『遊星からの物体X ファーストコンタクト』 ノルウェー隊全滅の謎とオリジナルへの敬意
ジョン・カーペンター監督の『遊星からの物体X』(1982年)の前日譚。

今では信じられないくらいだが、『遊星からの物体X』は、公開当時は『E.T.』人気と重なったせいで評判がよくなかったのだとか。カーペンターは次回作の監督を降ろされるほどの打撃を被ることになったのだが、作品そのものは次第にビデオなどでカルト的な人気を博し、こうして前日譚がつくられるまでになった。私も遅ればせながらもビデオを観て以来、今に至るまで時代遅れのVHSテープを少なからず再生してきたファンのひとりだ。
『恐怖の詩学 ジョン・カーペンター』によれば、カーペンターは「怪物や悪魔をいつも暗闇のなかに潜ませておく」ハリウッドの使い古された紋切り型を否定し、「怪物を光のなかに連れ出す」ことを企図し、それを見事に成功させた。(*1)例えば、隊員ノリスの腹が割れて医者の腕を食いちぎり、ノリスの頭部だけを引きちぎって“物体”が逃亡を図るシーン。頭から蜘蛛のように足を生やした“物体”は、こそこそと床を這い回るのだ。「これはいったい何の冗談だ?」と登場人物が言うように、まさに悪夢のような映像だった。
そんな『遊星からの物体X』のクリーチャーは、それまでのクリーチャーと一線を画するものだった。あの不定形の“物体”の強烈さゆえに、様々なところに影響を与えてきた。日本でもあの傑作漫画『寄生獣』がそうだし、最近の映画ではフランク・ダラボン監督の『ミスト』(2007年)があった。『ミスト』では、霧の向こう側からやってくる化け物の造形もそうだったが、それらが人間を圧倒し、まったく勝ち目がない絶望的な雰囲気まで『遊星からの物体X』の影響下にあった。
しかし『遊星からの物体X』が素晴らしいのはそれだけではない。不定形の“物体”は人間や犬などの完璧なイミテーションになることが可能だから、人間たちは「誰が本当の人間で、誰が“物体”なのか」という疑心暗鬼の渦に巻き込まれていく。これが『遊星からの物体X』が、原作『影が行く』から受け継いだ主要なモチーフなのだ。『影が行く』では、自分が怪物ではなく人間であることの証明が検討される。しかし、その証明の不可能性をなかなか崩せずに、苦し紛れに「もし心臓の真中を射って、死ななかったら、そいつは怪物だ。」などと言い出す始末なのだ。『遊星からの物体X』でも“血液テスト”の場面が重要で、人間たちの疑心暗鬼が映画に緊張感を生み出していた。
前日譚『遊星からの物体X ファーストコンタクト』は、“物体”が姿を人間にさらしすぎて無闇に暴れすぎたきらいがあり、やや緊張感に欠ける部分はあるが、全体的には楽しめた。(*2)それは『遊星からの物体X』への敬意の払い方が尋常ではないからだ。『遊星からの物体X』では、謎のままだった南極大陸ノルウェー基地の惨劇が初めて明かされる。それだけでもファンには興味津々というものだろう。スプリットフェイス誕生から、自殺した隊員、切り出された氷塊、壁に刺さった斧に至るまで、『ファーストコンタクト』から『遊星からの物体X』へときれいに結びつくように描かれている(エンディングクレジットでは『遊星からの物体X』の冒頭部分を再現している)。
もちろん前日譚の宿命なのかオリジナルを超えることはできないし、どうしてもオリジナルに似てきてしまうのだが、“血液テスト”に代わる新たなテストの試みも嬉しい。“物体”は生物を真似ることは可能だが、無機物を作り出すことができないという点に着目したテストだ。『遊星からの物体X』でも乗っ取られた隊員の下着が捨てられていた(上着があればバレないから)。『ファーストコンタクト』では、血だらけの浴室に歯の詰め物が残されている。つまりイミテーション(“物体”)には歯の詰め物はないから、もし歯の中に詰め物があるならば、「その人間は怪物ではない」と証明されることになる。もちろんこれは不完全なテストだ。“血液テスト”の場合は「誰が怪物であるか」までたちどころに明らかになるが、“虫歯テスト”では誰かが「怪物ではない 」ことの証明にしかならないからだ。虫歯がまったくない人間もいるだろうし、セラミックの詰め物の場合は見た目ではわからない。“虫歯テスト”に合格すれば怪物ではないが、不合格でも怪物であるとは限らない(人間かもしれない)。
