『プンサンケ』のつづき キム・ギドク脚本作品
ギドクの脚本と監督チョン・ジェホンの仕事や、その他の諸々の気づいた点について。
9月9日、ギドクの金獅子賞受賞が発表された。
第69回ベネチア国際映画祭で、ギドク監督の『ピエタ / Pieta(原題)』が金獅子賞を獲得したようだ。『アリラン』で復活を果たしたギドクだが、これでまた映画界の最前線に戻ってきたと言えるのかもしれない。とにかく何ともめでたい限り。とりあえずは手放しで喜びたい。

◆ジェホン監督処女作『ビューティフル』について
美しすぎる罪というのがあるのかどうかわからないが、絶世の美女ヘレネーはトロイア戦争の原因とはなっても、その罪によって自分が虐げられたわけではなかった。だが『ビューティフル』の主人公ウニョンは、その美貌が仇となってストーカーの被害に遭い、暴行を受ける。ウニョンは美しすぎたことでかえって幸せになれず、次第に精神を病み過食と拒食を繰り返すようになる。
『ビューティフル』はギドクが原案を担当し、ジェホン監督の長編デビュー作となった作品。この映画でどこまでがギドクの案で、どこからがジェホン監督の独自色かは不明だが、過去のギドク作品から勝手に推測することはできる。
この映画では、ウニョンを常に見守っている警察官がもう一人の主役だが、この警察官は驚くべき行動に出る。レイプされて精神を病んだウニョンに対して、また同じことを繰り返そうとするのだ。これを無理やりに解釈すれば、ウニョンの悪夢を消すためということになる。ウニョンはストーカーの幻影に悩まされ、その幻影を消さなければ生きていけなかったからだ。もう一人の主人公である警察官があえてストーカーの真似をして彼女に殺されることで、ウニョンはストーカーに復讐を果たしたという達成感を勝ち取れる。警察官は自ら犠牲になることで、ウニョンの再生を図るのだ。ギドクが書いた原案はおそらくここまで(と私には思われる)。
だがジェホン監督の『ビューティフル』はまだ終わらない。さらに狂気を帯びた主人公は、街中で通り魔的に銃を乱射して射殺されてしまうのだ。さらにエピローグでも、変態の検死官が登場して……。悲劇なのか、ブラックジョークなのか、どちらにしても後味が悪く、主人公ウニョンにしてみればまったく何の「救い」もなく、哀れとしか言いようがない映画だった。(*1)
ラストの改変はともかくとしても、『ビューティフル』は脚本の骨組みばかりが目立つように感じられ、ギドクの荒唐無稽さが際立ってしまった印象だ。
◆脚本と監督の関係
脚本と監督の仕事の関係について、黒沢清はこんなふうに語っている。
映画において、「ドラマ」部分を主に担うのが“脚本”で、「リアル」を請け負うのが“映像”になる。ここで扱われている映画は、アニメーションやCGなどではない実写映画のことで、カメラによって捉えられた現実を素材としてつくられる映画に限定されている。映画は非現実なのだが、撮影現場は現実である。カメラという機材は、ありのままの現実をそのまま切り取ってしまう。別の箇所で黒沢清は次のように語る。「映画を監督することは非現実を現実化する作業、または現実の断片を寄せ集めて非現実を作り出すことである」。ここには「リアル=現実」と「ドラマ=非現実」のせめぎあいがある。映画監督の実体験として、脚本をもとに撮影しても、そこに映るのは白々しい嘘があるだけということも多いのだそうだ。「ドラマ」を描くために、映像という「リアル」なものがあるはずなのだが、カメラを通して映される「リアル」はなかなか「ドラマ」と結びついていかない。黒沢清が映画監督を目指す学生から受ける質問でもっとも多いのが、「映画はどうやったらリアルに撮れるのか」ということだそうだ。黒沢清は監督も脚本も手がける実作者の問題意識として、映画は「ドラマ=脚本」と「リアル=映像」に引き裂かれていると語っているのだ。
