森達也の最新ドキュメンタリー 『FAKE』 誰が誰を騙したのか?
『A』『A2』の森達也監督の最新ドキュメンタリー。
今回の被写体は「ゴーストライター問題」で話題になった佐村河内守氏。
観たのが公開初日だったからか、私は何とか最終回の上映に立ち見で滑り込んだという状況で、劇場はとにかく大賑わいだった。ユーロスペースは予約システムがないために、席がなくて帰ることになった人も多かったんじゃないだろうか(ネット予約システムの導入を希望!)。やはりマス・メディアで盛んに取り上げられた人物が被写体になっているからなのだろうか。

森達也監督はオウム真理教を題材とした『A』では、オウムに直接取材を申し込んで、世間を騒然とさせていたオウム内部に入り込んでいる。これはほかのマスコミでは誰一人考えもしなかったこと。荒木広報副部長の記者会見の場では、その他大勢のマスコミがカメラを向ける様子を、カメラを向けられるオウム側(つまりマスコミの反対側)から捉えている。このとき世間はオウムに対して当然のごとく非難の目を向けていたわけで、森監督の立ち位置の特異さを感じさせた。
今回の被写体である佐村河内氏も「ゴーストライター問題」以来バッシングを受けてきた人物だ。森監督はなぜかそうした人の側に立つ。この国では誰かを持ち上げるときは皆一丸となるわけだが、問題が生じた途端に手の平を返したようになる。佐村河内氏も耳が聞こえない作曲家ということでベートーベンと比較されたりして話題になっていたそうだが、騒動が巻き起こった途端、もてはやしていたマスコミが突き落とす側に回る。
森監督は全員が「右へならえ」となってしまう風潮が嫌なのだろう。だから大多数とは反対側に立って、少しでもそうした風潮に風穴を開けようとする。この作品は佐村河内氏の騒動後の謝罪会見以降から始まっているようだ(具体的な日時は示されないが)。森監督は佐村河内氏が奥様とペットの猫と暮らすマンションに出向き、カーテンを閉め切った薄暗い部屋で佐村河内氏にカメラを向けることになる。
◆被写体との関係
騒動のなかで焦点となっていたのは、佐村河内氏は「耳が聞こえるのではないか」ということと、「作曲などできないのではないか」ということ。この作品では森監督はそうした疑問を追求するというよりも、佐村河内氏の見解にとことん付き合うことになる。耳が聞こえないために会話は奥様の手話を介することになるし、聴覚障害に関しては別の聴覚障害者から佐村河内氏に有利な意見を取り付けたりもする。この森監督の姿勢があればこそ佐村河内氏はこの映画の被写体になることを承諾したのかもしれない。
作品中にはテレビ番組のプロデューサーが佐村河内氏に出演を依頼する場面がある。しかし、それは彼をおもしろおかしくいじるだけのバラエティであったために断られることになる(その代わりに騒動のもうひとりの主役・新垣隆氏が笑い飛ばされる)。その意味では森監督と佐村河内氏の間には何らかの信頼関係があったはずで、森監督自身も「ふたりで心中するつもり」などと言ってもいる。こうしたふたりの関係性がラストの展開に大きく関わってくる。
◆ドキュメンタリーとフィクション
この作品はドキュメンタリーだが、一部ではラストの部分にはヤラセがあるとも言われている(町山智浩の見解)。ヤラセという言い方は極端だが、もともと森達也は著書『ドキュメンタリーは嘘をつく』などでもドキュメンタリーとフィクションの曖昧な部分について語っている。
そもそも取材対象にカメラを向けたとき、すでにその被写体はカメラを前にしたよそ行きの顔になるはずで、いくら自宅マンションに潜り込んで撮影しようが被写体の日常の姿が捉えられるわけではない。ドキュメンタリーにも最初から作為的なものが混じっているのだ。
その逆に「劇映画(=フィクション)は役者のドキュメンタリーである」という言い方もある。この言葉は『忘れられた皇軍』というドキュメンタリー作品も撮っている大島渚監督のもの。フィクションでは台詞が決められていて脚本に従って撮影がなされる。しかし、実際にそれを演じるのはわれわれと同じ人間であることに変わりはないわけで、カメラの前で役者が演技をするときにはどんなアクシデントが生じてもおかしくない。つまりはドキュメンタリーとフィクションは截然と分けられるものではないということなのだ。
森監督はこのサイトのインタビューで「撮る側と撮られる側の相互作用」ということを語っている。この作品にはフィクションのように最初から決められた結末があったわけではないはずだ。佐村河内氏を信じるという森監督と、そうした期待を背負ってカメラの前に立つ佐村河内氏の相互作用がどこへ行き着くのかは撮影が終わるまで誰にもわからないのだ。
※ 以下、ネタバレあり! 結末にも触れているので要注意!