“虫歯テスト”の結果は次のようになった。虫歯があり人間だと証明された隊員が4名、虫歯がなく怪物なのかもしれない隊員が4名、2つのグループに分かれるのだ。もしかすると人間と“物体”の数が均衡状態にあるのかもしれないのだ。これは『遊星からの物体X』での「“物体”が襲ってこないのは、まだ人間の数のほうが多いからだ」という意味の台詞を想起させる。“物体”にとっては正体が見破られたら最後なのだ。人間は火器で“物体”を殲滅するだろう。だから“物体”は狡猾に機会をうかがい、不利な場所で攻撃を仕掛けたりはしないはずなのだ。『ファーストコンタクト』では人間の数的優位すら危うくなり、すでに“物体”に周りを取り囲まれているのかと疑わせる(そうなれば全面攻撃もあるのかも)。とはいえ“虫歯テスト”の不完全性ゆえに、それが“血液テスト”ほどの緊張感につながるわけではないのだが……。それでも『遊星からの物体X』を継承しつつも、ある部分では差異化を図ろうとする製作陣の意気込みが感じられた。
『ファーストコンタクト』では女主人公ケイトが生き残るが、ハッピーエンドとは言えない不穏な雰囲気で終わる。ケイトはもうひとりの生き残りカーターを、「(無機物である)ピアスがなくなったから」という理由であっけなく焼き払ってしまうのだ。だが、カーターは断末魔に“物体”の正体を現すわけでもなく死んでしまう。もしかしたら人間だったのでは? ケイトはほとんど放心状態のままスクリーンは暗転し、エンディングクレジットに……。
『遊星からの物体X』のラストでも、「吐く息が白くないから、チャイルズが“物体”である」などという都市伝説があるようだが、『ファーストコンタクト』もあえて謎を残して終わるのだ。(*3)
昨年は『ザ・ウォード 監禁病棟』で久々に健在なところを見せてくれたカーペンターだが、『恐怖の詩学 ジョン・カーペンター』において『遊星からの物体X』の続編の製作について訊ねられ、こう答えている。
(*1) クリーチャーを創造したロブ・ボッティンと、撮影監督ディーン・カンディとの言い争いについてカーペンターは語っている。リアルに見せたいがために「照明は暗くして後ろから照らすべき」というボッティンに対し、カンディは「怪物を表に引きずり出したい」と主張する。しかしその張り詰めた状態が驚くべき視覚効果を生んだ。(ジル・ブーランジェ編 『恐怖の詩学 ジョン・カーペンター』より)
(*2) 『ファーストコンタクト』がコンピュータグラフィックスに頼りすぎなかった点は好感が持てるのだが、“物体”が廊下で人間を追いまわすのはやりすぎの感がある。凡百の殺人鬼との闘いではないのだから。
『遊星からの物体X』は同じ廊下の場面でも際立っていた。“物体”に乗っ取られた犬が廊下の陰からゆっくりと顔を出し、周囲を探りながら歩いてきて獲物を見つける。ただそれだけなのだが、そうした静かな雰囲気こそが怖いのだ。カーペンター版には“静けさ”と“間”があった。それが怖さを引き立たせる。
(*3) ちなみにノベライズでは、映画版の曖昧さに対して明確な答えが記されている。あくまでノベライズで映画そのものとは違うのだが、「やはりあの不穏さに込められた意味は……」とわが意を得たりといった感じ。


ジョン・カーペンターの作品


