『野のなななのか』 過去を受け継ぎ、未来を作る
大林宣彦監督の最新作。前作『この空の花』の姉妹編とも位置づけられる作品。
2014年5月に劇場公開された作品で、先月末にようやくソフトがリリースされた。
題名の「なななのか」とは「四十九日」のこと。仏教では命日から7日ごとに法要を行うわけだが、最初の七日を「初七日(しょなのか)」と言い、7回目の七日を「七七日(なななのか)」と言うのだとか。

92歳で大往生を遂げた鈴木光男(品川徹)。光男が暮らしていた「星降る文化堂」はかつての病院を改築したもので、迷路のようなつくりになっている。その暗い内部には赤いランプなど赤い小道具や印象的に使われている。光男の手にはなぜか血のような赤い色がこびりついているし、光男が描く絵画にも不自然な赤い色が使われている。光男の手がなぜ血で塗られることになったのか。そして、光男を慕う清水信子(常盤貴子)という女は鈴木家にとってどんな関係の人物なのか。
一応おおまかにまとめるとこんなふうになるのかもしれないのだが、この作品はそう単純に要約できる代物ではない。大御所の大林宣彦だからできるかなり自由なつくりになっていて、前作『この空の花』と同様にいろんなものが放り込まれているからだ。
まず、芦別で終戦を迎えた光男たち世代の過去が次第に掘り下げられていく。戦争の記憶を描くのは『この空の花』と同じだが、舞台は長岡から芦別へと変わる。芦別には芦別の戦争の物語があるのだ。(*1)他方で、光男と一緒に暮らしていたカンナ(寺島咲)をはじめとする孫たちの世代の話も並行する(そのなかには舞台である芦別の産業についての紹介や観光PRめいた部分もある)。
また、光男が亡くなったのは3月11日14時46分となっていて、ちょうど東日本大震災の2年後と設定され、「3.11のその後」というテーマも盛り込まれる。さらには孫の一人である春彦(松重豊)は泊原発の職員で、原発問題に関しても言及されたりして、とにかく盛りだくさんな2時間51分となっている。
音楽隊が登場して始まり、後半では光男が「ではここでぼくの過去を物語って進ぜよう」と語りかける手法は演劇的とも言えるけれど、背景となる芦別の映像は不自然にはめ込まれたような凝った映画的な表現になっていて飽きさせない。矢継ぎ早に繰り出される台詞の量に圧倒されるかもしれないけれど、テンポのいい台詞のやりとりは心地よいものに感じられた。前作を楽しんだ人には間違いなくお薦めの作品だし、今回も大林監督の力技に圧倒される作品になっていると思う。
(*1) このレビューをアップしたのは8月15日。つまりは終戦記念日だが、芦別の人たちにとってはまだ戦争は終わっていなかったらしい。


この映画は「人は常に誰かの代わりに生まれ、誰かの代わりに死んでゆく」という考えで成り立っている(つまりは輪廻転生)。信子はかつて光男が慕っていた山中綾野(安達祐実)という女性の生まれ変わりという設定だ。信子は綾野という女性の何かを受け継いでいるわけで、似たような運命を辿ることになる。それを“縛り”と考えるのか、“つながり”と考えるのか、そんなことも映画のなかでは語られている。
また、最後の場面では小佐田みちこ(野口陽花里)という脇役の少女が「わたしは誰? 誰だろね」という言葉を投げかけている。この少女の母親は、みちこを産んだときにそれが原因で亡くなっている。小佐田みちこという少女が芦別に生きているのは、母親をはじめとした長い長い命のつながりがあったからだ。さらにみちこは別の誰かの生まれ代わりでもある。「わたしは誰?」という問いかけは、みちこが誰からバトンを受け継いでいるのかということが強く意識されているのだ。
そして、この作品は前作同様に戦争の記憶を受け継ぐことをテーマにしている。それは光男の世代から孫たちの世代に受け継がれていくわけだが、同時に輪廻転生の考えに基づいて、過去の誰かの死を現在のわれわれが受け継いでいるということにもつながっていくのだろう。
信子は綾野の生まれ変わりであり、途中までは綾野と似たような道を辿る。しかし信子は生まれ変わりであることを拒否するような行動に出る(光男の家から出て行く)。綾野は戦争の犠牲となって死んでいったわけだけれど、信子はその運命を拒否したということなのかもしれない。
戦争の記憶を受け継ぐということは、失敗から学ぶということでもあるはずだ(前作の「まだ戦争には間に合う」という言葉もそれを意味していたはず)。何かを受け継ぐということは“縛り”なのかもしれないけれど、先人の過去から学ぶことで、“縛り”から逃れて何かを未来につなげていくことが可能になる。ここには過去を受け継ぎつつ、未来を作っていこうという大林監督の願いが込められているのだろう。