◆衝撃のラスト12分間?
ラストでは森監督は佐村河内氏に「音楽をやりましょう」とけしかけることになる(ここには作為があるが、これだけではヤラセとまでは言えない)。それに対して佐村河内氏がどう反応するか。もちろん佐村河内氏はそれを無視することもできたはずだ(脚本などないのだから)。あるいは作曲など無理だという告白をすることだってできたはずだ(そうなればもっと感動的だったかも)。しかし佐村河内氏は実際に作曲をやってみることを選択する(意地悪く言えば、その曲が本当に佐村河内氏のものなのかはわからない)。
ここにはそれまで長時間の撮影をこなしてきたふたりの関係がある。佐村河内氏は森監督からの期待に背中を押され、自らの前にあるいくつかの選択肢の間で逡巡する。そうした追い込まれた状況のなかで生まれたのがラストの展開なのだ。その場面で佐村河内氏の足と森監督の足が同じ画面に捉えられるのは、ふたりの共犯関係を示しているのだろうと思う。
しかし最後の最後の森監督の言葉は、そうした信頼関係をぶち壊すようなものだった。それまで佐村河内氏の側に立っていたはずの森達也は、突然根本的な疑問を投げかけるわけで、佐村河内氏はそれに答えることができない(もしかしたら聞こえないのかもしれないが)。『FAKE』というタイトルは世間を欺いた佐村河内氏を意味しているのかと推測していたのだが、実は騙していたのは森監督のほうであって、監督を信頼していた佐村河内氏は逆に騙されてしまったのかもしれないのだ。
この作品を観る限り、個人的には佐村河内氏には嘘があるのだろうと思う。しかし同時に嘘ではない部分もある。そして、奥様にも嘘があるように見える。もちろん全部が嘘ということはなく、奥様が佐村河内氏を支える気持ちには嘘はないのだろうとも思う。
それから佐村河内氏がリズムだけでトルコ行進曲をやってみせるシーンや、なぜか食事前に豆乳を一気飲みするという奇妙なシーンなど、佐村河内氏の素の部分が見ることができるところも多々ある。そうした部分では劇場では大きな笑いが起きた。作品の多くは嘘を取り繕う緊張感が支配していたように感じられるのだが、笑いが生じた部分だけは佐村河内氏もそうした緊張感から解放されていたのが観客にも伝わってきたからだろう。すべてがFAKEな人などいないということなのだ。



今回の被写体は「ゴーストライター問題」で話題になった佐村河内守氏。
観たのが公開初日だったからか、私は何とか最終回の上映に立ち見で滑り込んだという状況で、劇場はとにかく大賑わいだった。ユーロスペースは予約システムがないために、席がなくて帰ることになった人も多かったんじゃないだろうか(ネット予約システムの導入を希望!)。やはりマス・メディアで盛んに取り上げられた人物が被写体になっているからなのだろうか。

森達也監督はオウム真理教を題材とした『A』では、オウムに直接取材を申し込んで、世間を騒然とさせていたオウム内部に入り込んでいる。これはほかのマスコミでは誰一人考えもしなかったこと。荒木広報副部長の記者会見の場では、その他大勢のマスコミがカメラを向ける様子を、カメラを向けられるオウム側(つまりマスコミの反対側)から捉えている。このとき世間はオウムに対して当然のごとく非難の目を向けていたわけで、森監督の立ち位置の特異さを感じさせた。