今では信じられないくらいだが、『遊星からの物体X』は、公開当時は『E.T.』人気と重なったせいで評判がよくなかったのだとか。カーペンターは次回作の監督を降ろされるほどの打撃を被ることになったのだが、作品そのものは次第にビデオなどでカルト的な人気を博し、こうして前日譚がつくられるまでになった。私も遅ればせながらもビデオを観て以来、今に至るまで時代遅れのVHSテープを少なからず再生してきたファンのひとりだ。
『恐怖の詩学 ジョン・カーペンター』によれば、カーペンターは「怪物や悪魔をいつも暗闇のなかに潜ませておく」ハリウッドの使い古された紋切り型を否定し、「怪物を光のなかに連れ出す」ことを企図し、それを見事に成功させた。(*1)例えば、隊員ノリスの腹が割れて医者の腕を食いちぎり、ノリスの頭部だけを引きちぎって“物体”が逃亡を図るシーン。頭から蜘蛛のように足を生やした“物体”は、こそこそと床を這い回るのだ。「これはいったい何の冗談だ?」と登場人物が言うように、まさに悪夢のような映像だった。
そんな『遊星からの物体X』のクリーチャーは、それまでのクリーチャーと一線を画するものだった。あの不定形の“物体”の強烈さゆえに、様々なところに影響を与えてきた。日本でもあの傑作漫画『寄生獣』がそうだし、最近の映画ではフランク・ダラボン監督の『ミスト』(2007年)があった。『ミスト』では、霧の向こう側からやってくる化け物の造形もそうだったが、それらが人間を圧倒し、まったく勝ち目がない絶望的な雰囲気まで『遊星からの物体X』の影響下にあった。
しかし『遊星からの物体X』が素晴らしいのはそれだけではない。不定形の“物体”は人間や犬などの完璧なイミテーションになることが可能だから、人間たちは「誰が本当の人間で、誰が“物体”なのか」という疑心暗鬼の渦に巻き込まれていく。これが『遊星からの物体X』が、原作『影が行く』から受け継いだ主要なモチーフなのだ。『影が行く』では、自分が怪物ではなく人間であることの証明が検討される。しかし、その証明の不可能性をなかなか崩せずに、苦し紛れに「もし心臓の真中を射って、死ななかったら、そいつは怪物だ。」などと言い出す始末なのだ。『遊星からの物体X』でも“血液テスト”の場面が重要で、人間たちの疑心暗鬼が映画に緊張感を生み出していた。
前日譚『遊星からの物体X ファーストコンタクト』は、“物体”が姿を人間にさらしすぎて無闇に暴れすぎたきらいがあり、やや緊張感に欠ける部分はあるが、全体的には楽しめた。(*2)それは『遊星からの物体X』への敬意の払い方が尋常ではないからだ。『遊星からの物体X』では、謎のままだった南極大陸ノルウェー基地の惨劇が初めて明かされる。それだけでもファンには興味津々というものだろう。スプリットフェイス誕生から、自殺した隊員、切り出された氷塊、壁に刺さった斧に至るまで、『ファーストコンタクト』から『遊星からの物体X』へときれいに結びつくように描かれている(エンディングクレジットでは『遊星からの物体X』の冒頭部分を再現している)。
もちろん前日譚の宿命なのかオリジナルを超えることはできないし、どうしてもオリジナルに似てきてしまうのだが、“血液テスト”に代わる新たなテストの試みも嬉しい。“物体”は生物を真似ることは可能だが、無機物を作り出すことができないという点に着目したテストだ。『遊星からの物体X』でも乗っ取られた隊員の下着が捨てられていた(上着があればバレないから)。『ファーストコンタクト』では、血だらけの浴室に歯の詰め物が残されている。つまりイミテーション(“物体”)には歯の詰め物はないから、もし歯の中に詰め物があるならば、「その人間は怪物ではない」と証明されることになる。もちろんこれは不完全なテストだ。“血液テスト”の場合は「誰が怪物であるか」までたちどころに明らかになるが、“虫歯テスト”では誰かが「怪物
