『ボーダーライン』 善悪の境界とは関係なく、ごく個人的な復讐
原題は「Sicario」であり、スペイン語で「殺し屋」を意味する。

誘拐事件を担当していたFBI捜査官のケイト・メイサー(エミリー・ブラント)は、捜査中に麻薬カルテルのアジトに踏み込み大量の死体を発見する。仕事の成果が評価されたケイトは国防総省のマット・グレイヴァー(ジョッシュ・ブローリン)の特殊チームに加わり、麻薬カルテル撲滅のための作戦に参加することとなる。
冒頭から派手な展開で驚かせる。麻薬カルテルのアジトへの突入は家を壊さんばかりだし、そのアジトからは壁に埋め込まれた死体が次々と発見される。特殊チームに派遣されたケイトが連れて行かれるのはファレスというメキシコの街で、そこでは見せしめとして首がない死体が高架線から吊られていたりもする地獄のような場所だ。
ケイトは自分が何をすべきかもまったくわからずにチームに編成され、何の説明もされずにただ引き回されることになる。ケイトの視点は麻薬カルテルや危険な国境地帯など知るはずもない観客の視点そのものとなっていて、重低音を響かせるヨハン・ヨハンソンの劇伴はいやがうえにも緊張感を煽り、何が起きるかわからない不安を駆り立てられたまま物語は進んでいく。
※ 以下、ネタバレもあり!

邦題は『ボーダーライン』となっていて、アメリカとメキシコの国境を思わせ、同時に善悪の境界をも示しているようだ。というのも、マットが率いる特殊チームは麻薬カルテルを潰すためには超法規的な捜査も辞さないからだ。チームのコンサルタントとされているアレハンドロ(ベニチオ・デル・トロ)は、実は妻と娘を殺された私怨によって動いている殺し屋なわけで、アメリカはそれを知っていて利用しているのだ。
何も知らないケイトは生真面目に法の遵守に忠実であろうとするのだが、結局マットたちには無視される。FBIのケイトが特殊チームに編成されているのはCIAの都合によるもので、ケイトはただその場にいることだけしか求められていないのだ。ケイトは観客のための案内役みたいなもので、本当の主人公Sicario(=殺し屋)であるアレハンドロが敵地へ乗り込んでからはほとんど役割を終えてしまうのだ。
だからケイトが善悪などと悩んだところで意味がないわけで、邦題は余計なバイアスがかかったものと思えた。この作品では空撮を使って盛んに国境の街を映しているけれど、国境線の様子が強調されることはない。麻薬カルテルは国境線を無効化するトンネルを保持していて、ケイトたち特殊チームが地平線の下の暗闇へと消えていくあたりには境界線を感じなくもない(ロジャー・ディーキンスの撮影が見事)。ここではアメリカは善と悪のグレーのラインでうろついているというよりは、完全に黒に染まっているとも言えるのかもしれない。
そんなわけでこの映画は善悪のボーダーラインに悩むケイトが主人公なのではなく、アレハンドロという男の復讐の物語なのだ。だからやはり原題の「Sicario」のほうがこの映画には相応しいだろう。麻薬カルテルのボスの屋敷に乗り込むアレハンドロの姿にはある種の美学みたいなものが感じられた。クライム・サスペンス映画としてとても見応えがある作品だったと思う。
ちなみにこの作品には続編が計画されているらしい。その題名は「Sicario2」と予定されている。今回の作品のラストでケイトがアレハンドロを撃つことができなかったのは、アレハンドロのやり方を完全に否定できなかったからだろう。ケイトが続編でもさらにそんなボーダーラインに悩むとは考えにくいから、アレハンドロと共闘することになるのだろうか。
それから妙に印象に残るメキシコ人警官のエピソードだけれど、ラストではその息子が銃声に耳を澄ましているわけで、親を殺されたその息子が新たな殺し屋になる可能性を示していたのかもしれず、もしかすると続編に絡んできたりもするのかもしれない。
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