今回の被写体である佐村河内氏も「ゴーストライター問題」以来バッシングを受けてきた人物だ。森監督はなぜかそうした人の側に立つ。この国では誰かを持ち上げるときは皆一丸となるわけだが、問題が生じた途端に手の平を返したようになる。佐村河内氏も耳が聞こえない作曲家ということでベートーベンと比較されたりして話題になっていたそうだが、騒動が巻き起こった途端、もてはやしていたマスコミが突き落とす側に回る。
森監督は全員が「右へならえ」となってしまう風潮が嫌なのだろう。だから大多数とは反対側に立って、少しでもそうした風潮に風穴を開けようとする。この作品は佐村河内氏の騒動後の謝罪会見以降から始まっているようだ(具体的な日時は示されないが)。森監督は佐村河内氏が奥様とペットの猫と暮らすマンションに出向き、カーテンを閉め切った薄暗い部屋で佐村河内氏にカメラを向けることになる。
◆被写体との関係
騒動のなかで焦点となっていたのは、佐村河内氏は「耳が聞こえるのではないか」ということと、「作曲などできないのではないか」ということ。この作品では森監督はそうした疑問を追求するというよりも、佐村河内氏の見解にとことん付き合うことになる。耳が聞こえないために会話は奥様の手話を介することになるし、聴覚障害に関しては別の聴覚障害者から佐村河内氏に有利な意見を取り付けたりもする。この森監督の姿勢があればこそ佐村河内氏はこの映画の被写体になることを承諾したのかもしれない。
作品中にはテレビ番組のプロデューサーが佐村河内氏に出演を依頼する場面がある。しかし、それは彼をおもしろおかしくいじるだけのバラエティであったために断られることになる(その代わりに騒動のもうひとりの主役・新垣隆氏が笑い飛ばされる)。その意味では森監督と佐村河内氏の間には何らかの信頼関係があったはずで、森監督自身も「ふたりで心中するつもり」などと言ってもいる。こうしたふたりの関係性がラストの展開に大きく関わってくる。
◆ドキュメンタリーとフィクション
この作品はドキュメンタリーだが、一部ではラストの部分にはヤラセがあるとも言われている(町山智浩の見解)。ヤラセという言い方は極端だが、もともと森達也は著書『ドキュメンタリーは嘘をつく』などでもドキュメンタリーとフィクションの曖昧な部分について語っている。
そもそも取材対象にカメラを向けたとき、すでにその被写体はカメラを前にしたよそ行きの顔になるはずで、いくら自宅マンションに潜り込んで撮影しようが被写体の日常の姿が捉えられるわけではない。ドキュメンタリーにも最初から作為的なものが混じっているのだ。
その逆に「劇映画(=フィクション)は役者のドキュメンタリーである」という言い方もある。この言葉は『忘れられた皇軍』というドキュメンタリー作品も撮っている大島渚監督のもの。フィクションでは台詞が決められていて脚本に従って撮影がなされる。しかし、実際にそれを演じるのはわれわれと同じ人間であることに変わりはないわけで、カメラの前で役者が演技をするときにはどんなアクシデントが生じてもおかしくない。つまりはドキュメンタリーとフィクションは截然と分けられるものではないということなのだ。
森監督はこのサイトのインタビューで「撮る側と撮られる側の相互作用」ということを語っている。この作品にはフィクションのように最初から決められた結末があったわけではないはずだ。佐村河内氏を信じるという森監督と、そうした期待を背負ってカメラの前に立つ佐村河内氏の相互作用がどこへ行き着くのかは撮影が終わるまで誰にもわからないのだ。
※ 以下、ネタバレあり! 結末にも触れているので要注意!