上記のような黒沢清の問題意識とはずれるが、『プンサンケ』でも脚本を映像化していく部分で、監督という仕事の難しさが窺える気がした。
http://eiganotubo.blog31.fc2.com/blog-entry-356.html
上のインタビューを読むとギドクは撮影には立ち会わず、細かい部分までの口出しはしていないようだ。主人公プンサンケも脚本段階では台詞があったものの、ジェホン監督の決断で削ったのだとか。
ジェホン監督の演出は、アクションなどは悪くはない。プンサンケが非武装地帯を駆け抜けるシーンなどは躍動感がある。だがプンサンケとイノクが惹かれあっていく場面だとか(*3)、北朝鮮高官とイノクが車のなかでけんかして云々といった場面では凡庸さが目立つ。テンポが悪いのか、エモーショナルな部分が描けていないのか……。ギドクの脚本にどこまでの部分が描かれているかはわからないが、後半の両国間の戯画化などは言葉で記しやすいが、男女間の感情の交歓あるいはいざこざは、言葉だけでは示しにくいだろう。台詞はあっても、それを読み上げるだけでは伝わらないものだから。そうした部分を映像化するときに監督の力量があらわになるのかもしれない。

◆その他の気づいた点
ギドクの“死”に対する捉え方に関して、以前このブログでも記した。『プンサンケ』でも、そうしたエピソードがある。
『ブレス』では、「一度死んだことがある」と語る女性が主人公だった。『プンサンケ』でも、イノクは脱北の際に川のなかで臨死体験をする。最初は「死んだら楽になれるから助けてくれなくても良かった」などと言うが、結局はそれを否定する。これはギドクが辿った軌跡と同じだ。ギドクも、“死”は「別の世界に続く神秘のドア」ではなく、「未来を断つことであり、ドアを閉めること」だと考え直したのだ。
イノクは臨死体験のなかでこう悟る。「向こう側は何もなかった。虚空だった」。だから戻って来ることができて良かったとイノクは語るのだ(それなのに最後は追い詰められて川に身を投げてしまうのだが)。『プンサンケ』の冒頭のエピソードはこう描かれている。北朝鮮に残された家族にビデオレターが届けられる。それは脱北して韓国にいる夫からのメッセージだった。それは、ただ「生きていてくれ」という願いなのだ。もちろんこんなテーマ自体はありふれているが、ギドク作品ではどこかから借りてきたものでなく、ギドクが作品をつくるうちに辿り着いてしまうところがスリリングだし、ギドクの真摯な生きる姿勢が垣間見えるところがいいのだと思う。
(*1) 『プンサンケ』でも、イノクは酷い目に遭う。ダイヤを飲み込まされていたイノクは、それを取り出すために死体にまで手をかけられるのだ。これは資本主義批判のエピソードとしてあるのだが、映像は綺麗に撮られていてもイノクの虐げられ方を考えると、『ビューティフル』のおぞましいラストを思い出して監督の趣味を疑ってしまう(ギドクの脚本通りなのかもしれないが)。
(*2) ちなみにこの本では、黒沢清が考える21世紀の映画として、「河」を描いた映画についても触れられている。『グエムル―漢江の怪物―』『ある子供』などが挙げられている。
(*3) 『プンサンケ』では、小さな仏像がふたりを結びつける役割を果たしているようだ。だが映画のなかでそれがうまく機能しているとは思えない。ギドク映画のなかで仏様がどんな意味を持つのかはっきりとはしないが、「心の安らぎ」みたいなものが込められているような……。
ギドクについての覚え書き ←こちらのHPはギドクの過去作品について。
キム・ギドクの作品

9月9日、ギドクの金獅子賞受賞が発表された。
第69回ベネチア国際映画祭で、ギドク監督の『ピエタ / Pieta(原題)』が金獅子賞を獲得したようだ。『アリラン』で復活を果たしたギドクだが、これでまた映画界の最前線に戻ってきたと言えるのかもしれない。とにかく何ともめでたい限り。とりあえずは手放しで喜びたい。

