うのはどうしたって無理な話なのだ。沖縄の基地問題は一人が声を挙げても如何ともしがたいだろうし、ゲイに対する無理解や世間の噂を敵に回しても勝ち目はない。だからこそ「怒り」を感じたとしても闘うことはできず、自分のことが知られていない場所へ身を隠すことになる。
身を隠した男はそこで誰かと親しくなり、「信頼」というテーマが顔を出す。ただ素性の知れない男をどこまで信頼できるのかは難しい問題で、観客であるわれわれも3人の男を疑って見ているように、登場人物たちも男を信頼しきれずに裏切ることになってしまう。
3人の男のうち2人は、理由があって自分が知られていない場所で息を潜めるように暮らしていたことが明らかになる。しかし周囲の人間はその2人を信じきることができなかったわけで、真相が明らかになって涙に暮れることになる。一方で犯人の男のことを信じてしまったがゆえに悲劇が起きることにもなる。
とても重いテーマである。人は誰も人のことを裏切りたいわけではないのだろうと思う。けれども信じきれない場合もあるわけで、素性が知れないというだけで大事な人を裏切ってしまうあたりは泣かせるものがあった。
まったく関係のない3つの場所の話だが、編集がとてもスムーズですんなりと物語に入っていくことができたと思う。【千葉篇】で槙と愛子の聴いた音楽に合わせて【東京篇】のゲイ・パーティーにつながり、その帰りに優馬が病床の母親と旅行の話をすると【沖縄篇】の透き通るような海のシーンへとつながっていく。そういった様々な編集技法が駆使されていて、真相が明らかになるまで一気に引っ張っていく力があったと思う。
そして、その力の原動力となっていたのは役者陣の熱演だろう。ゲイ役の妻夫木聡と綾野剛は新宿2丁目の雰囲気に溶け込んでいた(発展場はギャスパー・ノエの世界のようだった)。漁協のオヤジに扮した渡辺謙は漁協風のキャップが妙に似合っていたし、愛子を演じた宮﨑あおいは意外にもはまって見えた。原作では愛子はぽっちゃり体型だったはずで、宮﨑あおいとはまったく似ても似つかないはずなのだが、愛子の無垢な部分をしっかりと捉えていたのだろう。
さらに一番酷い目に遭わされる泉を演じたのが広瀬すずだったのも驚きだった。レイプの場面はお茶を濁したような描き方になるのかと推測していたのだが、かなり容赦ない描写で製作陣と広瀬すずの本気度が伝わってきたような気もした。その分重苦しさの度合いも並大抵ではなかった。
原作にかなり忠実な脚本で、犯人の唐突な暴れっぷりが原作を逸脱していくところなのかもしれないのだが、原作既読者には忠実すぎてもの足りなさも残るかも……。観終わってそんなことも感じていたのだが、今になっても何となく気分が晴れないような気もするのは、映像化された作品として『怒り』のテーマと向き合ったからなのかもしれないとも思う。広瀬すずの最後の絶叫には何が込められていたのだろうか?
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