◆衝撃のラスト12分間?
ラストでは森監督は佐村河内氏に「音楽をやりましょう」とけしかけることになる(ここには作為があるが、これだけではヤラセとまでは言えない)。それに対して佐村河内氏がどう反応するか。もちろん佐村河内氏はそれを無視することもできたはずだ(脚本などないのだから)。あるいは作曲など無理だという告白をすることだってできたはずだ(そうなればもっと感動的だったかも)。しかし佐村河内氏は実際に作曲をやってみることを選択する(意地悪く言えば、その曲が本当に佐村河内氏のものなのかはわからない)。
ここにはそれまで長時間の撮影をこなしてきたふたりの関係がある。佐村河内氏は森監督からの期待に背中を押され、自らの前にあるいくつかの選択肢の間で逡巡する。そうした追い込まれた状況のなかで生まれたのがラストの展開なのだ。その場面で佐村河内氏の足と森監督の足が同じ画面に捉えられるのは、ふたりの共犯関係を示しているのだろうと思う。
しかし最後の最後の森監督の言葉は、そうした信頼関係をぶち壊すようなものだった。それまで佐村河内氏の側に立っていたはずの森達也は、突然根本的な疑問を投げかけるわけで、佐村河内氏はそれに答えることができない(もしかしたら聞こえないのかもしれないが)。『FAKE』というタイトルは世間を欺いた佐村河内氏を意味しているのかと推測していたのだが、実は騙していたのは森監督のほうであって、監督を信頼していた佐村河内氏は逆に騙されてしまったのかもしれないのだ。
この作品を観る限り、個人的には佐村河内氏には嘘があるのだろうと思う。しかし同時に嘘ではない部分もある。そして、奥様にも嘘があるように見える。もちろん全部が嘘ということはなく、奥様が佐村河内氏を支える気持ちには嘘はないのだろうとも思う。
それから佐村河内氏がリズムだけでトルコ行進曲をやってみせるシーンや、なぜか食事前に豆乳を一気飲みするという奇妙なシーンなど、佐村河内氏の素の部分が見ることができるところも多々ある。そうした部分では劇場では大きな笑いが起きた。作品の多くは嘘を取り繕う緊張感が支配していたように感じられるのだが、笑いが生じた部分だけは佐村河内氏もそうした緊張感から解放されていたのが観客にも伝わってきたからだろう。すべてがFAKEな人などいないということなのだ。
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この記事へのコメント:
まれ
Date2019.11.24 (日) 07:35:25
ドキュメンタリーが真実ではないという意見、同感です。木嶋香苗死刑囚についての本を2冊ほど読み、自己演出力が高度になってしまった今、今後、本人がどのような告白をしても、”自分都合”で構成されると思うと、それは”真実”と言えるのか?という疑問を持ったのを思い出しました。もしも、本人が虚実を信じ込んでいる場合、それが”真実”となってしまうのも厄介だと思いました。そういう点で、明らかになっている事実のみをベースに製作された映画や小説は、わからない部分の脚色で、より劇的にもでき、面白い作品になるのかもしれないですね。
Nick
Date2019.12.02 (月) 22:12:39
アニメで望月氏と官房長官の対決シーンなんかを入れたりもしています。
森監督はドキュメンタリーもフィクションのひとつだと考えてるみたいですね。
「ドキュメンタリーは嘘をつく」という森監督の本もとてもおもしろかったです。
「職業欄はエスパー」というテレビドキュメンタリーは、
森監督のいじわるさみたいなものが感じられました。
信じていないのに相手のふところに入り込むことができる人みたいですね。
木嶋死刑囚は詳しくは知りませんが、
自己演出が過ぎると本当に事実だと思い込むということはあるんでしょうね。