『シン・ゴジラ』 ゴジラがスクラップしたものとは?
総監督・脚本は庵野秀明、監督・特技監督は樋口真嗣となっている。
キャストは豪華で長谷川博己、竹野内豊、石原さとみなどなど。なぜか塚本晋也や原一男など映画監督も顔を出す。
『ゴジラ』については第1作と、先日テレビで放映していた2014年の『GODZILLA ゴジラ』(ギャレス・エドワード監督)くらいしか観ていないので、これまでの多くの作品との違いは正直わからない。今回は『新世紀エヴァンゲリオン』の庵野秀明が監督ということで……。

ある日、東京湾で大量の水蒸気が噴出する事態が発生し、近くの海底トンネルでは崩落事故が発生する。異常事態に官邸スタッフが集められ対策会議が開かれる。「海底火山の噴火だろう」と推定する多くの人に混じり、矢口蘭堂内閣官房副長官(長谷川博己)は「巨大不明生物」の仕業という説を展開するものの突飛すぎる話で相手にされない。しかし、その後「巨大不明生物」らしき何かが川を遡っていく姿がテレビカメラに捉えられる。
第1作目の『ゴジラ』(1954年)は、人間が作り出した核兵器(水爆)がゴジラという怪獣を生み出してしまったという意味合いが込められていたわけだが、『シン・ゴジラ』はその第1作とは別世界の話だ。本屋に山積みとなっていた『シン・ゴジラ e-MOOK』の樋口真嗣のインタビューによれば、これまでのゴシラは常に第1作を前提にしていたようで、それとは無関係のまったく新しいゴジラは初めてとのこと。題名の『シン・ゴジラ』というのは「新しい」という意味が込められているということだろう。(*1)
たとえば2014年のギャレス・エドワーズ版のゴジラは何らかの意志や目的を持っているように感じられるのに対し、この『シン・ゴジラ』におけるゴジラは何を考えているのか皆目見当がつかない。ゴジラは何の前触れもなければ説明もなく突如やってくるのだ。これはゴジラが自然災害みたいなものとされているからだろう。そして、その災害とは否応なく3.11のそれを思わせるように描かれている。
この映画はいわゆる怪獣映画というよりも、これまでに経験したことのない不測の事態に遭遇したときのシミュレーションをした作品となっているのだ。「巨大不明生物」の東京上陸という未曾有の事態に総理大臣以下官邸スタッフがどのように対応するか。これは3.11に官邸内で実際に起きていたであろう事態を想像させるし、騒然とする国内だけでなく外国からの干渉なども含めてとてもリアルな作品となっている。そして、やはり新しいゴジラの姿には驚かされる部分も多かったし、この夏見逃すのはもったいない作品だと思う。
(*1) 題名が似ていなくもない製作中の『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』のことも気になる。『シン・ゴジラ』ではエヴァの音楽が使用されるし、ゴジラの形状にもエヴァっぽいものを感じさせる部分がある。
※ 以下、ネタバレもあり!

今回のゴジラは形態を次第に変えていく。何度かの進化を遂げ、ようやくこれまでのゴジラらしい形態へと姿を変える。最初は両性類の化け物のようなグロテスクかつユーモラスな姿で川を遡上していく(露払いとしてゴジラとは別の怪獣が先に登場したのかと勘違いするくらい別物)。川の水を押し戻すように進むそれはどうしても津波を思わせるし、その後の進化したゴジラが巻き起こす破壊活動は、原発事故への対処が遅れたことによる事態の悪化を思わせなくもない。
総理大臣と官邸スタッフは会議を開いて何かを決めようとするわけだが、誰も事態を把握していない上に最終的な決定権を持つ者は決断することができない。もしかするとゴジラの進化の途中で攻撃を許可していたら事態の悪化は避けられていたかもしれないのだが、そのチャンスを逃してしまうのだ。最終的には国際社会の干渉を受け入れざる得ないほどに事態は大きくなり、アメリカはその脅威を消しさるために核兵器の投下を決断する。日本は自分たちの力でこの危機を乗り越えることができるのかというのが後半の見所となる。
◆ゴジラがスクラップしたものとは?
今回の作品は「ニッポン対ゴジラ」ということが謳われていて、中心となるのは政治のリーダーたちの活躍だ。だから災害の被害者となる個人のことが描かれていないという意見も見受けられるようだ。
たしかにそういう面もあるのかもしれないが、庵野監督の狙いは日本のシステムに対する批判のようにも思えた。今回は矢口以下の官邸スタッフやはぐれ者集団の知恵で何とかゴジラを撃退することになるわけだが、総理大臣以下の閣僚の多くはゴジラに餌食になる。
しかし矢口はすべてが終わったあとで「せっかく壊した内閣だから」と旧体制を切り捨て、「スクラップ・アンド・ビルド」でこの国はやってきたのだからとまで言ってのける。不測の事態を前にして機能不全を起こして何も対応できなかった旧体制に対する苛立ちは明らかだろう。一方では矢口は「ヤシオリ作戦」に参加した面々など個々の力は信用してもいて、日本にはまだまだやれるだけの有望な人材はいるということも示している。
ちなみにこの作品では矢口官房副長官ら官邸スタッフには異能で面白い顔ぶれが揃っているのだが、それ以外のごく小さな役にもネームバリューのある役者が使われている(全キャストは328人だとか)。たとえば自衛隊員にはピエール瀧や斎藤工などが扮しているのだが、ヘルメットを被っているためにすぐにはよくわからない。ほかにもそういう例はいくらでも挙げることができるだろうし、冒頭の海底トンネル事故の場面では逃げ回る一般人として前田敦子が顔を出していたらしい(エンドロールを見るまで気がつかなかったけれど)。
一度顔を出すだけの役にまでこうした役者を配するのは、日本の個々の力に対する信頼のようにも感じられた。小さな役でもよく見るとそれぞれが独自の存在感を持っているのだ。それに対してシステムは硬直化し、個々の力を吸い上げるどころかダメにしてしまっている。だから一度システムをスクラップして新たに仕切り直しをしなければこの国は危ない。そんな思いが込められているようにも感じられたのだ。庵野監督がゴジラにスクラップさせようとしたのは、個々人の生活基盤とかではなく日本のシステムのほうなのだろうと思う。
◆ゴジラの暴れっぷりとその後
ゴジラが東京を徘徊する場面はほとんど棒立ちだとかも言われていて、確かにちょっと間が抜けて見える部分もあったのだが、一度覚醒してからの中盤の暴れっぷりは圧倒的なものがあった(ここだけでも劇場で観る価値があろうというもの)。
庵野監督は『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q』とか『巨神兵東京に現わる』で世界をすべて破壊しつくすような場面を描いているわけで、今回の『シン・ゴジラ』にもそうした破壊衝動のようなものすら感じる。
この作品では日本を「スクラップ・アンド・ビルド」する必要性を訴えたわけだが、作品内ではスクラップにするところまでしか描かれていない。同じことは『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q』にも言える。
壊すだけ壊したけれどもどうやって立て直していくのかというところが難しいところとも言えるわけで、庵野監督自身が心身ともに追い込まれている部分もあるようだ。製作が難航しているらしい『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』では、その立て直す部分が描かれることになるのかもしれない。「次回作が早く観たい」とファンとして無責任に言ってしまいたい気持ちもあるのだけれど、首を長くして待つことにしたいと思う。
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『ゴジラ』シリーズ諸作品

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