◆ジェホン監督処女作『ビューティフル』について
美しすぎる罪というのがあるのかどうかわからないが、絶世の美女ヘレネーはトロイア戦争の原因とはなっても、その罪によって自分が虐げられたわけではなかった。だが『ビューティフル』の主人公ウニョンは、その美貌が仇となってストーカーの被害に遭い、暴行を受ける。ウニョンは美しすぎたことでかえって幸せになれず、次第に精神を病み過食と拒食を繰り返すようになる。
『ビューティフル』はギドクが原案を担当し、ジェホン監督の長編デビュー作となった作品。この映画でどこまでがギドクの案で、どこからがジェホン監督の独自色かは不明だが、過去のギドク作品から勝手に推測することはできる。
この映画では、ウニョンを常に見守っている警察官がもう一人の主役だが、この警察官は驚くべき行動に出る。レイプされて精神を病んだウニョンに対して、また同じことを繰り返そうとするのだ。これを無理やりに解釈すれば、ウニョンの悪夢を消すためということになる。ウニョンはストーカーの幻影に悩まされ、その幻影を消さなければ生きていけなかったからだ。もう一人の主人公である警察官があえてストーカーの真似をして彼女に殺されることで、ウニョンはストーカーに復讐を果たしたという達成感を勝ち取れる。警察官は自ら犠牲になることで、ウニョンの再生を図るのだ。ギドクが書いた原案はおそらくここまで(と私には思われる)。
だがジェホン監督の『ビューティフル』はまだ終わらない。さらに狂気を帯びた主人公は、街中で通り魔的に銃を乱射して射殺されてしまうのだ。さらにエピローグでも、変態の検死官が登場して……。悲劇なのか、ブラックジョークなのか、どちらにしても後味が悪く、主人公ウニョンにしてみればまったく何の「救い」もなく、哀れとしか言いようがない映画だった。(*1)
ラストの改変はともかくとしても、『ビューティフル』は脚本の骨組みばかりが目立つように感じられ、ギドクの荒唐無稽さが際立ってしまった印象だ。
◆脚本と監督の関係
脚本と監督の仕事の関係について、黒沢清はこんなふうに語っている。
「映画監督とは、脚本と映像、ドラマとリアル、非現実と現実とを強引にくっつけて何とか辻褄を合わせていく仕事のこと」 (黒沢清 『黒沢清、21世紀の映画を語る』より) (*2)
映画において、「ドラマ」部分を主に担うのが“脚本”で、「リアル」を請け負うのが“映像”になる。ここで扱われている映画は、アニメーションやCGなどではない実写映画のことで、カメラによって捉えられた現実を素材としてつくられる映画に限定されている。映画は非現実なのだが、撮影現場は現実である。カメラという機材は、ありのままの現実をそのまま切り取ってしまう。別の箇所で黒沢清は次のように語る。「映画を監督することは非現実を現実化する作業、または現実の断片を寄せ集めて非現実を作り出すことである」。ここには「リアル=現実」と「ドラマ=非現実」のせめぎあいがある。映画監督の実体験として、脚本をもとに撮影しても、そこに映るのは白々しい嘘があるだけということも多いのだそうだ。「ドラマ」を描くために、映像という「リアル」なものがあるはずなのだが、カメラを通して映される「リアル」はなかなか「ドラマ」と結びついていかない。黒沢清が映画監督を目指す学生から受ける質問でもっとも多いのが、「映画はどうやったらリアルに撮れるのか」ということだそうだ。黒沢清は監督も脚本も手がける実作者の問題意識として、映画は「ドラマ=脚本」と「リアル=映像」に引き裂かれていると語っているのだ。
上記のような黒沢清の問題意識とはずれるが、『プンサンケ』でも脚本を映像化していく部分で、監督という仕事の難しさが窺える気がした。
http://eiganotubo.blog31.fc2.com/blog-entry-356.html
