『ロバート・アルトマン 即興性のパラドクス』 ハリウッド映画の様式を異化すること
映画監督ロバート・アルトマンに関する本。
著者の小野智恵が京都大学へ提出した博士論文がもとになっているとのこと。

中心となる4つの章にはそれぞれ副題がつけられている。「中心性⇔「遍」・中心性」、「明瞭性⇔不・明瞭性」、「深奥性⇔反・深奥性」、「一致性/連続性⇔半・一致性/非・連続性」の4つだ。著者によれば、規範としての古典期のハリウッド映画様式がもつ特質が「中心性、明瞭性、深奥性、一致性/連続性」という言葉で示される。それに対してアルトマン作品はそれらとは対立するような様式となる。
たとえばそれまでのハリウッド映画が「中心性」を基本にするのに対して、アルトマン映画は「「遍」・中心性」という特質を持つ。アルトマン作品には群像劇が多いが、その極端な例が『ナッシュビル』だ。この作品では主人公が24人もいる。しかもそれらが共通の目的を持っているわけでもない。画面上の様々な主人公が入り乱れるときには、会話が重なり合い、その中心があちこちへと移動する(これを可能にしたのが新しい録音システムなんだとか)。遍くところに中心が存在するのがアルトマンの映画なのだ。
そんなアルトマン作品を批評家たちはどう評価したのかと言えば、それまでのハリウッド映画と異なることは感じていたものの、その意味合いをはかりかねてもいたようだ。アルトマンに特徴的なのは「ぼんやりした場面、重なる台詞、不規則なズーム・ショット、障害物の多いカメラ・アングル」など様々なのだが、批評家たちはそれらをひっくるめて「即興性」という言葉で示している。しかし著者はそれに疑問を投げかける。アルトマン作品は古典期のハリウッド映画様式を異化するものだったのではないかというのが著者の視点である。

第4章では『ロング・グッドバイ』に関して詳細に論じられている。この本のなかではある批評家の言葉を借りて、ラストに対する違和感が表明されるのだが、私自身も『ロング・グッドバイ』を観たとき同じように感じた。というのは映画のラストがレイモンド・チャンドラーの原作と異なるからだけでなく、妙にあっけなかったからだ。その違和感の要因は何なのか?
古典期のハリウッド映画では、「顔と内面の一致性」というものが約束事としてあるのだという。主人公の顔=内面であり、たとえば主人公の顔が不自然に隠されているとするとすれば、それは主人公の内面もまた観客に隠されていることになる。
一方で『ロング・グッドバイ』ではそうした約束事は成り立たない。主人公マーロウ(エリオット・グールド)が取調室のなかで刑事に尋問を受ける場面では、カメラは隣室からマジックミラー越しにマーロウの表情を捉えるのだが、そのマジックミラーは汚れていてマーロウの顔は隠されている。ハリウッド映画のナラティヴに則れば、マーロウの内面は観客から隠されていることになる。しかし、その後の物語の展開を見る限り、マーロウ自身巻き込まれた事件に関して何も知らないことがわかる。つまりはマーロウの内面は隠されていたわけではなかったわけで、アルトマンのナラティヴはそれまでの古典期のハリウッド映画と同様に捉えてしまうと見誤ることになる。いつものナラティヴを予想していると裏切られる部分もあり、それは観客の困惑にもつながる。
著者はいくつかそうした例(メロディの使われ方や因果性のない暴力)を追うことになるが、古典期のハリウッド映画が「一致性/連続性」を持つのに対して、『ロング・グッドバイ』は「半・一致性/非・連続性」という特質を持つことが明らかにされる。最初にこの作品を観たときの私の違和感は、「規範たる先例の表現方法を侵害する、風変わりな表現方法による、見慣れぬナラティヴ機能に対する違和感」ということになるのだ。完全にスッキリしたというわけではないけれど納得させられるところがある。
アルトマン作品の独自のアプローチだけでなく、古典期のハリウッド作品の特徴に関しても整理されていて、色々と示唆に富む部分も多かったと思う。
著者の小野智恵に関してはまったく知らないのだが、指導教官には映画学者の加藤幹郎の名前も挙がっているところからすると、優秀な研究者なのだろうと推察する(京大だと言うし)。
加藤幹郎の本は、最近なぜか新装版の『映画ジャンル論』『映画とは何か 映画学講義』を本屋で見かけたりもするので手に入りやすくなっている。上記の2冊は学問的でちょっと堅苦しいけれど、『ヒッチコック『裏窓』ミステリの映画学』という本はこんな解釈の仕方もあるのかと驚かされたし、とても説得力のある議論が展開されているので興味のある人は手にとってみても損はないんじゃないだろうか。