2014年5月に劇場公開された作品で、先月末にようやくソフトがリリースされた。
題名の「なななのか」とは「四十九日」のこと。仏教では命日から7日ごとに法要を行うわけだが、最初の七日を「初七日(しょなのか)」と言い、7回目の七日を「七七日(なななのか)」と言うのだとか。

92歳で大往生を遂げた鈴木光男(品川徹)。光男が暮らしていた「星降る文化堂」はかつての病院を改築したもので、迷路のようなつくりになっている。その暗い内部には赤いランプなど赤い小道具や印象的に使われている。光男の手にはなぜか血のような赤い色がこびりついているし、光男が描く絵画にも不自然な赤い色が使われている。光男の手がなぜ血で塗られることになったのか。そして、光男を慕う清水信子(常盤貴子)という女は鈴木家にとってどんな関係の人物なのか。
一応おおまかにまとめるとこんなふうになるのかもしれないのだが、この作品はそう単純に要約できる代物ではない。大御所の大林宣彦だからできるかなり自由なつくりになっていて、前作『この空の花』と同様にいろんなものが放り込まれているからだ。
まず、芦別で終戦を迎えた光男たち世代の過去が次第に掘り下げられていく。戦争の記憶を描くのは『この空の花』と同じだが、舞台は長岡から芦別へと変わる。芦別には芦別の戦争の物語があるのだ。(*1)他方で、光男と一緒に暮らしていたカンナ(寺島咲)をはじめとする孫たちの世代の話も並行する(そのなかには舞台である芦別の産業についての紹介や観光PRめいた部分もある)。
また、光男が亡くなったのは3月11日14時46分となっていて、ちょうど東日本大震災の2年後と設定され、「3.11のその後」というテーマも盛り込まれる。さらには孫の一人である春彦(松重豊)は泊原発の職員で、原発問題に関しても言及されたりして、とにかく盛りだくさんな2時間51分となっている。
音楽隊が登場して始まり、後半では光男が「ではここでぼくの過去を物語って進ぜよう」と語りかける手法は演劇的とも言えるけれど、背景となる芦別の映像は不自然にはめ込まれたような凝った映画的な表現になっていて飽きさせない。矢継ぎ早に繰り出される台詞の量に圧倒されるかもしれないけれど、テンポのいい台詞のやりとりは心地よいものに感じられた。前作を楽しんだ人には間違いなくお薦めの作品だし、今回も大林監督の力技に圧倒される作品になっていると思う。
(*1) このレビューをアップしたのは8月15日。つまりは終戦記念日だが、芦別の人たちにとってはまだ戦争は終わっていなかったらしい。


この映画は「人は常に誰かの代わりに生まれ、誰かの代わりに死んでゆく」という考えで成り立っている(つまりは輪廻転生)。信子はかつて光男が慕っていた山中綾野(安達祐実)という女性の生まれ変わりという設定だ。信子は綾野という女性の何かを受け継いでいるわけで、似たような運命を辿ることになる。それを“縛り”と考えるのか、“つながり”と考えるのか、そんなことも映画のなかでは語られている。
また、最後の場面では小佐田みちこ(野口陽花里)という脇役の少女が「わたしは誰? 誰だろね」という言葉を投げかけている。この少女の母親は、みちこを産んだときにそれが原因で亡くなっている。小佐田みちこという少女が芦別に生きているのは、母親をはじめとした長い長い命のつながりがあったからだ。さらにみちこは別の誰かの生まれ代わりでもある。「わたしは誰?」という問いかけは、みちこが誰からバトンを受け継いでいるのかということが強く意識されているのだ。
そして、この作品は前作同様に戦争の記憶を受け継ぐことをテーマにしている。それは光男の世代から孫たちの世代に受け継がれていくわけだが、同時に輪廻転生の考えに基づいて、過去の誰かの死を現在のわれわれが受け継いでいるということにもつながっていくのだろう。
信子は綾野の生まれ変わりであり、途中までは綾野と似たような道を辿る。しかし信子は生まれ変わりであることを拒否するような行動に出る(光男の家から出て行く)。綾野は戦争の犠牲となって死んでいったわけだけれど、信子はその運命を拒否したということなのかもしれない。
戦争の記憶を受け継ぐということは、失敗から学ぶということでもあるはずだ(前作の「まだ戦争には間に合う」という言葉もそれを意味していたはず)。何かを受け継ぐということは“縛り”なのかもしれないけれど、先人の過去から学ぶことで、“縛り”から逃れて何かを未来につなげていくことが可能になる。ここには過去を受け継ぎつつ、未来を作っていこうという大林監督の願いが込められているのだろう。
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