上のインタビューを読むとギドクは撮影には立ち会わず、細かい部分までの口出しはしていないようだ。主人公プンサンケも脚本段階では台詞があったものの、ジェホン監督の決断で削ったのだとか。
ジェホン監督の演出は、アクションなどは悪くはない。プンサンケが非武装地帯を駆け抜けるシーンなどは躍動感がある。だがプンサンケとイノクが惹かれあっていく場面だとか(*3)、北朝鮮高官とイノクが車のなかでけんかして云々といった場面では凡庸さが目立つ。テンポが悪いのか、エモーショナルな部分が描けていないのか……。ギドクの脚本にどこまでの部分が描かれているかはわからないが、後半の両国間の戯画化などは言葉で記しやすいが、男女間の感情の交歓あるいはいざこざは、言葉だけでは示しにくいだろう。台詞はあっても、それを読み上げるだけでは伝わらないものだから。そうした部分を映像化するときに監督の力量があらわになるのかもしれない。

◆その他の気づいた点
ギドクの“死”に対する捉え方に関して、以前このブログでも記した。『プンサンケ』でも、そうしたエピソードがある。
『ブレス』では、「一度死んだことがある」と語る女性が主人公だった。『プンサンケ』でも、イノクは脱北の際に川のなかで臨死体験をする。最初は「死んだら楽になれるから助けてくれなくても良かった」などと言うが、結局はそれを否定する。これはギドクが辿った軌跡と同じだ。ギドクも、“死”は「別の世界に続く神秘のドア」ではなく、「未来を断つことであり、ドアを閉めること」だと考え直したのだ。
イノクは臨死体験のなかでこう悟る。「向こう側は何もなかった。虚空だった」。だから戻って来ることができて良かったとイノクは語るのだ(それなのに最後は追い詰められて川に身を投げてしまうのだが)。『プンサンケ』の冒頭のエピソードはこう描かれている。北朝鮮に残された家族にビデオレターが届けられる。それは脱北して韓国にいる夫からのメッセージだった。それは、ただ「生きていてくれ」という願いなのだ。もちろんこんなテーマ自体はありふれているが、ギドク作品ではどこかから借りてきたものでなく、ギドクが作品をつくるうちに辿り着いてしまうところがスリリングだし、ギドクの真摯な生きる姿勢が垣間見えるところがいいのだと思う。
(*1) 『プンサンケ』でも、イノクは酷い目に遭う。ダイヤを飲み込まされていたイノクは、それを取り出すために死体にまで手をかけられるのだ。これは資本主義批判のエピソードとしてあるのだが、映像は綺麗に撮られていてもイノクの虐げられ方を考えると、『ビューティフル』のおぞましいラストを思い出して監督の趣味を疑ってしまう(ギドクの脚本通りなのかもしれないが)。
(*2) ちなみにこの本では、黒沢清が考える21世紀の映画として、「河」を描いた映画についても触れられている。『グエムル―漢江の怪物―』『ある子供』などが挙げられている。
ギドク作品における川の役割について、こちらのHPでも記しています。「河は、何かが流れてくる、向こう側に渡る、水面を漂う、潜る、など、何かこちらとあちらの関係、不意にあらわになる外側、どこか向こう側に向かって動き出す、といったことと結びつきやすい場所なのかもしれません。三途の川を例に挙げるまでもなく、河岸と彼岸を表現するのに、監督や脚本家が、自然と選び取る場所なのでしょう。」(黒沢清 『黒沢清、21世紀の映画を語る』より)
(*3) 『プンサンケ』では、小さな仏像がふたりを結びつける役割を果たしているようだ。だが映画のなかでそれがうまく機能しているとは思えない。ギドク映画のなかで仏様がどんな意味を持つのかはっきりとはしないが、「心の安らぎ」みたいなものが込められているような……。
ギドクについての覚え書き ←こちらのHPはギドクの過去作品について。
キム・ギドクの作品

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