“虫歯テスト”の結果は次のようになった。虫歯があり人間だと証明された隊員が4名、虫歯がなく怪物なのかもしれない隊員が4名、2つのグループに分かれるのだ。もしかすると人間と“物体”の数が均衡状態にあるのかもしれないのだ。これは『遊星からの物体X』での「“物体”が襲ってこないのは、まだ人間の数のほうが多いからだ」という意味の台詞を想起させる。“物体”にとっては正体が見破られたら最後なのだ。人間は火器で“物体”を殲滅するだろう。だから“物体”は狡猾に機会をうかがい、不利な場所で攻撃を仕掛けたりはしないはずなのだ。『ファーストコンタクト』では人間の数的優位すら危うくなり、すでに“物体”に周りを取り囲まれているのかと疑わせる(そうなれば全面攻撃もあるのかも)。とはいえ“虫歯テスト”の不完全性ゆえに、それが“血液テスト”ほどの緊張感につながるわけではないのだが……。それでも『遊星からの物体X』を継承しつつも、ある部分では差異化を図ろうとする製作陣の意気込みが感じられた。
『ファーストコンタクト』では女主人公ケイトが生き残るが、ハッピーエンドとは言えない不穏な雰囲気で終わる。ケイトはもうひとりの生き残りカーターを、「(無機物である)ピアスがなくなったから」という理由であっけなく焼き払ってしまうのだ。だが、カーターは断末魔に“物体”の正体を現すわけでもなく死んでしまう。もしかしたら人間だったのでは? ケイトはほとんど放心状態のままスクリーンは暗転し、エンディングクレジットに……。
『遊星からの物体X』のラストでも、「吐く息が白くないから、チャイルズが“物体”である」などという都市伝説があるようだが、『ファーストコンタクト』もあえて謎を残して終わるのだ。(*3)
昨年は『ザ・ウォード 監禁病棟』で久々に健在なところを見せてくれたカーペンターだが、『恐怖の詩学 ジョン・カーペンター』において『遊星からの物体X』の続編の製作について訊ねられ、こう答えている。
贅沢に金を使ったカーペンター作品が一度くらいあってもバチは当たるまい。『ファーストコンタクト』の影響でさらにファンが増え、「カーペンター監督で続編が始動すれば」なんて願うのはちょっと能天気すぎるだろうか。「やりたいね。すごいストーリーがあるんだ、あの最後に残されたふたりで始まる。だが、金がかかりすぎるからだれも作ろうとはしない。」
(*1) クリーチャーを創造したロブ・ボッティンと、撮影監督ディーン・カンディとの言い争いについてカーペンターは語っている。リアルに見せたいがために「照明は暗くして後ろから照らすべき」というボッティンに対し、カンディは「怪物を表に引きずり出したい」と主張する。しかしその張り詰めた状態が驚くべき視覚効果を生んだ。(ジル・ブーランジェ編 『恐怖の詩学 ジョン・カーペンター』より)
(*2) 『ファーストコンタクト』がコンピュータグラフィックスに頼りすぎなかった点は好感が持てるのだが、“物体”が廊下で人間を追いまわすのはやりすぎの感がある。凡百の殺人鬼との闘いではないのだから。
『遊星からの物体X』は同じ廊下の場面でも際立っていた。“物体”に乗っ取られた犬が廊下の陰からゆっくりと顔を出し、周囲を探りながら歩いてきて獲物を見つける。ただそれだけなのだが、そうした静かな雰囲気こそが怖いのだ。カーペンター版には“静けさ”と“間”があった。それが怖さを引き立たせる。
(*3) ちなみにノベライズでは、映画版の曖昧さに対して明確な答えが記されている。あくまでノベライズで映画そのものとは違うのだが、「やはりあの不穏さに込められた意味は……」とわが意を得たりといった感じ。
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ジョン・カーペンターの作品

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