その他のロバート・アルトマン作品



著者の小野智恵が京都大学へ提出した博士論文がもとになっているとのこと。
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序 すべては即興なのか?
第1章 オーヴァーラッピング・ダイアローグからオーヴァーラッピング・ナラティヴへ
第2章 モチヴェーションの曖昧な主人公
第3章 ズーム・インが無効にする奥行きという錯覚
第4章 ポスト・ノワールに迷い込んだ古典的ハリウッド映画
結 インディペンデント・ムーヴメントの父?
中心となる4つの章にはそれぞれ副題がつけられている。「中心性⇔「遍」・中心性」、「明瞭性⇔不・明瞭性」、「深奥性⇔反・深奥性」、「一致性/連続性⇔半・一致性/非・連続性」の4つだ。著者によれば、規範としての古典期のハリウッド映画様式がもつ特質が「中心性、明瞭性、深奥性、一致性/連続性」という言葉で示される。それに対してアルトマン作品はそれらとは対立するような様式となる。
たとえばそれまでのハリウッド映画が「中心性」を基本にするのに対して、アルトマン映画は「「遍」・中心性」という特質を持つ。アルトマン作品には群像劇が多いが、その極端な例が『ナッシュビル』だ。この作品では主人公が24人もいる。しかもそれらが共通の目的を持っているわけでもない。画面上の様々な主人公が入り乱れるときには、会話が重なり合い、その中心があちこちへと移動する(これを可能にしたのが新しい録音システムなんだとか)。遍くところに中心が存在するのがアルトマンの映画なのだ。
そんなアルトマン作品を批評家たちはどう評価したのかと言えば、それまでのハリウッド映画と異なることは感じていたものの、その意味合いをはかりかねてもいたようだ。アルトマンに特徴的なのは「ぼんやりした場面、重なる台詞、不規則なズーム・ショット、障害物の多いカメラ・アングル」など様々なのだが、批評家たちはそれらをひっくるめて「即興性」という言葉で示している。しかし著者はそれに疑問を投げかける。アルトマン作品は古典期のハリウッド映画様式を異化するものだったのではないかというのが著者の視点である。

第4章では『ロング・グッドバイ』に関して詳細に論じられている。この本のなかではある批評家の言葉を借りて、ラストに対する違和感が表明されるのだが、私自身も『ロング・グッドバイ』を観たとき同じように感じた。というのは映画のラストがレイモンド・チャンドラーの原作と異なるからだけでなく、妙にあっけなかったからだ。その違和感の要因は何なのか?
古典期のハリウッド映画では、「顔と内面の一致性」というものが約束事としてあるのだという。主人公の顔=内面であり、たとえば主人公の顔が不自然に隠されているとするとすれば、それは主人公の内面もまた観客に隠されていることになる。
一方で『ロング・グッドバイ』ではそうした約束事は成り立たない。主人公マーロウ(エリオット・グールド)が取調室のなかで刑事に尋問を受ける場面では、カメラは隣室からマジックミラー越しにマーロウの表情を捉えるのだが、そのマジックミラーは汚れていてマーロウの顔は隠されている。ハリウッド映画のナラティヴに則れば、マーロウの内面は観客から隠されていることになる。しかし、その後の物語の展開を見る限り、マーロウ自身巻き込まれた事件に関して何も知らないことがわかる。つまりはマーロウの内面は隠されていたわけではなかったわけで、アルトマンのナラティヴはそれまでの古典期のハリウッド映画と同様に捉えてしまうと見誤ることになる。いつものナラティヴを予想していると裏切られる部分もあり、それは観客の困惑にもつながる。
著者はいくつかそうした例(メロディの使われ方や因果性のない暴力)を追うことになるが、古典期のハリウッド映画が「一致性/連続性」を持つのに対して、『ロング・グッドバイ』は「半・一致性/非・連続性」という特質を持つことが明らかにされる。最初にこの作品を観たときの私の違和感は、「規範たる先例の表現方法を侵害する、風変わりな表現方法による、見慣れぬナラティヴ機能に対する違和感」ということになるのだ。完全にスッキリしたというわけではないけれど納得させられるところがある。
アルトマン作品の独自のアプローチだけでなく、古典期のハリウッド作品の特徴に関しても整理されていて、色々と示唆に富む部分も多かったと思う。
著者の小野智恵に関してはまったく知らないのだが、指導教官には映画学者の加藤幹郎の名前も挙がっているところからすると、優秀な研究者なのだろうと推察する(京大だと言うし)。
加藤幹郎の本は、最近なぜか新装版の『映画ジャンル論』『映画とは何か 映画学講義』を本屋で見かけたりもするので手に入りやすくなっている。上記の2冊は学問的でちょっと堅苦しいけれど、『ヒッチコック『裏窓』ミステリの映画学』という本はこんな解釈の仕方もあるのかと驚かされたし、とても説得力のある議論が展開されているので興味のある人は手にとってみても損はないんじゃないだろうか。
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